付き合いたて編3『制服と失われた青春』
「……本当にアホなの? お兄ちゃん」
脱衣所のドアが開き、姿を現した渚は、心の底から呆れ返ったようなジト目で俺を睨みつけていた。
着ているのは、ついこの間まで彼女が通っていた高校の制服だった。紺のブレザーに清潔感のある白ブラウス、チェック柄のプリーツスカート。
「どう?」
渚は実に不満そうな顔で、くるりと一回転してみせる。
「どうって……最高です。本当にありがとうございます」
「そうですか」
声にまったく感情がこもっていない。
それも当然だ。俺が拝み倒して、土下座せんばかりの勢いでなんとか着てもらったのだから。
渚は現在二十歳。立派な成人女性である。
そして今の彼女は、幼い頃とは違う。ここ数年、俺に「一人の女性」として見てもらおうと、大人っぽく見せる努力を陰で重ねていたらしい。
服装も。髪型も。立ち振る舞いも。
だからこそ――。
「なんで今さら、高校生に戻らなきゃいけないのよ……」
渚は鏡に映る自分を見つめながら、心底解せないといった風に溜息をついた。
「いいじゃないか」
「よくない」
「ものすごく似合ってるぞ」
「知ってる」
「そこは否定しないんだな」
「だって、高校の頃ずっと着てたもの」
ぷくっと頬を膨らませて唇を尖らせる渚。
その不機嫌そうな仕草すらも、制服を着ているせいで完全に現役女子高生のそれにしか見えない。
「いいか渚、男って生き物はな……『可愛いJKにイタズラをする』っていう一生のロマンを抱えて生きてるんだよ。それが合法的に、しかも大好きな彼女で叶うなんて、男冥利に尽きるだろ」
「絶対屁理屈……」
渚は呆れたように溜息をつきながらも、ベッドの端にちょこんと腰掛けた。
照れくささを隠すように膝をぎゅっと揃え、短めのスカートの裾を必死で下に引っ張っている。
その無防備で健気な仕草が、俺の理性を激しく揺さぶった。
俺はベッドに歩み寄ると、床に膝をつき、下から渚と目を合わせた。
「……ありがとな、渚。着てくれて」
「……べつに。お兄ちゃんがそこまで言うから、サービスしてあげただけだし」
ぷいと横を向いて頭頂部を見せる渚の耳たぶは、真っ赤に染まっていた。
不満そうな顔をしつつも、俺の我儘な頼みを断り切れずに着てくれた彼女の優しさが、たまらなく愛おしい。
「……もしかして、高校の時からそんな目で私を見てたの?」
渚が意地悪そうに目を細めて尋ねてきた。
俺はごくりと唾を呑み込み、腹をくくって素直に白状した。
「……まぶしくて直視できない程でした」
嘘偽りない本音だった。
日に日に大人びて綺麗になっていくお隣の妹を見て、どれだけ毒気のない『優しいお兄ちゃん』のフリをして汗を流していたか。
すると渚は、パッと顔を輝かせてすごく嬉しそうな表情を浮かべた。
それからふーっと小さく息を吐き、どこか遠い目をして呟く。
「……なぁんだ。そんなことなら、高校の時に告白しとけばよかったなぁ」
「やめてください。理性を保てた自信がありません」
切実な俺の懇願に、渚は「あははっ」と楽しそうに声を上げて笑った。
「私は全然良かったんだけどな」
「本人同士が良くても周りが許してくれません」
世間の目も、お互いの両親の顔も。何より連合きょうだい達の怒りの拳が飛んでくる。
「……ふふ、お兄ちゃん、私のこと大事に思ってくれてたんだ」
俺の言葉をどう受け取ったのか、渚はうっとりとしたように頬を緩め、愛おしそうに微笑んだ。
どちらかといえば自分の立場と社会的な死を防ぐための『自己保身』だったのだが、その言葉は野暮なので胸の奥に仕舞い込んでおくことにした。
◇◇◇
「誰かさんのせいで、暗い青春時代だったんだから」
渚が、ぽつりと落とすように言った。
「……え?」
最初は冗談だと思った。
けれど、渚の顔から笑みが消えていた。
「私の青春」
そう言って、渚は少しだけ視線を下に落とした。
「友達はみんな、普通に恋バナをしてたんだよ」
誰々くんが好き。
誰々くんから告白された。
付き合ったけど、すぐ別れた。
そんな甘酸っぱい話を、放課後の教室で友達同士楽しそうにしていたらしい。
「上手くいくことばかりじゃなかったよ」
渚は自嘲気味に小さく笑った。
「泣いてる子もいたし、振られて落ち込んでる子もいた」
「……うん」
「でもね」
一度言葉を切り、ブレザーの裾をぎゅっと握りしめる。
「みんな、すごく楽しそうだった」
胸の奥が、ツンと痛んだ。
「私も、ああいうのしたかったなって、ずっと思ってた」
「でも、私の好きな人、五歳も年上だったから」
渚が切なそうに苦笑する。
「なんで私の好きな人は、五歳も年上なんだろうって、何度も思った」
その言葉が、鋭く胸に刺さった。
「せめて二歳差ならよかったのに」
「二歳差?」
「うん」
渚が静かに俺を見つめる。
「そしたら一年だけでも、同じ学校に通えたでしょ?
一緒に登下校したり、文化祭回ったりできたでしょ?」
俺は言葉を失い、俯くことしかできなかった。
知らなかった。そんなことをずっと一人で考えていたなんて。
俺はずっと、「自分は正しく誠実な行動をしている」つもりだった。
渚はまだ子どもだった。
だから変に意識させてはいけない。
俺が大人として距離を取り、理性を保つこと。
それこそが渚のためであり、お兄ちゃんとしての誠意だと思っていた。
だけど、当時の渚にとっては――大好きな人にただ避けられ、拒絶されているような悲しい時間だったのかもしれない。
「お前が高校生のときに、俺が同じ高校に通えるくらいだったら……」
俺の悔恨の呟きに、渚は優しく首を横に振った。
「それでも、お兄ちゃんを好きになってたと思うよ」
「……そうか」
「うん」
そして、どこか吹っ切れたように小さく笑った。
「俺も……こんなに可愛い彼女がいる青春時代を送ってみたかったな」
どれだけ願っても、過去に戻ってそれをやり直すことはできない。
その時、渚の手がそっと伸ばされてきた。
俺の手に指先が触れる。
俺も吸い寄せられるように、その小さな手を包み込むように握りしめた。
「……ねえ」
「ん?」
「じゃあ、その分、これから一緒にいよう」
渚が、俺の手をぎゅっと力強く握り返してきた。
「全部……これから二人で作っていこうよ」
熱いものが、胸の奥からこみ上げてきた。
「……そうだな」
俺も、握りしめた手にぎゅっと力を込める。
「失った時間なんて吹き飛ばすくらい、これからずっと一緒にいよう」
「うん!」
渚は心底嬉しそうに、満面の笑みで頷いた。
やり直せない過去を嘆く必要なんてない。
これから先の未来なら、俺たちの前にはいくらでもあるのだから。
だから俺は、今度こそこの手を絶対に離さない。
昔の俺は、渚を守るために「距離を置く」ことを選んだ。
でも、これからは違う。一番大切だからこそ、いつだって一番近くの隣にいる。
深く心にそう誓いながら、俺は制服姿の愛おしい彼女を、強く胸に抱きしめたのだった。




