夏休み編8『帰宅後の違和感』
川から上がって冷えた身体を日差しで温めながら、歩いて30分。俺たちは古民家へと戻ってきた。
まずは二人で順番にシャワーを浴び、さっぱりとした部屋着に着替える。川の砂と甘い冷や汗を綺麗に洗い流すと、身体の力が抜けていくような心地よい脱力感に包まれた。
「お兄ちゃん、冷えてるよ!」
渚が台所から持ってきてくれたのは、井戸水で冷やしておいた真っ赤なスイカだ。
二人で並んで縁側に腰を下ろし、庭の緑を眺めながら同時にかぶりつく。シャクッと心地よい音が響き、甘い果汁が口いっぱいに広がった。
風鈴がチリンと涼しげな音を立て、蚊取り線香の煙がゆっくりと立ち上っている。
ザ・日本の夏、という気がした。
実際の現代日本で、こんなコテコテの夏休みを体験したことのある人間がどれだけいるのかは知らない。けれど、目の前にあるこの時間は、間違いなく俺たちが憧れていた「夏」そのものだった。
「……ふぁあ」
スイカを食べ終え、種を庭に飛ばし終えた頃。川遊びで体を動かした疲れと、お腹が満たされた満腹感が押し寄せてきて、猛烈な眠気が襲ってきた。
「ん……? お兄ちゃん、眠くなってきたの?」
あくびを噛み殺している俺の横顔を覗き込み、渚がふふっと悪戯っぽく笑った。
「膝枕、する?」
少し首をかしげ、挑発的に聞いてくる渚。
(えっ……膝枕……? 渚の柔らかい太ももに頭を乗せてもらえるのか……!?)
甘いシチュエーションを想像し、一瞬で心が躍った俺だったが――
「はい、お邪魔しまーす」
「お前がするんかーい!!」
言うやいなや、渚はごろんと横になり、俺の膝の上に自分の頭をストーンと乗せてきた。
膝枕されたかったなんて情けない本音を口にするのはあまりにも悔しかったので、俺は「……まあな」と平静を装って黙り込むことにした。
そもそも、男のゴツゴツした硬い膝枕なんてものが、寝心地の良いものなのかどうか俺には分からない。
だが、俺の膝の上で小さく丸くなり、髪からほのかにシャンプーの香りを漂わせながら「えへへ、お兄ちゃんのお膝、あったかい……」と心底嬉しそうに目を細める渚を見ていると――まあ、これはこれで良しとしよう、という気になってくる。
「お兄ちゃん……大好き……」
まどろみの中で小さく呟き、俺の腰に両腕を回して甘えてくる渚。
頭を撫でてやると、彼女は満足そうに小さな息を吐き、そのままスースーと規則正しい寝息を立て始めた。
風鈴の音とセミの声を聴きながら、俺は膝の上の愛おしい重みを感じつつ、静かで甘い午後の微睡みへと落ちて行ったのだった。
◇◇◇
夜。
縁側に出ると、そこに立っていたのは――まさかの浴衣姿の渚だった。
紺地に淡い撫子の花が散らされた、清楚で大人っぽい浴衣。髪も少しアップにまとめていて、首筋の白い肌が月に照らされて妙に色っぽい。
「……お前、そんなものまで持ってきてたのか?」
驚いて尋ねると、渚は帯の結び目を両手で少し弄りながら、恥ずかしそうに上目遣いで答えた。
「だって……お盆だし、田舎の夏祭りとか盆踊りとか、あるかもしれないなって思って……」
「それはさすがに都合が良すぎるだろう……」
思わず苦笑いが漏れた。
ここは知り合いもいない山奥の古民家だ。仮にどこかで小さな夏祭りが催されていたとしても、どこから来たのかも分からない異邦人の俺たちがひょっこり紛れ込んでいいものかも分からない。
「……変、かな? 楽しみに持ってきちゃったんだけど」
心底残念そうにしゅんと肩を落とす渚。だが、その落ち込む姿すら反則級に可愛かった。
「変なわけないだろ。めちゃくちゃ似合ってる。……ただ、祭りはないけどな」
「えへへ、ほんと? 似合ってる?」
褒めた瞬間にパァッと顔を輝かせる彼女を見ていると、この楽しみにしていた気持ちを無駄にしてやりたくない、という気持ちがこみあげてくる。
「じゃあ、花火しよう!」
バケツに水を汲んで準備を整え、夜の静かな庭に降りる。
ろうそくの火から渚の手持ち花火へ、パッと赤い火が移った。
「見て見て、お兄ちゃん! すっごくキレイ!」
パチパチと音を立てて弾ける鮮やかな火花に、渚は見とれたり、嬉しそうに大きく振ってはしゃいだりしている。花火の光が、彼女の笑顔と浴衣姿をぱっと鮮やかに浮かび上がらせる。他の男に見せなくて本当に良かったと、俺は密かに胸をなで下ろしていた。
何本かの花火を順番に楽しみ、宴のシメはもちろん――線香花火だ。
一本ずつ火をつけ、息を殺して見守る。
最初は小さくチリチリと咲いていた火花が、次第に勢いを増してバチバチと松葉のように弾ける。そのオレンジ色の光を見つめる渚の横顔は、昼間の甘えん坊な彼女とはどこか違って、ハッとするほど大人びて見えた。
やがて、勢いは衰え、ジジジ……と小さな火の玉だけが残る。
ぽとん。
儚く落ちた火玉が闇に消えると、庭に静寂が戻ってきた。
「……落ちちゃったね」
「そうだな」
ジュッと水バケツの中で消える小さな音。どこかしんみりとした空気が、二人の間に流れる。
「なんか……夏の終わりって気がするね」
渚がぽつりと呟いた。
昼間の川遊びの賑やかさも、スイカの甘さも、全部この小さな火花と一緒に過ぎ去っていくような、胸がキュッとなる切なさ。
「……でもね」
渚がそっと俺の隣に寄り添い、浴衣の袖越しに俺の手をギュッと握りしめてきた。
「今年のお夏は、今までで一番……ううん、一生忘れられないくらい、幸せな夏だったよ」
見上げつづける潤んだ瞳には、二人だけの甘い思い出と、俺への深い愛おしさが満ちていた。
◇◇◇
星空は期待した程ではなかったにせよ、都会に比べれば十分綺麗だ。
「今日は二階で寝よ」
花火を終えて空を見上げながら、渚が言った。
「なんで?」
「少しでも星空に近いところで寝たい」
なるほど。
まあ、気持ちは分からなくもない。
2階の畳部屋。窓際に布団を二つ並べて敷く。網戸越しに吹き込んでくる涼しい夜風を感じながら、星空をみながら体を寄せ合った。
昼間の熱気もすっかり冷め、静かな夜の暗闇が二人を包み込む。浴衣の隙間から伝わってくる渚の体温と、甘い肌の匂い。互いの吐息がかかる距離で視線が交ざり合い、自然と雰囲気が熱を帯びていく。
渚がそっと瞳を閉じ、ゆっくりとその唇に向かって自分の唇を重ねた。
そして――
バタバタバタバタッ!!
頭上から響き渡る、あまりにも豪快な走行音。
初日に田舎の洗礼を浴びせた屋根裏の主が、俺たちの甘い雰囲気をあざ笑うかのように元気に走り抜けていった。
「ひゃあッ!?」
「うわッ!?」
ロマンチックなムードは一瞬で吹き飛び、俺と渚は反射的に抱き合ったまま跳ね起き、布団の上で飛び退いた。
屋根裏の主は、最後までやな奴だった。
「もーっ! なんなのあいつーっ! いいところだったのに!」
渚が天井を指さしてプンプンと怒り、俺は脱力して畳の上に倒れ込んだ。
腹を抱えて笑い出す俺を見て、渚も最初は悔しそうにしていたものの、すぐに我慢できなくなったようにクスッと笑い出した。
「ふふっ……まあ、この家らしくていいか」
「そうだな。完璧なロマンチックより、俺たちにはこれくらいが丁度いいのかもしれない」
笑い転げた後、俺たちはもう一度布団に潜り込み、今度は逃がさないように渚をしっかりと腕の中に抱きしめた。
屋根裏の主の運動会をバックノイズにしながら、俺たちは笑い声とともに、二人の最高の夏休みの最後の夜を過ごしたのだった。
◇◇◇
こうして無事に期限付き転勤は終了し、自分のマンションへと帰宅した。
荷物を部屋の真ん中に放り出し、静まり返った室内を見渡す。渚は実家へと帰っていったので、部屋には当然、俺一人だ。
……なんだか、ものすごい違和感がする。
そもそも、この部屋に引っ越してすぐあの古民家へ転勤になったため、ここはまだ「我が家」という感じが薄い。ぶっちゃけ、あの古民家の方がずっと愛着があるくらいだ。
「……そうだろう、渚」
無意識に口から溢れた言葉。
言った直後、俺はハッとして空間を仰ぎ見、そのまま固まってしまった。
違和感の本当の正体に、ようやく気づいてしまったのだ。
渚が、いない。
たった2ヶ月弱の古民家での二人暮らし。朝起きて「おはよ、お兄ちゃん」と笑う顔も、ご飯を作ってドヤ顔をする姿も、夜に甘えて擦り寄ってくる体温も。
いつの間にか、渚の存在がすっかり俺の生活の一部……いや、当たり前の「日常」になってしまっていたのだ。あんなに必死で「ただの隣の妹」だと自分に言い聞かせていたのが嘘みたいに、彼女のいない部屋がこんなにも広く、寂しく感じるなんて。
(……参ったな、これ)
苦笑いしながら頭をかき、俺は一人で布団に入り込んだ。
古民家で二人で並んで寝ていたぬくもりが恋しくて、抱き枕代わりに毛布を少し強めに抱きしめる。
でも、まあ……、明日からはまた、「お兄ちゃん、入るよー!」なんて言いながら、毎日のように俺の部屋に入り浸りに来るのだろう。いや、絶対に来る。
そんな甘くて騒がしい明日への期待を胸に抱きながら、俺は静かな一人きりの夜に、そっと瞼を閉じたのだった。
中盤戦の夏休み編は今回までです。
次から転パートと言いたいところですが、まだイチャイチャ分が足りないので、もう少し承パート続きます。
ちなみに屋根裏の主も実体験ベースです。
最初の就職先の寮、築30年ほどでしたが、屋根裏には何かが住み着いてました。
よく走り回ってました。
ある日、コケた音が聞こえました。
寮仲間たちと大笑いしました。
そんな思い出から拾った描写です。




