第46話 SMのSはサービスのS
城門で鳴り響いた、鞭の音と、悲鳴。直虎を苦しめたあの夜伽の真相は?
時計の針を松平元康が城壁に現れる、その前へ巻き戻す。
本丸御殿の奥座敷。灯は行灯がひとつきり。
褌一丁の今川義元が畳の上にあぐらをかいて待っていた。天井の梁から一本の縄がだらりと垂れている。
「ま……まだか」
そう尋ねるのもこれで三度目だった。
「お待たせしました」
襖の向こうから恵が現れた。
黒いレースのブラジャーとパンティ。腿までの黒いストッキングを、ガーターベルトで吊っている。疲労で青ざめていたはずの肌が行灯の灯を吸って艶めかしく光っていた。
義元の目が少年のように輝いた。
「……きれいだ」思わず口から漏れた。
「えっ? 今、なんて?」
「な、なんでもないわい」
義元はごほんと咳払いをして、いつもの蛇のような顔を作り直す。
「さっそくじゃが。ワシはこれまで縄で何人も縊ってきた。手慣れたもんぞ」
「……どうぞ」
恵は義元に向けて両の手首をすっと差し出した。
義元が縄を巻く。ぐいぐいと力任せに。
「痛っ……ストップ、ストップ! 義元さま、痛いです。骨に当たってるし、動脈おさえてるから手が紫になってる!」
「む? 縛るとは、こういうものであろう」
「ぜんぜん違うわ」
恵は縄を一度ほどかせた。
「縛るって行為の本質はね、"締める"んじゃなくて"掛ける"なの」
恵は義元の丸太のように太い手首を取ると縄の実演をしてみせた。
「いい? 縄と肌の間に指が二本入る余裕が重要。それから――そのとき指で必ず脈の位置を確かめるの。ここ。とくとくって動いてるでしょ? これが止まったら下手したら死んじゃうわ」
「……しかし。痛めつけるために縛るんじゃろ?」
恵はじっと義元の眼を見つめた。
「義元さま。人を殺したくてワタシを呼んだわけじゃないでしょ。……ワタシの知ってるもっとすごい快感を味わってみたいんじゃなくて?」
「ま……まぁ確かに。人殺しならほかにずっと上手なやつがいくらでもおるからな。恵は人殺しが本当に下手だからな」
「お褒めの言葉と受け取っておくわ」
恵はにっこりと笑い、少し真剣な表情で続けた。
「ワタシこれだけは自信をもって言えるの。この時代で日ノ本だけじゃなく地球で一番オトコの快楽を知ってる女装子だって」
義元がごくりと唾を飲み込む。
「ちきゅうというのは……もしや、唐、天竺、南蛮までも含めての意味か」
「そうそう。この大きな世界のなかで、これから教えてあげる快楽を知ってるのはワタシだけ。……義元さまは16世紀に生まれた人間の中で一番最初にそれを知る男になるの」
「わ……分かった。ワシが人の世で初めてか」
義元の声が上ずっている。
「や……やってみろ」
恵は義元の両手首を麻縄でするすると巻いていく。
「どうですか?」
「……全然痛くないが。これでは簡単に抜けることもできそうじゃ……ぬっ、全く動けん!」
「そうです。縛りの強度と痛みは別ものよ。痛みを快楽に変えるにはメリハリが大事なのよ」
「で、なにをしておるんじゃ?」
恵は義元の手首に指を当てていた。
「さっきの脈をはかってるの。縛る側はね、ずっと相手の身体の声を聞いてるの。息、脈、声、震え。……全部」
「……ワシは人の脈など確かめたことがないぞ」
「でしょうね」
義元が少しむっとする。
「縊る相手のことを気にするなど面白うないではないか。ワシは縛る側じゃ。命じる側じゃ」
恵は少し首をかしげて問うた。
「義元さま。SMの『S』って何の略だと思ってます?」
「さっきお主が言うておったではないか。『さでぃすと』。苦痛を与えることに喜びを感じる者じゃ」
「それは上辺の話」
恵は人差し指を立てた。
「特別に本質を教えまーす。SMの『S』は――『サービス』のS」
「……さーびす?」
「サービスは南蛮語で奉仕。縛る側は奉仕する側なの。相手の『気持ちいい』を作る職人。相手が壊れないように、怖がらないように、全部を引き受けて、普通の快楽を超えた絶頂を与える。……そういうクラフトマンシップなの」
義元の眉がぴくりと動いた。
「縛るほうが奉仕する側じゃと。真逆ではないか!」
「そして」
恵の声が少し小さくなる。義元が耳を寄せる。
「本当に気持ちいいのは――縛られるMのほう」
「ば、馬鹿な。そんなたわごと信じんぞ!」
「義元さま」
恵は義元の両腕を縛っていた縄をするすると解きながら、しとやかに聞く。
「命じることに疲れたこと……あるでしょ?」
義元が言葉を失った。
「全部背負って。全部決めて。誰も責任を負ってはくれない。……小幡さんを囮にしたのも、七千人を丸腰で走らせたのも、最後に決めたのは義元さまでしょ」
行灯の炎がぱちりと音を立てた。
「誰かに全部あずけて『ただ、感じるだけ』になったこと……最近あります?」
行燈に照らされた義元は一瞬少年の面影を写す。しかし白粉の顔をわざとらしく歪める。
「くくく。……言葉巧みじゃな。あの連歌師の谷宗牧よりもな」(※義元の初めてかつ唯一の男色の相手)
「あら、光栄だわ」
恵はしなを作りウィッグの耳元をふわりと払った。ウィッグスプレーのフローラルな香りが義元の鼻をくすぐる。
「命じるのと、命じられるのの二択なら、それは命じるほうがいいわよ。……でもこの世はそんなことばっかりじゃん」
「むっ、お主のおった世界もそうなのか」
「そうよ。パワハラ、セクハラ、カスハラ。隙あらばマウントの取り合い。……誰にも心なんて開けない」
恵は天井の梁から垂れた縄を見上げた。
「でもSMの世界は違うの。100パーセントの信頼関係。必ずしも心のことだけじゃないわ。そのために技術があって道具があるの。……完全に相手を信じて縄に身をあずける。そんなこと考えたことあります?」
「ぐっ……あるわけがなかろう」
「義元さま。一度だけMを試してみません?」
恵は上目遣いに囁いた。
「ワタシのことを信じてくれるなら。……あ、ちなみに、きのうの夜、信長さまともいろいろお話ししたけどSMの話は全くしなかった。これが分かるのは義元さまだけ、そう思ったから。……どう?」
「……信長には言うておらんのじゃな」
こくりと恵がうなずく。
義元の喉がごくりと鳴った。
「い、一度だけじゃぞ。もし、気持ちよくなかったら――その時はワシ流の縊り方でお主を縛り上げるからな」
「ええ、いいですとも」
恵は艶っぽく微笑んだ。
「絶対に義元さまが知らなかった喜びを与えてあげますから」
義元は「縛ってみろ」と言わんばかりに無言で太い手首を突き出す。しかし、恵はやんわりと手を押し返す。
「その前に、義元さま。これはとっても大事なこと」と言いながら恵は部屋の隅の文机の前に座ると、筆と紙を見せた。
「今から起請文を書きます」
「起請文じゃと⁉」
◆
「ワタシはここに書いたことまでしかやりません。それを超えることは絶対にしない。……それと安全語を決めましょう」
「あんぜん、ご?」
「本当に嫌になった時に言う合言葉。……そうですね」
恵は少し考えて「ふふっ」と笑った。
「義元さまのいつもの香り。――『白檀』にしましょ」
「白檀か。ワシのことを案外よう知ってるんだな、メグミは」と義元は恵をちらりと見る。
「そうでしょう、ワタシは戦国オタクだから、もちろん義元さまのことに興味津々ですよ」
「そ、そうなのか? メグミはワシのことを嫌っていると思っとった。ずいぶんひどいことをしてきたし……」
「戦国大名がそんなこと気にしない、気にしない!」と朗らかな笑顔を見せる恵を眩しそうに見る義元。
「ともかく、やめたいときはワシが『白檀』って言えばいいんだな」
「はい、義元さまが『白檀』と言ったら、ワタシは何をしててもその瞬間にぜんぶ止めます。……逆に言うと」
恵の目がいたずらっぽく光る。
「『痛い』とか『苦しい』とか『もうだめ』とか言ってもやめません。『死ぬ、死ぬ』って言ってもやめない。それは本当の快楽のすぐ手前の状態だから。……止めるのは『白檀』のひと言だけ。それが絶対的なルールです」
「なんというか……」
義元は感心したように唸った。
「危険極まりない遊戯と思うておったが。存外、安心できる仕組みなんじゃな」
「そうなんです。SMはSとMの共同作業。信頼関係があって初めてたどり着けるの。言ってみれば……冬の富士山にパーティを組んで登山して、山頂から拝むご来光の世界」
「冬の富士でご来光……」
義元の目がうっとりとする。
「それはもう浄土の世界ではないか」
◆
恵が紙に筆でこれから行う「プレー」の内容を事細かに書いていく。何をして、何をしないか。一行、また一行と。義元はそれを一行ずつ真剣に読んだ。そして大きくうなずくと、紙の左下にさらさらと花押を書き入れた。
(うわっ、やばい。戦国武将が花押を書くとこ、初めて見た。しかもそれがSMの同意書だなんて……!)
恵が歴史オタクとして内心で悶えているとも知らず義元は、書き上がった起請文をもう一度じっくりと読み返した。それから天井の梁の縄を見て、最後に恵を見た。
その眼は――初めてのおつかいに行く子供のような目だった。
(……うわっ。ちょっとかわいい)
「……頼むぞ、メグミ」
「あら。起請文に書いてあるでしょ?」
恵は右手に鞭を取って、軽く自分の左手の掌を打って「ぱしっ」と音を立てた。
「Sを呼ぶときは――『女王さま』」
「じ……じょ、じょおう、さま」
その言葉を、口にした瞬間。
義元の巨躯に雷が落ちたような痺れがつらぬき、身体がびくんと跳ねる。
「あーら」
恵がぺろりと唇を舐めた。悪役プロレスラーの義元のその仕草をそっくり真似て。
「やっぱり、あなた。Mっ気がたっぷりあるみたい。……うんとサービスしてあげるわ」
鞭の先で義元の顎をつつつとなぞる。
三国の太守はこれから訪れる快楽への期待で、早くもその身をぶるりと震わせた。
◆
ヒュン。
「……ひぃっ」
音は大きいが、痛みは精緻に制御された薔薇鞭。恵がそれを振り下ろすと、義元は普段の野太い声とは何オクターブも上ずった中低音の悲鳴をあげた。喜びの、悲鳴を。
「耐えられなくなったら、いつでも安全語を言うのよ」
「……も、もっと。もっとじゃ!」
ヒュン。
「……ひぃっ」
行灯の灯が二つの影を襖に大きく映し出す。縛られ身をよじる巨大な影。その傍らに悠然と鞭を振るう細い影。
――まだ誰もこの「真相」を知らない。
◆
そのおぞましい音は、静まりかえった沓掛城の隅々にまで染み渡っていった。城門の物見台で膝を抱えてうずくまった直虎は両手で耳を塞いでいた。ぎゅっと目を閉じて。
「……姫」
ヒュン。
「……ひぃっ」
直虎に届く音は鞭の唸りと聞きなれぬ悲鳴だけ。それがSとMのどちらのものなのか。直虎には知る由もなかった。
直虎は耳を塞ぐ手に力を込める。
その時、頭上の月がふっと翳った。雲ではない。ゴスロリをまとった自称「闇の魔導士」松平元康だ。
そして、「闇の魔導士」と「闇の戦士」が南の城門で大混乱を巻き起こしてる最中、その反対側で黒づくめの男たち3人が静かに城壁を越えた。
44話・45話と、同じ夜。城が蜂起の大混乱に陥るその裏で奥座敷では――義元が甲高い悲鳴をあげていました。「SMのSは、サービスのS」。恵の女装子としてのプライドと"命じることに疲れた"義元の孤独が思わぬ形で噛み合う一夜です。直虎はその真相を知る由もありません。
黒づくめの3人とは?(たぶん、信長、藤吉郎、永徳でしょうね(笑))。次回をお楽しみに。9月28日夕方公開します。




