第49話 死闘!ゴスロリ松平元康VS拳王井伊直盛
燃え上がる沓掛城。妖刀・村正を手にした闇の魔導士は、亡者の軍勢を率いて東門へ。そこでしんがりを務めていたのは、庵原に刺された傷を隠して仁王立ちする、井伊直盛だった。――その頃、直虎は。
また、時を少し戻す。
武具を体じゅうに纏った直虎は、燃える城の中を本丸へ向かって走っていた。
両手に槍と折れた薙刀の柄。腰に刃こぼれした刀。背に弓と矢筒。走るたびに、がちゃがちゃと鉄と木がぶつかり合う。
(姫。今、行きます)
利家に殴られた頬がまだ熱い。その熱が足を前へ押し出していた。
南の曲輪を抜けようとした、その時。
右手にずんぐりとした蔵が見えた。土と木ばかりのこの城で、そこだけ瓦を載せ厚い土壁で塗り込められた窓のない蔵。
焔硝蔵だ。
扉が開いていた。中で松明の火が揺れている。
「……誰だ、あんなところで火を――」
どおおおおおんっ――!
世界が真っ白く裏返った。
爆風が直虎の身体を紙切れのように持ち上げた。耳が何も聞こえなくなる。宙で両手の槍がどこかへ飛んでいく。
焔硝蔵の床には湿気を嫌う火薬のために、一枚の巨大な石が敷かれていた。畳を十枚並べたほどの平たくて厚い石。城の石垣を持たぬこの土の城でただ一つ、据えられた大石。
その鏡石が爆発の力で床ごと夜空へ跳ね上がった。
直虎が最後に見たのは、月を隠してゆっくりと自分の上に落ちてくる黒い石の影だった。
◆
東門。
松平元康は、髭だらけの猛将・井伊直盛の前に立っていた。
背後には五百以上の「闇の戦士」。その向こうで焔硝蔵の炎が夜空を赤く焦がしている。
直盛の周りには浜名の兵数十人が槍を構えて主を守っていた。
「……見ぃつけた。トラ姐の、大事なもの」
元康が村正の切っ先をゆるりと直盛へ向けた。
直盛は脇腹の傷を陣羽織の上から左腕でさりげなく押さえた。血はまだ外には滲んでいない。
「松平元康どの、か」
直盛の声は低く落ち着いていた。
「三河と尾張の同盟とやらは聞いた。じゃが、焔硝蔵に火をつけるとは、昨日までの味方のみならず、同盟を結んだ相手も巻き込みかねない非道の策」
直盛はふんと鼻を鳴らしながら言い放つ。
「裏切り者の子は所詮、裏切り者か」
元康の顔から笑みが消えた。
「……今、なんて、言った」
「何度でも言うてやる。父は今川を裏切ろうとして家臣に刺され、子はその今川を裏切って火を放つ。三河の松平はそういう家じゃ」
元康はしばらく何も言わなかった。
オッドアイが瞬きもせずに直盛を見ていた。
「……同じ人質だったのに……僕……さみしいなぁ」
ぽつりと元康が言った。
「……僕もトラ姐も駿府の人質だった。……同じような屋敷で、同じような飯を食って、同じように今川から足蹴にされて。……なのになんで……トラ姐は僕にないものを持ってるんだろうなぁ」
元康は村正を目の高さに掲げた。刃文が炎を映してぬらりと波打つ。
「これ、村正っていうんだ。僕のおじいさまを斬った刀。お父上を刺した刀。……松平を呪う刀」
紫の唇がまたゆっくりと吊り上がった。
「……松平を呪う刀で松平の僕がトラ姐のお父上を斬るの。……ねえ、闇っぽいでしょ」
「ほざけ」
「……やっぱりこの世は穢れてる。滅ぼさないと……」
元康が振り返りもせずに背後の闇の戦士たちへ告げた。
「……誰も手を出さないで。手を出したらそいつから滅するから」
五百の亡者がざざっと退いた。自然と東門の前に大きな輪ができる。
直盛も浜名の兵に顎をしゃくった。
「お前たちもじゃ。下がっておれ」
「しかし、殿!」
「遠江の兵のほとんどはもう門の外じゃ。お前たちも、この小僧を片づけたらすぐに追え。……下がれ」
兵たちが唇を噛んで輪の外へ下がった。
直盛は槍を地面から引き抜いた。
「なめんなよ、三河の餓鬼が」
◆
直盛が踏み込んだ。
岩のような巨体からは信じられない速さで、槍が突き出される。
元康はひらりと身をかわした。黒と紫のスカートが穂先の横をふわりと舞う。
二の突き。三の突き。元康は踊るようにすべてをかわしていく。
四の突きを、元康はかわさなかった。
村正が下からすくい上げられた。
きぃんと澄んだ音。
直盛の槍の柄が穂先のすぐ下で、すぱりと断ち切られていた。穂先がくるくると宙を舞い、土に突き刺さる。
「……切れ味は、伝説どおり……」
元康が村正の刃をうっとりと見る。
直盛はただの棒になった槍の柄をぽいと捨てた。
そして、両の拳を握った。
ごり。ごり。
骨と関節が鳴る。
「楽に死なせてやろうと槍を使ったが、こいつは痛いぜ。三河の餓鬼」
直盛の拳が唸りを上げた。
元康は村正で受けなかった。受ければ刀ごと吹き飛ばされると分かっていた。身を沈め拳の下をくぐる。拳が起こした風だけで、紫のツインテールがばさりと跳ね上がった。
二発目。三発目。
直盛の拳が空を切るたびに周りの兵たちが息を呑む。一発でも当たれば、あの小さな身体は壁まで飛ぶ。
元康はそれをぎりぎりでかわし続けた。
かわしながら左手の指先を何かを編むように動かしていた。
直盛が一歩踏み込もうとした。
足が動かない。
「……ぬ?」
足首に何かが絡みついている。見下ろしても何も見えない。だが確かに何かが足を縛っている。
「……ふふ。見えないでしょ」
元康が左手の指をくいと引いた。
直盛の右腕が見えない何かに引かれて後ろへねじれた。
「……恵からちょっと借りたの、黙ってだけど。……てぐす、っていうんだって。透き通ってて、細いのにものすごく強い……」
熱田の加藤家の奥座敷。恵を縛り上げたあの時、元康は恵のキャリーバッグの中から赤い縄と一緒に、一巻きの透明な糸を懐へ滑り込ませていたのだ。
「卑怯な……!」
「……うん。卑怯だよ。僕ずっとそうやって生きてきたから……」
元康は直盛の周りをくるくると回った。回るたびに見えない糸が直盛の腕に胴に巻きついていく。
輪の外で見ている兵たちには、ただ小さなゴスロリが大男の周りを踊っているようにしか見えなかった。そして、大男が少しずつ少しずつ動けなくなっていく。
直盛の胴に、最後の一巻きを掛けようとして、元康の手が止まった。
指先が濡れていた。
温かい。
元康は自分の指を見た。炎の明かりの中で、それは赤黒く見えた。
陣羽織の下。脇腹。そこからじわじわと血が滲み出していた。
「……あれ?」
元康は首をかしげた。
「これ……僕じゃないよね」
直盛は答えなかった。
元康はその傷をじっと見た。刀の刺し傷。深い。それも背後から低く刺し込まれている。
元康の目から、すうっと光が消えた。
「……なぁんだ」
村正の切っ先がだらりと下がった。
「最初から壊れてたんじゃん」
元康は左手の指をぱらりと開いた。直盛を縛っていた見えない糸がふっと緩む。
「……つまんない。壊れかけのものを壊しても、何にも、楽しくないよ……」
元康はくるりと背を向けると、
「しっしっ」と犬を追い払うような仕草で手を払った
◆
「――ふざけるなァッ!!」
直盛の咆哮が東門を震わせた。
緩んだ糸を引きちぎり、直盛の巨体が跳んだ。
やる気なさそうに振り向いた元康の頬に拳がめり込む。
小さな身体が宙を舞った。ゴスロリのスカートが夜空に大きく広がる。そのまま輪の端まで吹き飛び、土の上を二度、三度と転がって、止まった。
闇の戦士たちが息を呑んだ。浜名の兵たちも息を止めた。
元康は土の上に大の字で倒れていた。
(……殴られた)
駿府では毎日のように殴られた。今川の小姓からだけでなく、三河の家臣からも。裏切り者の子だから。妖の目をしているから。
でもこの拳に込められているのは何かが違った。
直盛が仁王立ちで元康を見下ろしていた。脇腹から血がぼたぼたと土に落ちている。
「……壊れかけじゃと?」
直盛の声は怒りに震えていた。
「ワシはまだ立っておる。拳も握れる。ならばワシは武士じゃ!」
「……その傷、誰にやられたの」
元康が仰向けのまま訊いた。
「知らん。自分で転んだ」
直盛は即座に答えた。
「……嘘だぁ……」
直盛は拳を元康へ突きつけた。
「ワシを倒すのは後ろから刺す者ではない。今、ワシの前に立つ者じゃ。――立て、松平元康ッ!」
元康はゆっくりと上体を起こした。
殴られた頬に指先で触れる。口から溢れる血をぬぐう。
それから土の上に落ちていた村正を拾い上げた。
立ち上がる。スカートの土を払いもせず、まっすぐ立つと、「すーっ」と深く息を吸う。
元康の顔からいつものだるそうな笑みとともに狂気も消えた。
そこにあるのは十八歳の少年武将の真剣な顔だった。元康は村正を正眼に構えた。
「トラ姐の大事な人とか、もう関係ない。……僕の全部で、あなたを滅してあげるよ」
直盛の髭の奥で口の端がわずかに上がった。
「――それで、よい。来いッ!」
二人の間の空気が変わった。
輪を作る五百の闇の戦士と、数十の浜名の兵。誰一人声を上げなかった。敵も味方も、ただ息を殺して二人がじりじりと縮める、わずかな距離を見つめていた。
◆
南門。
「……おい。こいつら、どうした」
利家は馬上からあたりを見回した。
さっきまで二千騎に組みついていた闇の戦士たちが、一人、また一人とその場に崩れ落ちていく。力尽きたのだ。もともと立っているのがやっとの傷を負った者たちだった。狂気だけで動いていた身体が焔硝蔵の爆風を浴びて、ついに糸が切れたように止まった。
門の内側は瓦礫と炎の海だった。崩れた土塁の下からうめき声が聞こえる。三河の兵も、駿河の兵も、遠江の兵も、区別なく埋まっている。
利家は門を見上げた。
「……殿は、殺すな、荒らすな、と言った」
利家は馬から飛び降りた。
「ということは、生かす、片付ける、なら、門に入っていいってことだよな」
振り返り二千騎に向かって槍を掲げた。
「赤母衣衆!動けるやつは城に入れ! 瓦礫の下の奴を片っ端から掘り出せ! 敵も味方も関係ねぇ!」
「おうっ!」
◆
瓦礫とくすぶる炎の中を黄色いヘルメットの四郎が駆けまわっていた。
瓦礫を掘り返す赤母衣衆の間を縫い、倒れた兵の一人ひとりの顔を確かめていく。息が止まっている者がいれば、迷わず膝をつき、胸を押し、口に息を吹き込む。一人、息を吹き返す。次へ。また一人。
「おい、そこの黄色い兜!」
利家が四郎に気づいた。
「お前、熱田の合こんのときの鈴木四郎だよな。井伊のあんちゃんはどこだい?」
四郎は首を横に振った。その目が焦りで揺れていた。
「……あいつ、さっき俺と一騎打ちをしたあと奥へ走っていったんだ。たぶん白き妖女のところに行こうとしていた。ちょうどここが爆発した頃合いだった」
四郎の顔から血の気が引いた。本丸へ向かうならこの曲輪を抜ける。焔硝蔵のすぐ脇を。
四郎は炎と煙の中で目を閉じる。
爆ぜる炎の音。崩れる土の音。赤母衣衆の掛け声。助け出された兵の咳。遠くの東門から響く、唱和の途絶えた静けさ。
そのすべてを四郎の耳は一枚一枚剥がしていった。
そして、かすかな、かすかな、うめき声を耳に捉えた。
(……いる)
四郎は走り出した。
焔硝蔵があった場所は黒く抉れた穴になっていた。その縁に畳十枚ほどの巨大な平たい石が斜めに傾いて突き刺さっていた。
その下から微かな声がする。
「……めぐ……ひめ……」
石の下のわずかな隙間。そこから泥と血に汚れた白い指先が覗いていた。
四郎は巨石に飛びついた。両手を石の縁にかけ全身で持ち上げようとする。
全く動かない。
指の爪が割れた。血が出た。それでも、四郎は石を押し続けた。
「――どいてろ、黄色いの」
利家が赤母衣衆を十人ほど引き連れて駆けつけてきた。
「こいつか」
十人が石に取りつく。利家も肩を当てる。
「せーのッ!」
動かない。
「もう一回だ、せーのッ!」
石はほんのわずか軋んだだけだった。
「……くそっ。人の力じゃどうにもならねぇ」
利家は肩で息をしながら石を睨んだ。
四郎は石の隙間に手を差し込んだ。白い指先に自分の指をそっと重ねる。
指先はまだ温かかった。
だがさっきより冷たくなっていた。
「こういう時、藤吉郎だったら、なにか考えつきそうなのに。なんか手はねぇか」
利家の目が自分の手の中の槍に落ちた。
それから二千騎の二千本の槍を見た。
「……てこだ」
利家は叫んだ。
「赤母衣衆、全員槍を持って来い!今すぐだ!」
◆
二千本の槍が瓦礫の中に運び込まれた。
「二十本ずつ束にしろ! 縄でぐるぐるに縛れ! 一本じゃ折れても二十本なら折れねぇ!折れてもかまわねぇ!」
赤母衣衆の若武者たちが夢中で槍を束ねていく。二十本の束が百本。
「石の縁にぐるっと差し込め! 下に瓦礫を噛ませろ! 支点にするんだ!」
百本の束が鏡石の縁にぐるりと差し込まれた。その一本一本に二十人の赤母衣衆が取りつく。
二千人が息を殺して利家を見た。
利家は石の前に立った。
今日だけの赤母衣衆筆頭。手柄にならない、しみったれた役目。
「……おい、お前ら」
利家は二千人を見回した。
「今日の俺たちの仕事は門の前に突っ立ってることだった。で、これからやることはもっと手柄にならねぇ。……この石の下に埋まってんのはさっき俺に『次会ったら絶対ぶっ殺す』って言い捨てた生意気な野郎だ」
利家はにやりと笑った。
「ぶっ殺すって言われた相手を瓦礫の下で死なせたら尾張もんの名が泣くってもんだ。……赤母衣衆の団結、見せてみろ!」
「おうッ!!」
「せーのッ――!!」
二千人が一斉に槍の束に体重をかけた。
百本の束がみしみしとしなった。
鏡石が軋んだ。
そして――ほんの人の身体ぶんだけ浮いた。
その瞬間、四郎が隙間に身体をねじ込んでいた。
石の下の暗がりに両腕を突っ込み、泥にまみれた身体を抱きかかえて引きずり出す。
四郎が転がり出た、その一瞬後。
「もう、限界だァッ!」
槍の束が何本かばきりと折れた。鏡石がどおんと元の場所に落ちて土煙が舞い上がった。
◆
土煙が晴れた。
四郎の腕の中に直虎がいた。
泥と血にまみれて、ほどけた黒髪が顔に張りついている。纏っていた武具は、みなどこかへ飛んでしまっていた。狩衣はぼろぼろに裂けている。
四郎が口元に手のひらをあてる。息はある。
四郎はぱっと振り向いて利家に向かって目を輝かせる。
「……しろう……」
直虎が言葉を出す。四郎はうなずいた。何度も何度も。ヘルメットの下では目からぼろぼろと涙がこぼれていた。
利家が横からぬっと顔を出した。
「よう。生きてたか、井伊のあんちゃん」
直虎はぼんやりと利家を見た。
「……槍の……又左……」
「お礼とぶっ殺すのはまた今度でいいぜ。これは貸しにしといてやる」
直虎は何か言おうとして、ふと顔を東へ向けた。
城の東の空。焔硝蔵の炎とは違う方角。
東門の方からさっきまで響いていた、あの唱和が聞こえなかった。
代わりに、たった一つ。
夜を震わせる野太い男の咆哮が届いた。
直虎の目が見開かれた。
その声を直虎は生まれた時から知っていた。
「……父上」
次回第50話は第三章の最後から2番目。そしてこの物語全体の最終回は52話です。
9月30日夕方、10月1日夕方、10月2日夕方と連続公開します。最後までぜひお付き合いください。




