再出発編3『さらなる悲劇、そして』
仕事中だというのに、スマホがしつこいくらいに振動を続けていた。
着信画面を見なくても分かる。洋か、夏美姉か、あるいは両家の親たちの誰かだ。
通知欄には恐ろしい勢いでメッセージが溜まっていく。
画面を一瞬確認するだけで、胸がギュッと締め付けられるような罪悪感が押し寄せてきた。
いっそ電源を切ってしまいたかった。
だが、あいにく今は進行中の案件を抱えている。取引先や上司からの急ぎの連絡が入る可能性を考えると、切るわけにはいかない。それが余計に俺の精神をすり減らしていった。
定時を過ぎ、逃げるように荷物をまとめる。
正面玄関から出たら家族の誰かに待ち伏せされているのではないか――そんな胸騒ぎが拭えず、周囲の目を盗むようにして社屋の暗い裏口からこっそりと外へ抜け出した。
冷たい夜風が、疲弊しきった頭を少しだけ冷やしてくれる。
(……部屋にも、誰か待ち伏せしてるかもしれないな)
もし俺のマンションの前に誰かが張り込んでいたらと思うと、とてもじゃないが家に帰る気にはなれなかった。
足を早め、オフィス街の路地裏にある小さな居酒屋ののれんをくぐる。店内は仕事帰りの会社員たちで賑わっていた。カウンターの隅っこに腰を下ろし、とりあえず生ビールと適当なつまみを頼む。
冷えたビールを喉に流し込むが、苦いアルコールが胃に落ちていくだけで、酔いも味わいも何も感じない。
さて、どうやって時間をつぶそうか。
終電ギリギリまでここで一人で飲み明かすか。それとも、ネットカフェかホテルでも探して今夜はそこに逃げ込むか。
渚を傷つけ、逃げ出し、家族からも見放されようとしている。
暗い店内、グラスの氷がカランと音を立てた。俺は逃亡者のような気分で、居場所のない夜の時間をただ持て余していた。
◇◇◇
「……まさかと思ったけど、こんなとこに居やがったか」
突然眩しい光が差し込み、俺はとっさに手で目を遮った。照らされたスマホのライトの向こう側に立っていたのは――洋だった。
ここは実家の近所の橋の下。ガキの頃、二人で『秘密基地』にしていた場所だ。もっとも、秘密でも何でもなく親たちにも筒抜けだったし、当時はまだ幼稚園児だった渚ですら「お兄ちゃんたーち!」と嬉しそうにやってきていたくらいだが。
居酒屋を出た後、どうしても足が家に向けられず、気づけばこの思い出の場所に辿りついていた。
「……他人行儀に『卒業おめでとう』って言ってやれば、それで満足かよ」
ライトの眩しさに顔を顰めながら、俺はわざと吐き捨てるように冷たい声を投げかけた。拒絶の壁を作らなければ、自分が崩れてしまいそうだったからだ。
だが、洋は俺の刺々しい態度に怒る素振りすら見せなかった。
「今さらそんなことはどうでもいい」
洋の言葉には熱がなく、その声は酷くかすれていた。
怒りというよりは、すべての感情が抜け落ちてしまったかのように冷え切っている。
しばしの沈黙の後、洋はポツリと続けた。
「渚が死んだ」
――こいつ、何を言っている?
夜の川のせせらぎだけが、やけに大きく耳に響く。
「……は? なに冗談言ってんだよ、洋。笑えないぞ」
乾いた笑いを漏らそうとしたが、顔の筋肉が強張って引きつる。
洋の持つスマホのライトが激しく震えていた。その光に照らし出された洋の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡れていた。
「冗談なわけねぇだろ……ッ! 卒業式の後、お前を追って……車に……っ!」
洋の言葉が、脳内で意味を結ばない。
渚が? 死んだ? あの渚が?
「……嘘だ」
声が震えた。膝から崩れ落ちそうになるのを必死で踏みとどまる。
「嘘だろ……! なんで……なんでだよ渚……ッ! 」
「お前が逃げたからだろ……!! なんで……なんで傍にいてやらなかったんだよ!!」
怒号と泣き声が橋の下に響き渡る。
だが、俺の頭の中は真っ白で、ただただ冷たい絶望だけが全身を駆け巡っていた。
「卒業式の後……『なんでお兄ちゃんいないの』ってわんわん泣いて……やっぱりお兄ちゃんに会いに行くって、周りも見ずに走り出して……車にひかれたんだ!」
洋の声はどこまでも平坦で、だからこそ狂おしいほどの現実味を帯びていた。
「……最期までアイツらしいよ」
洋は無理に顔を歪めて笑おうとした。だが、目からはボロボロと溢れ出す涙が止まらない。
「最期まで……お前を呼んでたんだからな」
「嘘だ……ッ!」
頭の中で何かが激しく弾け飛んだ。世界がグラグラと揺れる。足が勝手に動き、掴みかかるように洋へ一歩踏み出した。
「よるなッ!!!」
橋の下の静寂を切り裂くような、聞いたこともない叫び声。
一瞬で空気が凍りついた。
洋の瞳には、かつて一度も見せたことのない、ドロドロとした本物の憎悪がこもっていた。
幼い頃から兄弟同然に育ち、くだらないことで笑い合ってきた男の顔ではなかった。
「……なんでお前は、のうのうと生きてやがる!!」
洋は血が滲むほど固く拳を握りしめ、喉をかき毟るような声で叫んだ。
「死んで詫びろ……! 死んで渚に詫びろッ!!」
それだけを叫ぶと、洋は俺に背を向け、暗闇の中へと走り去っていった。遠ざかる足音が夜の空気に溶けて消えていく。
俺は、一人取り残された。
冷たいコンクリートの上に崩れ落ち、膝をつく。
(……死んで詫びろ)
親友の叫びが、耳の奥で何度も何度もリフレインする。
渚が死んだ。
俺を追って、車にはねられて。
『お兄ちゃん!』と無邪気に笑っていた笑顔も。
『ずっと好きでした』と震える声で言った告白も。
『帰りたくないな』と寄り添ってきた温もりも。
全部、俺が殺したんだ。
「仕事が大変だから」「自分が傷つきたくないから」なんて言い訳をして逃げ出したせいで、彼女の命を、未来を、奪い去ってしまった。
「あぁ……ぁ……っ」
声にならない悲鳴が漏れる。胸を締め付ける激痛に耐えかねて、俺は地べたに伏せ、砂交じりの地面を拳で叩きつけた。
血が滲んでも、何も感じない。
洋の言う通りだ。なんで俺は生きているんだ。どうして死んだのが渚で、俺がこんな場所で息をしているんだ。
夜の風が冷たく頬を撫でていく。
渚のいない世界で、俺はただ、終わりのない暗闇の中に突っ伏していた。
◇◇◇
ヨロヨロと自宅に向かう。
「絶対そんなわけない……ッ」
声に出して自分に言い聞かせる。
今日はみんなそろって祝いの席のはずだ。笑顔で花束を渡して、お祝いをしているはずなんだ。
だが、住宅街に入り、俺の視界に飛び込んできたのは静まり返った光景だった。
俺の自宅も、隣の渚の家も――真っ暗だった。
明かりひとつついていない黒いシルエットが、否応なしに残酷な現実を突きつけてくる。
本当に渚はいないんだ。俺が殺してしまったんだ。絶望の波が押し寄せ、視界が歪む。その場に崩れ落ちそうになった、その時。
「お兄ちゃん、やっと捕まえたー!」
――ぎゅッ!!!
背後から強い衝撃とともに、柔らかく温かい塊が思い切り俺に飛びついてきた。香ばしくて甘い、いつもの渚の匂いが鼻腔をくくすぐる。
「……え?」
「もう! どこ行ってたのよバカお兄ちゃん! 携帯も出ないし、どれだけ探したと思ってるの!?」
抱きついてきたのは、袴姿のままの渚だった。涙目でぷんぷんと怒りながら、俺の胸に顔をすり寄せてくる。
生きてる。温かい。心臓が動いている。
ボー然と立ち尽くす俺の周りに、暗闇からゾロゾロと影が集まってきた。うちの両親、隣のおじさん、おばさん、夏美姉、そして――さっきまで泣き叫んでいた洋。
「あーあ、まんまと引っかかりやがって! 俺の演技も大したもんだろ?」
洋がしてやったりという顔でニッカニカと笑う。
(……あ、そういえばこいつ、高校時代、元演劇部だった……!)
「洋、お前……ッ!! 死んだって……車にはねられたって……!!」
「だってそうでも言わなきゃ、お前ずっと逃げてただろ! 渚が卒業式で泣き崩れたのは本当だけどな!」
「ちょっとちぃ兄ちゃん! 死んだとか縁起でもない嘘つかないでよ!」
渚が洋にポカポカと拳を振り下ろす。
「……っ、ふざけんなよ……!! ほんとに……ほんとに死んだと思ったんだぞ……ッ!!」
安堵と怒りと、あまりの情けなさに、今度は俺の目から勝手に涙が溢れ出してきた。地べたに膝をつきそうになる俺を、渚が力いっぱい抱きしめ返してくる。
「ごめんね、お兄ちゃん。脅かしてごめんなさい……。でも、もう逃がさないから」
00年代ギャルゲー風ということで、当時全盛を極めた鬱ゲーっぽい展開を取り入れてみました。
ChatGPTさんのドン引きっぷりが面白かったです。
Geminiさんですら本作最大の問題点として指摘してました。
各メーカーがシナリオの痛さを競っていた時代。
もしかしたら、やっぱり異常だった気がします。




