再出発編4『俺の降伏宣言』
大人数に囲まれては逃げ場もない。
俺は観念するしかなかった。両家総出で待ち構えられていたのだ。
全員に部屋へ連行され、つるし上げられての弾劾裁判を覚悟した。
だが意外なことに、俺は自分の部屋へぽいっと放り込まれただけだった。
パタンとドアが閉まり、室内にいるのは俺と渚だけ。
もっとも、扉の向こうからは何人もの気配がしている。
聞き耳を立てているのは間違いない。
たぶん今ここで変なことを言ったら、壁越しに全員からツッコミが飛んでくるはずだ。
けれど、渚はそんなことを気にしている様子もなかった。
気まずさにどう切り出したものかと立ち尽くす俺の前で、渚が静かに口を開いた。
「私は、10年待ったんだよ」
「……それは、知ってる」
幼い頃からずっと俺だけを追い続けてくれていたこと。それがどれだけ一途で、重く、愛おしいものだったか、俺はもう痛いほど知っている。
だが、その続きの言葉は、完全に俺の意表を突くものだった。
「だから……もう10年でも待てるよ。20年でも、30年でも待てるよ」
「……は?」
「お兄ちゃんがまだ迷うなら、何度でもアタックする。
絶対に、もう一回お兄ちゃんを振り向かせるんだから」
とんでもないことを言っている。
10年待って、さらに20年でも30年でも待つ?
気が遠くなるような年月だ。彼女の人生のほとんどを俺ひとりに捧げるなんて宣言を、この期に及んで迷いなく言えてしまうのか。
俺はずっと、渚のために身を引いたつもりだった。
俺が一緒にいなければ、渚はもっと幸せになれる。
俺なんか忘れて、もっと普通に恋愛をして、もっと普通に青春を送って、もっと普通に誰かと結婚して。
――そう思っていた。
だから別れた。
俺が苦しめば、それで済むと思っていた。
呆然とする俺の前に渚が歩み寄り、服の裾をぎゅっと力いっぱいに握りしめた。瞳に涙を溜めながら、まっすぐ俺を見上げてくる。
「だから……逃げないでください」
最後の一言は、真剣そのものだった。
俺は言葉を失ったまま、ただ目の前の渚を見つめることしかできなかった。胸の奥が激しく揺さぶられ、あまりの重みと愛おしさに息が詰まる。
そのとき、扉の向こうから、ヒソヒソ声が漏れ聞こえてきた。
「……よし」
「……お母さん、まだ早いって」
「静かに。聞こえるでしょ」
「いや、普通に聞こえてるから」
小声のつもりなのだろうが、全部聞こえている。
俺と渚は顔を見合わせた。
「……いるよね」
「うん」
「いっぱい」
「うん」
渚が笑う。
俺も、久しぶりに笑った。
こんな状況なのに。
それが、なんだか妙に懐かしかった。
◇◇◇
「……俺は、そんなにいい男じゃないぞ」
頭の中に浮かんだいくつもの言い訳を削ぎ落として、ようやくひねり出したのは、情けないくらいに格好のつかない一言だった。
年の差もある。
情けないところだって山ほどある。
お前が夢見ているような完璧な『かっこいいお兄ちゃん』なんかじゃないんだ――そんな意味を込めた言葉だった。
だが、渚は拍子抜けするくらいあっけらかんと笑った。
「ふふっ、そんなこと、とっくに知ってるよ」
涙を指先で拭いながら、渚はくすくすと笑い声を漏らす。
そして、あろうことか俺の情けないエピソードを次々と語り始め出した。
「小学生のとき、木登りして降りられなくなって泣いてたでしょ?
中学生のときはお化け屋敷で私を盾にして逃げようとしたし、高校のテスト前には『俺は覚醒した』とか言って徹夜して、結局赤点取って補習受けてたじゃない」
「ッ……! おい、やめろ……ッ!」
次から次へと暴露される黒歴史の数々に、俺の顔はみるみるうちに沸騰していった。恥ずかしすぎる。ドアの外で聞き耳を立てている両親や洋に聞こえたらどうするんだ。
だが、次々と口をついて出る俺の失敗談を聞いているうちに、不意に胸の奥が熱くなった。
この子は、どれだけたくさんの俺を見てきたんだろう。
俺が格好つけている姿だけじゃない。情けない姿も、ダサい失敗も、格好悪いところも全部、一番近くで見続けてきてくれたのだ。
そのすべてを知った上で、彼女は「20年でも30年でも待てる」と言ってくれた。
「……ね? だから、いい男じゃないことなんて、最初から知ってるの」
渚は思い出し笑いを浮かべたまま、俺の服の裾をギュッと握り直した。その瞳には、からかうような色と、溢れんばかりの愛おしさが同時に宿っていた。
「格好いいお兄ちゃんじゃなくていいの。私が好きなのは……昔からずっと、そのままのお兄ちゃんだよ」
◇◇◇
「一番ダサかったのは、一人で抱え込んだことかな」
渚の小さな人差し指が、俺の胸元をビシッと指さした。
「一人でも渚を守っていけるようにって、強くなろうと思った……それが間違いだったのだろうか」
ぽつりと漏らした俺の呟きに、渚は呆れたような、でもどこまでも優しい目を向けた。
「頑張ったことは、間違いじゃないよ」
「……」
「お兄ちゃんが頑張ってくれたこと、私だって嬉しかった」
そして、少しだけ笑う。
「でもね」
また俺を指差した。
「頼ればよかったんだよ」
「……」
「だって、お兄ちゃんは今まで一人で生きてきたわけじゃないでしょ?」
言われてみれば、その通りだった。
俺が困った時には、いつも誰かがいた。
両親がいた。夏美姉がいた。美凪さんがいた。洋がいた。
そして、渚がいた。
俺が何かを頑張るたび、誰かが支えてくれていた。
「みんなに支えてもらって、今までやってきたんだから」
渚は部屋の外をちらりと見る。
扉の向こうには、きっと今もみんながいる。
「こんなにあったかい家族のみんながいるんだよ」
その言葉に、胸が詰まった。
「だから……」
渚が俺を見る。その目には涙が浮かんでいた。
それでも、笑っていた。
「お願い」
そして――。
「みんなの元に帰ってきて」
何も言えなかった。
この子は。
この期に及んで。
自分より家族たちを優先するようなことを言う。
自分がどれだけ傷ついたのか。
どれだけ泣いたのか。
どれだけ俺を待ったのか。
そんなことよりも、俺がみんなのところへ帰ってくることを願っている。
もっと自分のわがままを通したっていいはずなのに。この期に及んで、自分ひとりの恋心より、両家の家族たちの繋がりや温もりを優先するようなことを言う。
どれだけ俺のことを、そして俺たちの周りの人間を大切に思ってくれているんだろう。
胸の奥から突き上げてくる熱いものに、喉の奥がキュッと締めつけられる。
今、口を開けば、みっともなく声を上げて泣いてしまいそうだった。
俺は強くなろうとしていたんじゃない。ただ傷つくのが怖くて、責任から逃げて、格好をつけていただけだったのだ。一人で背負うフリをして、一番大切なこの子からも、温かい家族からも背を向けていたのは俺の方だった。
目元が熱く潤んでいくのを誤魔化すように、俺は深く息を吐き出し、天を仰いだ。
「……ずるいよ、お前は」
かすれた声で絞り出せたのは、それだけだった。
渚は握っていた俺の服の裾をパッと離すと、今度はこちらの首元に思いっきり飛びついてきた。華奢な腕が、俺の首にぎゅっと回される。
「ずるくなんてない。……お兄ちゃんが泣きそうな顔してるの、バレてるんだからね」
耳元で囁く渚の声も、少しだけ震えていた。
扉の向こうから、鼻をすする音が聞こえた。
「……お母さん、泣いてる?」
「泣いてないわよ」
「めっちゃ鼻すすってるけど」
「うるさい」
「お前ら静かにしろ」
洋の小声まで聞こえてくる。
俺は思わず、笑ってしまった。
涙が一滴、頬を伝った。
「……帰るよ」
やっと、それだけ言えた。
「うん」
渚が笑った。
「おかえり、お兄ちゃん」
その言葉に。
今度こそ、涙を止められなかった。
◇◇◇
「どうせお兄ちゃんは、もてないんだから」
唐突な一言だった。
「この先ずっと一人で、寂しくなって……私のところに戻ってくるに決まってるんだから」
力強く言い切られた。
「……お前な」
呆れてしまう。
けれど、その自信満々な顔を見ていると反論する気にもなれなかった。
完敗だった。
俺は、もてない。
たぶん、これからも。
別にもてたいとも思わない。
そして――これ以上に俺のことを思ってくれる女性が現れるわけもない。
10年も俺を想い続けて。
俺がどれだけ情けない人間なのかも知っていて。
それでも好きだと言ってくれる。
俺が逃げても。
傷つけても。
それでも、もう一度手を差し出してくれる。
そんな女の子が、この先また現れるなんて俺にはとても思えなかった。
「……っ、ごめん……ごめんな、渚……っ」
俺は力いっぱい彼女を抱きしめた。
涙が目尻から溢れ、みっともなくポロポロと零れ落ちていく。
格好つけて逃げ回って、傷つけて、不安にさせて。それでも俺を諦めずに追いかけてくれた小さな肩を、二度と手放さないように固く抱きしめた。
「お兄ちゃん……?」
胸の中で、渚が驚いたように息をのむ。
「もう逃げない……どこにも行かないから……。俺を、お前の隣にいさせてくれ」
「……うんっ! うん……っ!」
渚も俺の背中に回した腕にギュッと力を込め、俺の胸に顔をうずめて泣き出した。
告白された日、俺は『一生分の幸運を使い切った』と思った。
――いや、間違いなく使い切っていたのだ。
そして、これ以上に贅沢で、誇らしくて、最高の幸運の使い方なんて、地球上のどこにもありはしなかった。
◇◇◇
「……で? いつまでドアの前で抱き合って泣いてるつもり~?」
不意にパタンとドアが開いた。そこには呆れ顔の夏美姉と、ニヤニヤが止まらない洋、そして目元をぬぐっているお母さんたちが立ち並んでいた。
「お前ら……盗み聞きどころか堂々と開けやがったな!?」
「だって静かになったと思ったら泣き声聞こえてくるんだもん!
ほら、主役の二人が揃ったところで、今度こそ本当の乾杯するわよ!」
涙と鼻水でグチャグチャな顔のまま笑い合う俺と渚。
隣で真っ赤な顔をして俺の手をぎゅっと握りしめる可愛い彼女と、それを温かく冷やかす大好きな家族たち。
針のむしろなんて、とっくに心地いい温もりに変わっていたのだった。
次回、最終話になります。




