夏休み編7『なつやすみのしゅくだい』
季節は早くも9月、滞在予定の折り返しを疾風のように通り過ぎていた。
「ただいま」
玄関を開け、少しずつ秋の気配が混じり始めた居間を抜けて縁側へ向かうと、渚が縁台から足をパタパタと遊ばせながら棒アイスをかじっていた。
どこか懐かしい蚊取り線香の香ばしい煙が風に乗って漂ってくる。
ハイテクな虫よけスプレーや電子蚊取りなど色々試した結果、「結局、昔ながらの渦巻き蚊取り線香が一番持ち運びしやすくて強力」という、なんとも風情のある結論に達したのだ。
ふと見ると、縁側を大きめの虫が悠然と徘徊している。
パシッ。
ハエたたきを一閃。
渚は表情一つ変えず、何事もなかったようにアイスをシャリッと噛みくだいている。
最初に到着した夜、泣き叫んで抱きついていたのがまるで嘘のようだ。
やっぱりこの娘、根はめちゃくちゃたくましいのかもしれない……。
「お帰り、お兄ちゃん。お仕事お疲れさま」
アイスを口にくわえたまま、渚がふわりと微笑みかけてくる。俺は彼女の隣に腰を下ろし、会社での報告事項を切り出した。
「あ、そうだ。入院してた支社の人、経過がかなり順調みたいでさ。もしかしたら予定より早く帰れるかもしれない」
「え……?」
アイスをかじる渚の手がピタリと止まった。
「本当? 予定より早く……?」
渚にあからさまに名残惜しそうな影が差した。
「……そっか。帰れるんだ……」
最初にこの古民家に到着した夜、「こんな古い家ヤダ! 虫怖い! 今すぐ帰りたい!」とシクシク泣いていたのは一体誰だっただろうか。
すっかりこの田舎の古民家生活に馴染み、たくましく適応した渚は、どこか寂しそうな目で庭の緑を眺め始めた。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「せっかく早く帰れるなら……この家で、やり残したことないかな?」
そう言って、渚は残りのアイスをシャリッと一口で噛み砕くと、じっと俺の目を見つめてきた。
渚はしばらく考え込み、指を一本ずつ折りながら数えていく。
「縁側でスイカ」
「うん」
「花火」
「うん」
「川遊び」
「うん」
「あと……」
渚の指が止まった。
「お兄ちゃんと、二人で何かしたい」
「……何か?」
「うん」
渚は少し考えてから、いたずらっぽく笑った。
「せっかく二人で来たんだもん」
その言葉に、俺も少しだけ考えた。
仕事の都合で始まった二か月の転勤。
最初は渚も怖がっていた。
俺だって、まさか会社の用意した古い家で、こんな夏を過ごすことになるとは思っていなかった。
「じゃあ、全部やるか」
「うん!」
渚が心底嬉しそうに笑った。
家に帰るまでの残り少ない古民家生活、俺たちの「やり残したこと消化」が始まろうとしていた。
◇◇◇
9月に入ったとはいえ、まだ残暑が強く残る週末。
古民家から歩いて30分ほどの場所にある川の遊泳地にやってきた俺たち。
渚が散歩していて見つけたとのことだった。
夏のピークを過ぎたせいか人影はまばらだったが、それでも家族連れや大学生らしきグループがちらほらと水遊びを楽しんでいた。
「じゃあ、さっそく!」
渚が元気よく着ていた白Tシャツの裾に手をかける。
「待て、脱ぐな」
「え?」
Tシャツの裾を掴んで上に引っ張り上げようとしていた渚の手を、俺はガシッと掴んで強引に止めた。
「日焼け対策だ! 日差し、まだ強いだろ! Tシャツ着たままの方がいい」
「えぇ〜? だって中にちゃんと着てきたんだよ? ほら……」
そう言って渚がチラリとTシャツの胸元を少し広げて見せてきたのは、白地に小さな花柄が散りばめられた、フリル付きの可愛らしい水着だった。二十歳になったとはいえ、どこか幼さを残した彼女の華奢な体躯と透き通るような白い肌に、信じられないくらい似合っている。
……そんなもの、他の男に見せてやる義理は絶対にない。
俺以外の奴らの視線に晒すなんて冗談じゃない。これは俺だけのものだ。
「……とにかくダメ。Tシャツ着てて」
「むぅ……お兄ちゃんのケチ。せっかく日焼け止めも塗ってきたのに」
まさか「他の男に見せたくないから」なんて独占欲丸出しの本音は口が裂けても言えず、俺は強引に押し通した。渚は不満そうに唇を尖らせつつも、大人しくTシャツを着たまま浅瀬の川へと足を差し入れた。
「つめたぁい! お兄ちゃん、見て! お魚いるよ!」
腰まで水に浸かった渚は大はしゃぎでバシャバシャと水をかけてきた。「こら、やめろって」と苦笑いしながら水返しをし、二人で童心に帰って水遊びを楽しむ。
ほんの数秒、川底のきれいな小石に気を取られ、渚から目を離した――その時だった。
「……え?」
ふと顔を上げると、さっきまで目の前にいたはずの渚の姿がない。
「渚……? 渚!?」
急いで周囲を見渡すと、数メートルほど下流で、頭が水面に出たり沈んだりしているのが見えた。足をすくわれたのか、深みにはまったのか、緩やかに見えた川の流れに思いっきり流されている!
心臓が跳ね上がった。頭の中が真っ白になり、俺は必死で川底を蹴って水の中を激走した。水圧で足が重い。だが、そんなことを気にしている余裕なんてない。
「渚! 手を伸ばせ!!」
バシャバシャともがきながら流されていく渚。
水を吸ったTシャツが渚の体に重くまとわりつき、その動きが完全に阻害されている。
くそっ、俺のつまらない独占欲のせいで……!
必死で追いかける。
ダメだ。流れが速い。追いつけない!
「渚―――!!」
絶望の中で、悲鳴のように名前を叫んだ。
◇◇◇
そのすぐ下流。川を横断するように頑丈な黄色い防止ネットが張られていた。
渚はそのネットに、必死にしがみついて引っかけられていた。
「ぐっ……大丈夫か渚!? 息できるか!?」
「っ……げほっ! うぁ……お兄ちゃぁぁん!! 怖かったよぅ……ッ!!」
俺の首にぎゅっと両腕を回し、涙目になった渚が全力ですがりついてきた。
全身ずぶ濡れで、小さくガタガタと震えている。
「よしよし、もう大丈夫だ……大丈夫だからな」
後から救護看板を見て知った。この遊泳地、一見浅そうに見えて一部が急に深くなっているすり鉢状の地形があり、足をとられて流される人が後を絶たないらしい。あのネットは、万が一流された人を引っかけるための救援用備品だったのだ。
こういう事故、本当に『よくある』ことらしい……。
「……うぅ、もうお水入らない……お兄ちゃんのお膝から離れない……」
陸に上がり、大きなバスタオルに包まりながら俺の膝の上で小さくなっている渚。
完全にしおしおの甘えん坊仔犬モードに戻ってしまった。
こうして我々は、古民家生活の終盤にまたひとつ、『川の危険性と事故のリアルさ』を身をもって学んだのだった。
「……でも、すぐ助けてくれてありがと、お兄ちゃん」
タオル越しにキュッと抱きついてくる渚の柔らかな温もりを感じながら、俺は冷や汗を拭い、今度こそ二度と彼女から目を離さないと固く心に誓ったのだった。
川に流されたのは実体験です。
たまたま近くの岩にすがりつくことができました。
ツレたちは指さして笑ってました。
ネタでやったと思われてました。
一応泳げるし、そもそも足つく深さですが、かなり怖かったです。
もし川遊びの機会があるようでしたら、皆様もお気を付けください。




