第47話 最終対決信長VS義元
城中に響く鞭の音。南の城門では、自称闇の魔導士「松平元康」の号令で丸腰の三河兵が蜂起し、城門を内側からあけ、その門前には信長の親衛隊赤母衣衆二千騎が並ぶ。――そして、その反対側では。
時計の針をさらに戻す。今朝――熱田の湊。
恵たちを乗せた舟が岸を離れようとしていた。
船べりにセーラー服の恵と、夜通し泣きはらしたような赤い目をこする井伊直虎。そして黄色い安全ヘルメットをかぶった鈴木四郎は、ぼんやりと空を見つめて両手の指をかちゃかちゃと動かしていた。そこには何もない。だが四郎の指は見えない立方体の一段を回しまた一段を回している。昨夜、藤吉郎に見せられたあの「溜比丘九部」を指が勝手になぞっているのだ。
恵は、それを見咎めて腰に手を当てて、ぷりぷりと「こらっ、四郎さん。ぼーっとしない。家に帰るまでが修学旅行です!」
四郎がびくりと背筋を伸ばす。
浜で見送る織田信長が恵の言葉に眉を寄せた。
「しゅうがく……りょこう。なんじゃ、それは」
隣に立つゴスロリ姿の松平元康が舟から目を離さずにぽつりと答える。
「……たぶん恵は……この戦を旅だと思ってる」
「旅、で、あるか」
信長は遠ざかる舟を見つめたまま、口の端をわずかに上げた。
「ならば家に帰す前に――忘れ物を返してやらんといかんな」
◆
舟が見えなくなると、信長は踵を返した。
「又左」
「へい」
前田利家があくびを噛み殺しながら進み出る。
「今日一日だけ貴様を赤母衣衆の筆頭に戻す。二千騎を連れて、今宵、沓掛城の南の門前に並べ」
「ほ、ほんとですか、殿!」
「ただし」信長の声は冷たい。
「城には一歩も入るな。門の外でただ並んでおれ。略奪は厳禁。殺しはなるべくするな。ただ挑まれたら、仕方がないな」
「はあ……それが手柄になるならやりますけど」
「いや、手柄にはならん。なにしろ門の外に立っているだけだからの。成功しても赤母衣衆には戻さん。失敗したら追放じゃ」
「はあああ? なんすか、それ?」
元康は興味なさそうなそぶりだが耳はピクピク動く。
「みなまで言わんとわからんか、又左」
「いや、全然わからないっすよ!なぁ、藤吉郎」
「はい、正直、サルめも殿のお考えが読めません」
信長は元康を近くに手招きする。
「三河兵はどれほど残っておるのじゃ?」
「……そうだね……僕の闇の戦士たちは二千ってとこかな。全員大なり小なり負傷している……ふつうなら歩くのがやっとってところ……戦力にはならないって今川軍は思うだろうね……」
「同盟を結んだからにはそいつらを救出する。それが盟約の一歩目じゃ」
「あっ!」となにかに気づいたように永徳が声をあげる。信長が「言ってみろ」と促す。
「城の中には怪我をして丸腰の三河兵が二千人。元康さまが今川から寝返ったことは恵さんたちからいずれ伝わる。そうすると彼らは危険分子として処分されるかもしれない」
「まぁそれが普通だな。だけど、それが何で俺が手柄無しの門番をやることになるんだよ」
「殿は親衛隊の赤母衣衆を、清須城の裏切り者から桶狭間の極秘作戦が漏れないように、あえて清須城から動かしませんでした。彼らを沓掛城に送れば手柄欲しさに、城内の動くものを全部刺すくらいの気持ちでしょう。それでは同盟の意味がない」
信長は「で、ある」と同意する。
元康は無表情ながらまんざらでもないという様子だ。
「くぅうう。理解はできた。元隊長の俺が率いれば、確かに城内に入るなっていう命令は徹底できる。でも二千の赤母衣衆に手柄無しっていうのはやつらも納得しないんじゃねぇっすか?」
信長はうっすらと微笑し
「やつらには手柄も褒美も与える。手柄無しは一日隊長のお前だけじゃ、又左」
「えーーーっ!まったく意味が分からないっすけど」と声を荒げる。
信長の考えを理解した藤吉郎が代わって説明する。
「又左よ。お主、帰参が認められていないのに、勝手に足軽になって参戦しただろ。それのお咎めは無しっていうことじゃろ。本来は桶狭間で斬り捨てられておったんじゃぞ」
信長が白々しく考え事をするそぶりをして、
「二千の荒ぶる兵を抑えながら、敵が向かってきたら圧倒的な力を見せつけて『不殺』を貫く。こんなことをできるもののふは、天下広しと言えども、まして尾張にはおらんじゃろうな」
「わかりました、わかりましたよ!俺がやりますよ、手柄無しで!」
「で、あるか」
「でも、うまくいったら一つお願いがあるっす」
「言うだけ言うてみろ」
「さっきまでやっていた『合こん』ってやつ。松も呼んで一席設けてくれませんか、できればあの白き妖女も呼んで」
「是非も無し」
元康が作戦の詳細を続ける。「……じゃあ南の門は……僕の三河兵たちが……内から開ければいいんだね……闇の戦士に号令を掛ければ……可能……」
「南の門で騒ぎを起こすが、東の門には兵を置かない。駿河への道じゃ。義元の兵どもは南に新手の二千騎を見れば戦わずに安全な東から逃げ出すじゃろう。義元が相当な愚将でない限り駿河と遠江の兵を維持することを最優先とするじゃろう」
藤吉郎がぱんと手を打ち、
「さすが非の打ち所がない作戦でござる。で、殿はどうされるので?」
「決まっておる」
信長は腕を組みなおす。
「奇襲で義元の首を取る。桶狭間の第二幕じゃ!そしてあやつを今度こそ捕らえる!」
◆
それぞれが作戦のために動く。元康は「加藤どのにあいさつしてくる」と浜辺を去る。
利家がぶつぶつと言う。
「……手柄なしで、赤母衣衆は今日だけって。帰って松に言ったら絶対口利いてくれないの確定じゃねぇか」
背中から信長が「又左、もう一つある」と付け加えた。
「ワシが事を成したら合図を上げる。そうしたら竹千代を――羽交い締めにしてでも止めよ。あやつは止めねば、どこまでも行くぞ」
利家はゴスロリの小さな背中をちらりと見て、黙ってうなずいた。
◆
そして今。沓掛城の北側。南の正門とはちょうど反対の土塁の下。月明かりの下、空堀の底に三つの黒い影がうずくまっていた。
先頭は織田信長。
まとっているのは桶狭間で拾ったあの「忍びの装束」――恵が新幹線で着替える前に着ていたユノロクの黒い男性向けビジネススーツである。
「殿。例の白い襦袢が月に光っておりますぞ」藤吉郎が小声で注意する。
信長は無言で上着の前の小さな留め具――ボタンを上から一つずつ留めていった。白いワイシャツが黒の中に隠れる。首元で赤茶色の細長い布が夜風にひらりと揺れた。
(桶狭間でサルと首をひねった、あの「黒」と「白」の謎。……なるほど、前を閉じれば闇に消える。よく出来ておる)
二番手は木下藤吉郎。本物の忍び装束に身を包み、腰には得体の知れない道具をじゃらじゃらと下げている。
しんがりは狩野永徳。同じく忍び装束だが頭巾の上には、なぜかあの白いベレー帽がちょこんと乗っていた。
「永徳どの。その帽子は脱いでくだされ。目立ちます」
「い、嫌です。これは……あの人が似合うって言ってくれたので」
藤吉郎は天を仰いだ。
◆
「ミカワ・バンザイ!!」
南の方角から地鳴りのような唱和が響いてきた。
「……竹千代め。始めおったな」 信長が土塁を見上げる。
高さは人の背の四倍はある。雨を吸ってつるつると滑る土の壁。その上には槍を持った見張りの影が点々と並んでいた。だが、見張りたちはみな一斉に南へ注意を向けている。
「行くぞ」
信長が跳んだ。空堀の底から土塁の斜面へ。わずかな草の根、突き出た石、木の杭――足をかけられるものを一瞬で見極め、音もなく蹴り上がっていく。黒い背広の裾が夜風を孕んで翻る。人の背の四倍の壁を信長は三呼吸で登りきった。
「恵どのの靴にワシが急ぎ発明した鉄金具『愛染』を取り付けたとはいえ……体力化け物か、殿は」
藤吉郎は腰の道具から四本爪の鉤のついた縄を取り出した。ひゅん、ひゅんと頭上で回し、放る。鉤は土塁の上の木の柵にがっちりと食い込んだ。
「サル特製『猿梯子』。縄の途中に足掛けの輪を一尺ごとに結んでござる」
藤吉郎は長い腕でするすると縄を登っていく。
最後に永徳。「え、ええと、輪に、足を、かけて……」
一つ目の輪に足をかけ、二つ目に手を伸ばしたところで足が滑った。
「わっ――」ずるずるずると空堀の底まで滑り落ちる。べちゃと泥の音。
上から藤吉郎の押し殺した声が降ってくる。
「永徳どのぉ……ゆっくり登ってきなされ」
(それに比べて永徳どのの体力の無さは乙女のようじゃ)
二度目。三度目。永徳は泥まみれになりながら、それでもベレー帽だけは両手で押さえて、ようやく土塁の上に這い上がった。
◆
土塁の上に立った三人の眼下に沓掛城の城内が広がっている。
「……なんじゃ、これは」信長が低く唸った。
土の壁。その内側にまた土の壁。曲がりくねった通路の先にさらに堀。行き止まりに見える角が実は折れて奥へ続いていたり、真っ直ぐに見える道が、実は同じところをぐるりと回っていたりする。高い土塁に視界を遮られ、どこが本丸なのかまるで見当がつかない。
「自然の地形でなく一から作ったからこその土の迷路でござるな」と藤吉郎。「夜ではなおのこと……厄介ですぞ」
遠くでは南門の騒ぎがいよいよ大きくなっている。土塁の上を見張りが走り始めていた。ぐずぐずしていれば見つかる。
「……線が、集まっています」とぽつりと言ったのは永徳だった。
泥まみれの顔でじっと城内を見下ろしている。
「永徳、何じゃ」
「土塁の稜線です。一本一本はばらばらに曲がっているように見えます。でも……」
永徳は人差し指を立て、月明かりに浮かぶ土塁の縁を宙でなぞっていく。
「この線とあの線とその奥の線。延ばしていくと――ぜんぶ一つの点に集まるんです」
永徳の指先が止まった。城のほぼ中央。ひときわ高く、黒々と盛り上がった影を指している。
「あの人がやってみせた三角の船団の構図です」
永徳は浜辺で恵と肩を並べて砂のキャンバスに様々な絵を描いたことを思い浮かべていた。
「あの時の船団の構図。僕は『線遠近法』って呼んでいるんですけど、あれはなんというのですか?」
そう問うた永徳に、恵はびっくりして目をぱちくりさせ、「えっと『パース』よ」と短く答えた。
さらに詳しく聞いても、「パースのことはワタシから教えられない。それはあなたの道を汚すことになるから」と答えてくれなかった。
「だけど僕は身につけた。この『ぱーす』の力を。あの人に近づくために」と大声をあげて、藤吉郎から「しー、静かに」とたしなめられる。
「この城を造った人は本丸を守りたくてすべての壁を本丸に直接つながらないように造っています。……逆に言えば、線を『ぱーす』で辿れば本丸に着きます」
藤吉郎がぽかんと口を開けた。「永徳どの。……そんなこと分かるのになぜ縄梯子は登れんのです」
「そ、それとこれとは、別です!」
信長が短く言った。
「先を歩け、永徳」
「……え?」
「お前の目を信じる。案内せい」
永徳の頬が泥の下で真っ赤になった。
◆
永徳が先を歩く。「右です。……この先は行き止まりに見えますけど、壁の線が奥で少し折れています。次はまっすぐ」土の迷路を三つの影が音もなく抜けていく。
直角の曲がり角の向こうから松明を持つ見張り二人が走りこんでくる。信長はすっと身を沈めると、地を這うようにしてから一気に跳ね、一人目の顎を掌底で打ち上げる。崩れ落ちるより早く、二人目の背後に回り込み首筋に手刀を一閃。二人の見張りは声ひとつ上げずに土の上に眠った。
落ちた松明を信長は足で踏み消した。息ひとつ乱れていない。
「……殿。刀は抜かれないのですか」
「今度こそ義元の首を取る。それまで刃こぼれはせん」
次の曲輪の入口には十人ほどの兵が門を固めていた。南の騒ぎで浮き足立ってはいるが、持ち場を離れる様子はない。
「サル」
「お任せを」
藤吉郎は懐から黒い玉を二つ取り出した。そしてもう片方の手には――熱田の加藤家の座敷で拾った、あの細長い金属の棒。
カチッ。指一本で先端に小さな炎が灯る。
「この恵どのの秘密道具のおかげで、サルの忍び道具もずいぶん捗ります」
導火線に火を移し玉を門の前へころころと転がす。
ぼふっと真っ白な煙が噴き上がった。唐辛子と胡椒を練り込んだ忍者定番の煙玉である。
「ごほっ、げほっ、なんだこれは!」
「目が、目がぁっ!」
煙の中を黒い影が三つすり抜けていく。
◆
本丸へ続く最後の坂の手前。坂を転げ落ちる勢いで若い足軽が駆けおりてきた。信長は襟首を背後からひょいとつかんで土塁の陰に引きずり込んだ。
「ひっ、ひぃっ!お、お助けを!」
「騒ぐな。聞きたいことがある」信長は足軽の顔を覗き込んだ。
「恵は…どこにおる」
「め、めぐみ、聞いたことありません」と足軽は首を横に振る。
「奇天烈な南蛮服を着た、摩訶不思議な、そして笑顔が魅力的な男の娘じゃ!」
足軽はハッとして
「あのお方、虹色の女軍師さまのことですね。あの方、男の娘だったんですか」
「それじゃ、どこじゃ!」
足軽はがたがたと震えながら、本丸の奥を指さした。
「お、奥座敷に……義元さまの夜伽に召されて……」
「……夜伽」
「さ、さっきから鞭の音と悲鳴が……城中に響いているでしょう……。義元さまはこれまで縄で何人も縊り殺してきた御方……あ、あの様子では女軍師さまも……」
足軽の言葉が途切れた。信長が無意識のうちに襟首を握る手に力が入り、足軽を落としてしまったのだ。
ちょうどその時。風に乗って本丸の奥からあの音が届いた。
ヒュン。
「……ひぃっ」
藤吉郎がごくりと唾を飲む。永徳の顔から血の気が引いた。
「さっきから聞こえるこの音は…それ、で、あるか」
信長のこめかみが目に見えて脈打つ。
「恵を捕まえに来たが――予定を変える」 低い声だった。
「……助けるぞ」
言うが早いか信長は坂を駆け上がっていた。「と、殿!お待ちを!」とあわてる藤吉郎の横を、永徳がこれまで見せたことのない猛スピードでその背中を追う。
◆
本丸御殿はがらんとしていた。 南門の騒ぎに兵たちの多くが駆り出されたのだろう。大広間の縁側にも人影はない。長い廊下を信長は足音も立てずに駆けた。奥へ。奥へ。
音が近くなる。
ヒュン。「……ひぃっ」
ヒュン。「――も、もっとじゃ……」
信長の足が一瞬止まった。
(……もっと?)
だが、考える間はなかった。最奥の襖の前。信長は刀を抜き放つと一息に襖を蹴り開けた。
「大丈夫かッ!恵ぃぃッ!」
◆
行灯の揺れる灯。天井の梁から垂れた縄に両の手首を吊られ、胸から腹から亀の甲羅のように縄を掛けられた褌一丁の巨漢が爪先立ちで揺れていた。
白粉が汗でまだらに流れている。お歯黒の口が恍惚と半開きになっている。駿河・遠江・三河、三国太守「今川義元」だった。
その傍らに黒いレースの下着と、ガーターベルトの恵が、薔薇鞭を振り上げたまま固まっていた。
信長が固まった。後ろから飛び込んできた永徳は敷居に足を引っかけて転び、ゴロゴロと回転して、恵の足元で止まった。最後に入ってきた藤吉郎も口をパクパクして固まっている。
長い沈黙。
「……の、信長さま?」
恵が鞭を振り上げたまま、素っとん狂な声をあげた。
「な、なんで、ここに……。あっ、それワタシのスーツ……」
「返すって約束したじゃろ。今朝、熱田の浜で……」
「そ、そ、そうだったわね。あ、ありがとう、ございます」
◆
信長は刀を構えたまま畳に踏み入れると吊るされている義元を見た。
今川義元。駿河・遠江・三河、三国の太守。父の代から、尾張を脅かし続けた男。昨日の朝から、この男の首を取るために、ワシは雨の中を駆け続けたのだ。いやそれよりずっと前からこの男を超えるためにあらゆることを計算し、それに備え、実行してきた。その偉大な男が今、縛られ吊られている。刀を一閃させれば、ワシの夢は……終わる。
藤吉郎が小さく息を呑んだ。永徳は「うーん」と言いながら顔をあげると、「うわっ」と想定外のシチュエーションに驚きの声をあげて、尻餅をつく。
吊られた義元がゆっくりと信長と目を合わす。
「織田上総介信長。ワシを笑うか?」
義元の目には恐怖も恥辱すらなかった。ひどく穏やかな――憑き物が落ちたような目をしていた。
信長は笑わなかった。
長い息を一つ吐いてから刀を下ろすと、そのままどかっと畳に胡坐をかいた。
そして、
「……また、恵か」
ぽつりとそう言った。
吊られたままの義元が口を開いた。
「……白檀」
恵の動きは速かった。鞭を置き梁の縄の結び目に指をかけ、するりと引く。一本の縄が解けると、義元の身体を這っていた縄が嘘のようにほどけていく。
恵は崩れ落ちそうになる巨体を肩で支え、畳の上にそっと座らせた。
「はい、今夜のプレーはこれでおしまい。……よく頑張りました」
義元の手首を取り指を当てる。脈を確かめる。
義元は恵から渡された羽織を肩に引っかけると、畳の上で信長と差し向かいになった。
褌一丁の三国太守と黒いスーツ姿の第六天魔王。
先に口を開いたのは信長だった。
額に手を当てながら
「……ワシは生まれてこのかた、どうしてよいか迷うたことなど一度もなかった」
「ほう、偶然じゃな。ワシもじゃ」
「斬ると決めたら斬る。捨てると決めたら捨てる。……それがどうじゃ。昨日からこの女のせいで、迷うてばかりじゃ」
義元がカカカと喉で笑った。
「これまた奇遇じゃな。ワシもじゃ」
白粉が汗で流れた顔で義元は恵を顎でしゃくった。
「こやつが本陣に降ってきた時、ワシはすぐあとに首を取られる運命じゃったそうな。それが、輿を捨てさせられ、雨に濡れぬ衣を着せられ、熱田神宮を”燃やす”策を呑まされ――挙げ句の果てに、これじゃ」
「ちっ。桶狭間の罠、ワシは何年もかけて練り上げたんじゃ。全部、台無しじゃ」
義元は足元の縄をつまみ上げて
「……本当にこやつのせいで人生を変えられたわ」
「熱田神宮は本当に燃えているかと肝をつぶしたわい」
「なんのそれしき、ワシはのぉ、十何年も昔のワシの男色の相手を言い当てられたぞ」
「それくらい大したことないではないか。ワシはのぉ、こいつの光で目を焼かれたんじゃぞ」
「ワシはなぁ、ワシの縄で、ワシの身体で、素晴らしい喜びを教え込まれたわ」
「くっ。そうみたいだな。じゃがワシは南蛮の『ルネサンス』の話をたっぷり聞き出せたわい」
「なんの、なんの。では『エスエム』の『エス』はサービスのエスと知っておるか」
「くっ。全く分からんわ!じゃあ『パース』って知っておるか!」
二人の戦国大名はいつのまにか身を乗り出し、いかに恵に「ひどい目」にあったか自慢合戦を始めた。
「あの……」恵がおずおずと手を挙げた。黒いレースの下着のまま。
「ワタシ、着替えてきて、いいですか」
信長と義元が同時に振り返った。
「「当たり前だ、この非常識め!!」」
◆
恵が屏風の陰でセーラー服に着替えて戻ってくると座敷の空気が変わっていた。
南の方角から響く喧騒がさっきまでとは明らかに違う。唱和の熱狂ではない。怒号、悲鳴、何かが崩れる音。刃と刃が打ち合う音。
藤吉郎が障子を細く開けて外を窺った。
「……殿。南の騒ぎ、懸念されたようにただの騒ぎではなくなっておりますな。どうやら斬り合いが始まっておるようで」
信長の眉間に深い皺が寄った。
(竹千代め。……門を開けるだけで、よいと言うたのに)
信長は義元に向き直った。しばし黙る。そして苦いものでも噛むように口を開いた。
「……ありえん。敵に手の内をさらすなど。じゃが……」
ちらりと恵を見る。
「こやつがおると何でもありじゃ」
信長はすべてを話した。南門の二千騎は城に入らぬよう命じてあること。東の門に兵は全く置いていないこと。三河の兵を元康のもとへ生きて返すのが狙いであること。つまり今川の兵を駿河・遠江へ帰すつもりであったこと。
義元は黙って聞いていた。聞き終えると、しばらく行灯の灯を見つめていた。
「……ワシも胸の内を明かそう」
義元は白粉の顔をゆっくりと上げた。
「ワシは戦国大名を辞める」
恵が「えっ」と声を上げた。
義元は構わずに続ける。
「ワシは昨日死ぬはずじゃった。その命が今日新しい喜びを知った。……人に命じるなんて、つまらぬことはもうできん。『M』……命じられる側の――あの底の抜けたような安らぎを知ってしもうたからな」
義元は自分の手首を見た。縄の跡が赤く残っているが、どくんどくんと脈は正常に打っている。
「それに恵に言われたわ。部下を死なせたのも、七千を丸腰で走らせて命を救ったのも、最後に決めたのはワシじゃと。……他人の人生はもう十分に決めた」
義元は立ち上がった。褌の上に着物をまとっただけの姿でそれでもその背には三国の太守の最後の威厳があった。
「恵、もう一枚、起請文を書こうと思う」
「うん、うん」と何度もうなずく恵の目からは感動の涙が止めどなく流れる。
義元はさきほどSMプレーの起請文を書いた文机に向かうと、さらさらと筆を走らせた。
「今川の全軍に告ぐ。東の門より駿河へ退け。織田の兵とは刃を交えるな。……三河の者を一人たりとも斬ってはならぬ」
最後に花押。
「――これがワシの人生最後の命令じゃ」
◆
恵が右手で義元の手を取る。左手を伸ばして信長の手を取る。恵を間に挟んで、二人の男が向かい合う。
「……信長よ……貴殿は本当にうつけよのう」
「……義元……あんたもワシも似たもの同士じゃ」
二人は恵の手を離すと――互いの手をがっちりと握り合わせた。
恵はその光景を涙を流しながら見ている。永徳が恵の隣で、震える手で懐から半紙を取り出した。
「描かないと……描かないと消えてしまう……」
南の方角からは地の底を這うような咆哮が続く。それはもはや人の声とは思えなかった。
障子の隙間から外を窺っていた藤吉郎が顔を真っ青にして振り返った。 「と、殿……松平元康、あやつは怪物でござる!」
第一話の恵(男性時)の黒いビジネススーツを着た信長、発明品で道を拓く藤吉郎、そして恵との出会いで身に着けたスキル「パース」で迷宮「沓掛城」を読み解く永徳。 そして、縛られた義元を前に、信長は、笑いませんでした。「また、恵か」。 しかし、信長の完璧な作戦に、ただ一つの誤算が。次回、第48話。「闇の魔導士」松平元康の暴走が、沓掛城を呑み込みます。9月29日夕方公開します。




