第50話 三つの遺言と告白
瓦礫の下から救い出された直虎の耳に届いたのは、父井伊直盛の咆哮だった。東門では、井伊直盛と松平元康の一騎打ちが最後を迎えようとしている。第3章、クライマックスです。
「どりゃあああッ!!」
井伊直盛の咆哮が東門の夜を揺らした。
拳が元康の脇をかすめる。元康はのけぞってかわしざま村正を横に払う。刃が直盛の二の腕を浅く裂いた。
直盛は構わずもう一歩踏み込んだ。
左の拳。元康は地を転がってかわす。転がりながら、ひとつかみの砂を直盛の顔へ投げつける。
直盛は目を閉じなかった。砂を浴びたまま拳を振り下ろす。元康がいた地面が拳の形にへこんだ。
「……すごいね……目つぶしも、効かないんだ……」
元康が息を切らしながら立ち上がる。
「効いておるわ。痛いわ」
直盛がにやりと笑う。砂と血で髭が固まっていた。
どれだけの時が過ぎたのか、誰にも分からなかった。
元康はあらゆる技を使った。砂を投げ、スカートの裾で刃の軌道を隠し、倒れたふりをして足を払い、背後に回っては斬りつけた。卑怯と呼ばれても構わない、駿府の屋敷で生き延びるために覚えたすべての技だった。
直盛は、そのすべてを拳ひとつで受けた。
斬られても下がらなかった。倒れても立ち上がった。
輪を作っていた五百の闇の戦士たちは、いつのまにか、その場に座り込んでいた。
さっきまで爛々と光っていた目から、狂気の色が消えていった。ある者は膝を抱え、ある者は口を半開きにして、ただ二人の戦いを見ていた。
浜名の兵たちも、三河の兵たちも、いつのまにか入り混じって座り、同じ一騎打ちを見つめていた。
◆
燃える城の中を三つの影が東へ向かっていた。
真ん中に直虎。右の肩を四郎に、左の肩を利家に預けて、引きずられるように歩いている。狩衣はぼろぼろに裂け、裸足の足は泥と血にまみれていた。
「もっと、速く……」
「無茶言うな。お前さっきまで息すらしてなかったんだぞ」
利家が顔をしかめる。
「父上が……」
直虎はそれしか言わなかった。
利家はちっと舌打ちをして、直虎の腕を自分の首に回し直した。
「黄色いの担ぐぞ」
四郎がうなずく。二人は直虎の身体をほとんど抱え上げるようにして、走り出した。
東門が見えた。
「なんだこりゃ?」と利家がつぶやく。
門の前に人の輪ができていた。城中から集まってきた千人近い兵が座り込んで、輪の中を見ている。誰も声を出していなかった。
直虎は四郎と利家の肩を振りほどいた。
よろめきながら輪の中へ兵たちをかき分けて進む。
「通して……通してください……」
輪の最前列に出た。そこに父がいた。
直盛は立っていた。
だがそれは立っていると呼べるものではなかった。
両足を大きく開き、膝を震わせ、全身から血を流しながら、それでも倒れずに、ただそこにいた。陣羽織の脇腹はどす黒く濡れてもう元の色が分からない。二の腕にも、肩にも、太ももにも、村正による傷がいくつも走っている。
その向かいに元康。紫のツインテールは片方がほどけ、ゴスロリのスカートは裂け、頬は腫れ上がり、唇の端から血が垂れていた。村正を正眼に構えた腕が小刻みに震えている。
二人とも肩で息をしていた。
「父上っ!」
直虎が飛び出した。四郎も直虎の後ろから輪の中へ踏み込んだ。
「来るなァッ!!」
直盛の一喝が直虎の足をその場に縫い止めた。四郎も止まった。
「これはワシとこの小僧の勝負じゃ。……誰も手を出すな。娘でもじゃ」
直盛は元康から目を離さなかった。直虎は動けなかった。ここにいる全員がこの二人の勝負を、見届けると決めていた。
◆
直盛が元康を睨んだまま苦しそうに口を開いた。
「直虎ッ!」
その声量はすさまじく大きく、直虎の肩がびくりと跳ねた。
直盛は娘を見ていなかった。見ないまま虚空に向かって叫んだ。
「ダメな父親で、すまんかった!!」
直虎の息が止まった。
「息子が……兄が死んだとき……井伊の家を残すために、お前に男になれと言うた。お前の髪を切らせ、刀を持たせ輿入れの話も全部断らせた。……お前が嫌がっても、殴ってでも、男として育てた」
直盛の声がかすれた。
「ワシはお前に兄の代わりをさせてしまった。……お前は、お前でしかないのに」
直盛は輪を作る兵たちをぐるりと見回した。
「皆の衆ッ!」
千人の兵が顔を上げた。
「井伊直盛、遠江軍団長の座を――我が娘、直虎に譲るッ!!」
ざわめきが輪を走った。
「娘……?」
利家が呆然と呟いた。「……井伊のあんちゃんが……むすめ……?女だったの?」利家は口を開けたまま四郎を見た。四郎は黙ってうなずいた。
「これが国衆としてのワシの最後の務めじゃ」
直盛はそこで初めて声を落とした。
「そして……父として、一つだけ。……トラよ」
トラ。幼い頃、まだ男の名を与えられる前の幼名。
直虎の目から涙があふれた。
「な、なんだよ。馬鹿親父……」
「武士は、やめてもよい」
直盛が言った。
「竹千代どのを、恨むな」
元康の構えがわずかに揺れた。
「そして――幸せに、なれ」
直虎は泣きながら叫んだ。
「三つもあるじゃねぇか!」
声が裏返った。
「一つだけって言ったじゃねぇか! いやだよぉ! まだ何にも返してねぇのに!」
直虎はすがるように元康を見た。
「竹千代ちゃん、やめてくれ! お願いだからやめてくれよぉ!」
元康は直虎を見た。
泣き崩れるトラ姐。駿府の屋敷で泣いている竹千代に白粉を塗ってくれた人。「竹千代様は色が白いから、お化粧したらきっと綺麗になりますよ」と言ってくれた人。
元康の左目が光った。青灰色がみるみる青く澄んでいく。夜の底で宝石のように輝く明るい藍色に。だがその顔に微笑みはない。
「……ごめんね、トラ姐……」
元康の声はいつもの口調で言うと、直盛に視線を戻す。
「……だって……こんなに、壊しがいのある人……僕が……止められるわけ……ないよ」
直盛が笑った。血に濡れた髭の奥で、心の底から愉快そうに。そして最後の力を振り絞った。
「どりゃあああああああッ――!!」
直盛の大きな身体が元康へ向かって飛びかかる。振りかぶった右の拳に、残されたすべての魂と力が込められていた。
千人の兵が息を呑んだ。直虎だけが叫んだ。
元康がみなの視界から消えた――。そう見えた。
次の瞬間、元康は直盛の懐の内にいた。
村正の切っ先が直盛の胸、心の臓をまっすぐに貫いていた。
直盛の拳はまだ振り下ろされている途中だった。その拳が元康の頬に届いた。
――ぺしっ。
ごつごつとした拳の甲が元康の腫れた頬にそっと触れて、頬をひと撫でして、すべり落ちていった。
「……痛っぁ……親父の拳骨……」
元康は本当に痛そうに顔をゆがめた。直盛が「にやっ」と笑う。
元康は村正を引き抜くと、直盛は膝から崩れ落ち、そのまま空を見上げると、仰向けに土の上に倒れた。
「――父上ぇぇぇっ!!」
直虎が駆け寄った。父の上に覆いかぶさる。泥と血に濡れた髭の顔を両手で抱きかかえる。
「父上……父上……!」
直盛の目は薄く開いていた。その目がゆっくりと直虎を見た。唇が動いた。声はもう出ない。だが直虎には分かった。
――トラ。
それで猛将井伊直盛の目から光が消えた。
直虎は父を抱いたまま声を上げて泣いた。男の名を与えられる前の子供の時のように。
◆
元康は村正を下げたままその姿を見ていた。左目の青はまだ消えていなかった。
その時。
背筋にぞくりと冷たいものが走った元康はゆっくりと振り返った。
黄色いヘルメットの下で四郎が元康を見ていた。何も言わない。だがその目は言葉よりも雄弁だった。兄を三人失い、それでも黙って恵と直虎を守り続けてきた男の底の底に沈めてきたすべての怒りが今、炎になって燃え上がろうとしている。
四郎が一歩、踏み出した。
「……怖っ」
元康は目を逸らすと村正の刃を眺めて
「……僕、もう結構疲れちゃったんだけど……まだ……やりたい?……」と独り言をつぶやいた。
その時、もう一つの気配が東門に近づいてきた。四郎とは違う。もっと別次元の重い、夜の帳すら押し退けるような圧倒的な気配。
元康は城の奥へ続く道を見やった。噴煙の向こうからいくつかの影が走ってくる。先頭に黒づくめのスーツ姿の男。
「……やっばぁ……めっちゃ怒ってるじゃん……三郎兄さま……いや、信長さま」
元康は村正を鞘に納めた。
元康は座り込んでいる浜名の兵たちの群れに向かってスタスタと歩き、通り過ぎながら、「……井伊直盛は僕と一騎打ちをして死んだ。最初から最後まで僕とだけね。誰かに聞かれたら、そう言いなよ……」と誰にともなく話す。
浜名の兵たちはキョトンとしたが、全員がハッとする。
「……まぁ、僕は名誉だの、面子だのなんてものは……どうでもいいんだけどね……」
浜名の兵が一斉に左手の掌に右手の拳をあてて元康に一礼する。
それを確かめもせず、元康は紫の裾をひるがえすと闇の中へ、溶けるように消えていた。
「……じゃあね」
声だけが夜に残った。
◆
「直虎くん――っ!」
セーラー服の恵が黒いスーツ姿の信長を追い抜かすと、輪を作る兵たちの間を転がるようにすり抜けて、直虎に駆け寄った。
直虎の腕には髭だらけの巨体の武将が安らかな顔で永遠の眠りについていた。
「うそ」
恵はそれが誰なのか分かると膝から力が抜けた。
信長の影に隠れるようにしていた義元が近づいて、膝を地面に着いて、まだ熱さが残る拳を握る。
「直盛。そなたは強き侍であり、そして友であった」
信長、ベレー帽を外した永徳。長い腕の藤吉郎、そこに利家も並び、歴戦の勇者に哀悼を示した。
直虎は父親から視線を外して、恵の顔を少し寂しそうに見つめる。
「直虎……くん……」
「……姫……俺は……」
一陣の風が城内を通り過ぎた。
直虎を殴り続けてきた拳が、最後に元康の頬を撫でてほどけていきました。父を知らずに育った少年が敵の父親の手で初めて父親というものを知りました。次回、第51話は、第三章の最終話。そしてこの物語の最終回(52話)まであと2話です。
51話は10月1日夕方、最終回は10月2日夕方に公開します。




