第51話 だから、さようなら 【第3章エピローグ】
井伊直盛は松平元康との一騎打ちの末に倒れた。遠江軍団長の座と三つの遺言を娘直虎に遺して。沓掛城の東門で父の亡骸を抱いた直虎が恵を見上げる。
「姫……俺は……」
直虎は父の亡骸を抱いたまま恵を見上げていた。
泥と血と涙で顔はぐしゃぐしゃだった。ほどけた黒髪が頬に張りついている。
恵は直虎の前に膝をついて、顔を近づけた。
何か言わなければと思った。でも何を言えばいいのか分からなかった。
大高城で七千の兵に約束したのだ。神や仏や未来の定めを裏切ってもあなたたちを護る、と。その約束が今、自分の目の前で冷たくなっている。
「姫……」
直虎がもう一度呼んだ。
そして、首を小さく横に振った。
「いや」
直虎は息をひとつ吸った。
「恵」
初めてだった。直虎が恵を「姫」とつけて呼ばなかったのは。
「俺……恵のこと……」
声が震えている。
「ずっと……大好きでした」
恵の目が大きく見開かれた。月の光が直虎の濡れた頬を淡く照らしていた。
「……直虎くん」
恵の唇が震えた。「……ワタシも……す……」
しかし直虎の言葉が恵に次のフレーズを続けさせなかった。
「だからッ!」
直虎は泣きながらも微笑をなんとか保っていた。
「……さようなら……恵……本当に大好きでした」
恵はこれから起こる避けられない運命を理解してしまい、うわーっとうつ伏せになって泣き出した。
直虎は父の亡骸をそっと土の上に横たえると、父の瞼を指先で閉じる。そして、視界の隅で号泣する恵のことを見ることができず、自分の瞼も閉じた。
そのまま立ち上がる。ふらつく。四郎が支えようと手を伸ばすが、直虎はその手をやんわりと押し返した。自分の足で立った。
直虎は、輪を作って座り込んでいる浜名の兵たちを見回した。
泥だらけの傷だらけの父が育てた兵たち。そして今日から同じ仲間。
「――遠江の者たち」
声はかすれていたが、よく通った。
「井伊直虎、父より遠江軍団長の座を継いだ。これより遠江の兵は、某が率いる」
兵たちが顔を上げる。
「これより東門を出て遠江へ帰還する。これより先、ひとりも欠けることを認めない。よいな!」
浜名の兵たちが、一人また一人と立ち上がった。
左の掌に右の拳を当てる。新しい軍団長に向かって、深く一礼した。
直虎は父の亡骸を見下ろした。
「父上、井伊谷に一緒に帰ろう」
◆
兵たちが戸板を持ってきて、直盛の亡骸を載せた。四人の兵がそれを担ぎ上げる。恵はまだ膝をついたまま動けなかった。
直虎は信長と義元の前に立ち、拱手の礼をして、頭を下げる。直虎は将としての才覚で、二人が「同じ空気」で並んでいるのを見て、どんなことが二人の間で結ばれたかを理解していた。
「上総介さま、前太守さま。大名にふさわしき、見事な決着でございます。某もお二人のような立派な武人として兵を率いる所存です」
「で、あるか」と信長。
「まぁ、がんばれよ」と義元はすっかり軽くなっている。直虎がくすっと笑う。
直虎が利家、藤吉郎、永徳の前に立つ。
「前田どの。ありがとう」と頭を下げる。
「いやぁ、びっくりしたよ。俺と対等の槍の使い手が、おん……あっ」と恵をちらっと見てから、直虎を見る。
「もう隠すことではありません。もし聞かれたらご自由に」
「今度戦場で会うときはなんかやりにくいぜ」と利家が言うと、
直虎は急にヤンキー顔になって
「てめぇ、なめてんのか!次あったらぶっ殺すぞ!」と息巻く。
利家は「おぅおぅ、いいぜ。今からやるかっ、こらっ!」と顔を真っ赤にすると、隣の藤吉郎が「あほか、お前。そんなんだから帰参が認められないんじゃ」と利家の頭をポカリと叩く。
藤吉郎は無理やり利家の頭を下げさせて、「すまん。馬鹿なので許してちょ」と謝る。
「藤吉郎さん。織田がいやになったら、いつでも遠江に来てください」と直虎。
「サル、てめぇ、俺が馬鹿だと!」
永徳が喧嘩をはじめた二人の前にずいっと出て、
「あはは。殿が天下統一したら、どこの国の人からでも絵の発注を受けますんで、よろしくお願いします」
「天下統一? そんな大層なことを考えてるんですか、おたくの殿は」
「ええ。僕もいつか絵で日ノ本一、天下一になってみせます」
「そうですか。いつか浜名の海にも絵を描きに来てください」
「はい、ぜひ」
「……」
「……」
「永徳さん……姫のこと……よろしくお願いします」
「あは、僕が? わかりました。もちろんできるだけのことはします。でもあの人は天下よりも遠くを見ている気がします」
「たしかに。でも永徳さん、あなたが日ノ本一の絵師になれず、姫のお眼鏡に叶わない体たらくになったら、私が姫を奪いにいきますからね」
そして、永徳の隣にはいつの間にか恵が立っていた。なにもかも分かっているようで、なにも分かっていない顔。本当に愛おしい。決心が揺らぎそうだ。
恵はセーラー服のポケットを探ると細い円筒のリップを取り出し、直虎の手を取ってぎゅっと握らせた。
「……これ」
恵の声は震えていた。
「ワタシの一番のお気に入り。……直虎くんにあげる」
直虎が手の中の小さな筒を見下ろした。
「いつか直虎くんに好きな女の子ができたら……その子にあげて」
恵は無理やり笑顔をつくった。
「直虎くんみたいなイケメンにこんなのもらったら……どんな子でも絶対うれしいから」
直虎はしばらく何も言わなかった。
それからリップを握った手を胸にそっと当てた。
「……ええ」
直虎は微笑んだ。
「……きっと喜ぶと思います。姫、お礼にひとつ、女心を教えてあげましょう」
「えっ……あのお姉さんから教わったっていう?」
「はい。姉から教わった、あれです」
「うん」
「姫のことを心から好きになった初めての女の子のことを俺は知っています。姫って案外、おなごからもてるんですよ」
「えっ? なにそれ、どういう意味? 今の話のどこら辺が女心?」
直虎は振り向くと、恵に背中を向けて、ぷっと噴き出した。
「どこに、お姉さんがでてくるの? 教えて!」
直虎は背中に浴びる恵の質問に振り返らず、歩き出し、父を載せた戸板が通った東門へ向かう。
「さようなら、大好きな人……」
四郎があわてて恵の前に立って、二度三度深く頭を下げてから、新たな遠江のリーダーを追いかける。
黒い背広の男が何も言わずに恵の隣に立った。
夜はいよいよ深くなっていく。
◆
その後、尾張・清須城。
織田信長は、北の美濃の斎藤氏の動きを睨み、沓掛城より東へは兵を進めなかった。清須へ戻った信長は、犬山をはじめとする尾張国内の敵対勢力を抑え、やがて、美濃を攻めるための新しい城を小牧山に築くことになる。
前田利家は翌年、美濃との森部の戦いで首級を挙げ、正式に織田家への帰参を許された。帰参後、織田家では、利家に妻との良好な関係の築き方を尋ねるものが相次いだ。利家は「なんで槍の使い方を聞いてこないんだ」とぼやいているとか。
木下藤吉郎は、桶狭間のあと、縁を切っていた尾張・中村の実家へようやく顔を出した。そこで十数年ぶりに弟の小一郎と再会する。小一郎は尾張でも名の知れた不良となっており、藤吉郎は更生させるのに大変な思いをすることになる。その過程でたくさんの人たちに、弟の代わりに頭を下げてまわり、「人たらし」のスキルを習得する。やがて木下秀吉と名乗り、弟とともに羽柴、豊臣と駆け上り、ついには天下人となる。
三河・岡崎城。
松平元康は、桶狭間の数日後、今川が捨てた岡崎城に入ろうとした。だが、三河の国衆の「アンチ元康」は想像以上に根強く、身の危険を感じた元康は一時、岡崎の菩提寺大樹寺に逃げ込むほどだった。「裏切り者の子」だから嫌われていると思っていたのは元康だけで、元康自体に一番の問題があることに本人が気づくのはだいぶ後のことである。信じられないことに”反省”をした元康が、家康、徳川と姓名をがらっと変えて、イメチェンに成功することになるのだが、長くなるので別の機会にしよう。
さらに東。駿河・駿府城(今川館)。
今川家は、すでに名目上の当主であった今川氏真が駿河と遠江をすぐに押さえた。背後には、甲斐の武田、相模の北条との三国同盟があった。今川は世間が思ったほど急には崩れなかった。
だが、老臣・朝比奈は敗戦の責めを負って隠居した。代わって氏真の傍らに立ったのは、白髪まじりの駿河の古参、庵原であった。彼の手腕はあやしく、遠江では今川からの離反が相次ぎ混乱が続くことになる。
その混乱の中、一年後。遠江・井伊谷城の城主に井伊直虎が就いた。
おんな城主、直虎の誕生である。
城主のそばには、いつも近からず遠からずのところに、無口な鈴木という武将がいたという。その男の下の名前は伝わっていない。ただゆかりの地には今も銘酒「四つ子」で知られる鈴木酒造がある。
山城・京。
狩野永徳はまもなく京へ戻った。祖父・元信の跡を継いだ父・松栄は実直な性格ながら祖父ほど大画面の才はないと噂されていた。狩野家から清須に何度も送られる書状の束を見て、信長がしぶしぶながら京へ戻るよう命じた。永徳は若くして実質的に狩野家の仕事の多くを請け負うことになる。数年後、永徳は大徳寺聚光院に一枚の襖絵(国宝『花鳥図』)を描く。身をくねらせる巨大な梅の老木とその枝に遊ぶ小鳥たちの絵である。恵と直虎、四つ子が迷い込み、恵の「デロ・フィナーレ」で脱出に成功したあの密林の景色と瓜二つの風景が描かれていた。永徳がどこをモデルにしたのか、それとも想像上の風景なのかは分かっていない。
そして駿河・遠江・三河、三国の太守、今川義元は行方知れずとなった。
桶狭間の谷間の沼に沈んだとも、海を渡ってモンゴルへ行き、大陸の制覇を目指しているとも言われるが、真偽のほどは定かでない。
『信長公記』のほかに、桶狭間の戦いについて記された、唯一の同時代資料とされるものがある。名古屋市内のとある寺に伝わる一巻の巻物である。ただし、そこに描かれた品々のあまりに多くが二十一世紀の技術を思わせるため、ほとんどの学者はこれを後世の偽書としている。
その巻物に記された「虹色の女軍師」あるいは「白き妖女」と呼ばれた者の行方を知る者はいない。
◆
東海道の上を高く飛翔した燕が伊勢の海の上に出た。朝日を浴びた水面がどこまでもきらきらと光っている。燕は翼を大きく広げ、南の水平線の向こうへ、小さく、小さくなって消えていった。
(第3章・完)
◆
そして、二年後――。
第3章「沓掛城編」、これにて完結です。長い桶狭間の戦いの二日間でした。
次回、第52話は2年後の尾張。この物語の最終回となるグランドフィナーレです。10月2日夕方公開します。ぜひ読んでいただければうれしいです。




