夏休み編5『北風と太陽』
「真っ先に来てんじゃねーよ、盆休みを一緒に過ごす相手もいないのか、ですって!? 余計なお世話よ!!」
助手席のドアが乱暴に閉まった直後、狭い車内に爆音の怒号が響き渡った。
最初に到来したのは、やはりというか当然というべきか――絶対王政の我が姉、夏美姉上様だった。
ローカル線の駅のロータリーまで車で迎えに行き、パンパンに膨らんだスーツケースをトランクに積み込んで拾った途端、この惨状である。
「……あのさぁ、俺、まだ一言も喋ってないんだけど」
「うるさいわね! 顔にそう書いてあったのよ! 『独身アラサーの姉貴が一番乗りで来やがった、ヒマ人かよ』って!」
……エスパーかこの人は。
「会社のお金で林の中の一軒家借りて、可愛い渚ちゃんとイチャラブ同棲生活だぁ~? 許せないわね、地獄に落ちろ! 今すぐ私と代われ! ついでに素敵な彼氏連れてこい!」
「会社のお金でイチャラブしてるわけじゃない! たまたまだ!」
「黙りなさい! 渚ちゃん! 渚ちゃんは無事!? アンタみたいなむっつりスケベに変なことされてトラウマ負ってない!?」
後部座席に向かって必死に声をかける姉上様。
そこには、借りてきた猫のようにチョコンと座り、両手を膝の上に乗せて小さくなっている渚の姿があった。
「あ、あの……夏美お姉ちゃん、お久しぶりです……。
私は、その……すごく元気に楽しく過ごしてますので……っ」
「ほら見なさい! 健気に気を遣わせてるじゃないの!」
ハンドルを握る手に嫌な汗がじわっと滲む。
血も涙もない絶対王政の夏美姉上様だが、唯一の救いは、どれだけブチ切れていても「走行中の運転手を物理的に殴るような真似はしない」という最低限の交通安全意識を持ち合わせていることだけだった。
「ふん、命拾いしたわね。着いたら覚悟しなさいよ」
助手席で腕を組み、冷ややかな笑みを浮かべる姉上様。
バックミラー越しに渚と目が合うと、彼女は「お兄ちゃん、がんばって……」とでも言いたげな、苦笑いと同情の混ざった眼差しをこちらに向けていた。
嵐の第一波は、すでに車内で猛威を振るっていた。古民家に到着するまでのあと15分、俺の胃が保つかどうかだけが心配だった。
◇◇◇
俺たちが古民家に到着するとほぼ同時に、もう1台のファミリーカーが静かに滑り込んできた。
美凪さん一家だった。
美凪さんは渚の姉であり、洋や夏美姉を含めた『連合きょうだい』のトップに君臨する最年長だ。
2年前に結婚した美凪さんの腕には、まだ1歳にも満たない真夏ちゃんが抱かれていた。
先ほどまで猛獣のように暴れていた夏美姉だったが、赤ちゃんという天使の降臨には勝てなかった。
「きゃあ〜〜〜っ! マナちゃん!! 夏美お姉ちゃんだよ〜〜っ!」
「まなちゃん、抱っこさせて! 暑くなかった? お腹すいてない?」
さっきまでの殺気はどこへやら、夏美姉と渚の二人は、ベビーベッド代わりに畳に敷いた布団の上の真夏ちゃんを囲み、「可愛い〜〜ッ!」ときゃいきゃい声をあげてすっかり骨抜きにされていた。
女子二人が赤ちゃんに夢中になってくれたおかげで、俺の身の安全はひとまず確保された格好だ。
そして――俺は、美凪さんの旦那様である篤さんの方に向かった。
大量のベビー用品やスーツケースを車から運び出すのを手伝う。
冷静に考えてみれば、彼は『隣のお姉さんの旦那さん』だ。血縁もなければ、これまで個人的な接点があったわけでもない。
なのに。
篤さんは静かに缶コーヒーを口に含むと、穏やかだがどこか深い感慨の籠もった視線を俺に向けてきた。
「美凪から聞いてるよ。渚ちゃんのこと……よろしくね」
その目は、完全に義弟を見る義兄のそれだった。
「……そのうち、本当の義弟になるのかな」
「ん?」
「いや、何でもないです」
自分で口にしておいて、妙な気分になった。
そのうち渚と結婚したら。
俺にとって篤さんは、本当に義兄になる。
「……そもそも、本当の義弟って何だ?」
俺がポツリと呟くと、篤さんが首を傾げた。
「義弟?」
「いや、こっちの話です」
考えてみれば、俺たちは幼少期から兄弟同然に育ってきた。
美凪さんとも昔から知り合いだ。夏美姉もいて、洋もいて、渚もいて。そこに篤さんが加わって、真夏ちゃんまでいる。
血の繋がりなんてほとんど関係ない。
それでも、こうして集まると自然と『家族』になる。
なんだか、不思議で暖かな感じがした。
◇◇◇
みんなで広い居間に集まり、思い思いに畳の上へ腰を下ろす。
渚は甲斐甲斐しく動き回り、台所で事前に準備しておいた冷えた麦茶を大きなピッチャーから紙コップへと注ぎ、手際よく配っていた。その姿は、どこか小さな若女将のようで微笑ましい。
俺がぼんやりとその背中を眺めていると、そっと隣に誰かが腰掛けた。
「ふぅ……畳ってやっぱり落ち着くわねぇ」
美凪さんだった。
幼い頃から親戚の綺麗なお姉さんのように慕っていた人だ。
気を抜くと昔のように「みーねーちゃん」と口走りそうになり、慌てて「美凪さん」と心の中で言い直す。
美凪さんは冷えた麦茶を一口飲んでくつろぐと、渚の背中に視線を向け、どこかしみじみとした様子で口を開いた。
「我が妹ながら、本当にびっくりだねぇ」
「……え?」
「きれいになったでしょう?」
聞かれて素直に「はい」と答える。
それは間違いない事実だと思う。彼女は驚くほど大人っぽく、綺麗になった。
「隣のお兄ちゃんが好きとか言い出した時には、少女漫画の読みすぎかと思ったけどね」
美凪さんは遠い目をした。
「『正直、分が悪い戦いになるぞ。それでもやるか?』って聞いたら、『頑張る!』って決意して。
それでメイク術もヘアメイク術もコーディネート術も叩き込んだんだから」
美凪さんの職業は美容師。
渚は影で、プロの特訓を受けていたらしい。
……まったく知らなかった。あの可憐な変化の陰に、そんな努力と特訓があったなんて。
「それでもまさか本当に叶えちゃうとはねぇ。
あの子、ああ見えてたくましいというか、一途というか……ね」
美凪さんはクスクスと嬉しそうに笑った。
その温かい眼差しを見て、胸の奥がじんわりと熱くなる。
洋や夏美姉のあの暴走気味な反応も、美凪さんのこの温かな言葉も、すべては俺と渚の味方でいてくれているからこそだ。
幼い頃からずっと見守ってくれていた家族やきょうだい達。俺たちが付き合うことになったのを、誰一人として否定せず、笑いながら、温かく祝福してくれている。
(……俺たちは、きっとすごく恵まれた環境にいたんだな)
つくづくそう思った。
「お隣のおとうとクンが本当に弟になるの、楽しみにしてるからね」
美凪さんは優しく微笑んだ。
「……ありがとうございます。渚のこと、一生大事にします」
俺がちょっと背筋を伸ばして大真面目に答えると、美凪さんは「ん」と満足そうに目を細め、ポンポンと俺の膝を叩いた。
「うん、分かってるよ。……あ、ほら、渚が『私の席を横取りされた!』って顔でこっち見てるから、戻ってあげなさい」
視線を上げると、お茶を配り終えた渚が、美凪さんの隣に座る俺を少しだけ頬を膨らませて見つめていた。その嫉妬深くて愛おしい表情に、俺は思わず苦笑いを浮かべながら「はいはい」と彼女の元へと立ち上がったのだった。




