第44話 膝枕と大馬鹿野郎
軍議を追い出された恵は、あてがわれた小部屋で、直虎と四郎とともに、束の間の休息をとる。
あてがわれたのは本丸の片隅の小さな部屋だった。
畳に倒れ込むように座った恵は「はぁ〜」と長い息を吐いた。潮と砂と汗でごわごわになったセーラー服が我ながら情けない。
「ねぇ、直虎くん」
「はい、姫。なんなりと」
「膝枕して」
直虎の動きがぴたりと止まった。
「ひ……膝、枕、ですか」
「うん。もう限界。座ってるのもしんどい。でも、なんかまだ寝ちゃうのもったいなくて。……ちょっとだけ話したい気分なの」
直虎の顔が灯よりも赤くなる。だが、すぐに居住まいを正して冷静なふりをして、正座した膝をそっと恵のほうへ向けて、ぎこちなく口を開く。
「……ど、ど、ど、どうぞ」
恵は遠慮なく、その膝にこてんと頭を預けた。
直虎の太ももは思ったより柔らかく、いい匂いがした。
「あ、やっぱり百合の匂いだ。直虎くん、ほんと、いい匂いだよねぇ」
「そ、某は井伊谷の百合を香として……」と、直虎はしどろもどろに答える。膝の上の重みと温もりに心臓が破裂しそうだった。
部屋の隅では、四郎が黄色い安全ヘルメットを膝に置き布でせっせと磨いていた。あごひもの留め具を、カチ、カチと外したり嵌めたり。まるでそこに世界で一番大事なものがあるかのように一心不乱に。
◆
「あのぉ、姫」
膝枕をした直虎が上から覗き込むようにおずおずと切り出した。
「メグミ姫は……その、女子には、興味がおありでは、ないのですか」
「んー?」
恵は天井とイケメンの顔を見上げたまま、けらけらと笑った。
「なにそれ、急に。……あー、まぁなかったわけじゃないけど。ワタシこう見えて、ずっと男だけが好きってわけでもなかったんだよね」
直虎の膝がびくりと震えた。それにも恵は気づかない。
「中学のときにさ、初恋の子がいたんだよね。同じ文芸部の、女子」
「ブンゲイ部……女子……おなごですか?」
「そう普通の女の子。めっちゃ仲良くてさ。本の趣味も合うし、いっつも一緒にいたの。だからワタシから告白したわけ。付き合ってくださいって」
「そ、それで?」
直虎の声が微かに上ずる。
「『友達としてはいいけど、彼氏としては、友達に紹介できない』って。あっさり振られた」
「……紹介できない?メグミ姫を?」直虎の声に少し怒気がはらむ。
「ワタシさぁ、こんな風にガリガリだし、こっちでは背が高いほうだけど、中学のときはもっと背が低くて、その子よりも低かったんだよね。しかも、趣味が読書と歴史とアニメだもんね」
「全然問題ないじゃないですか!アニメがなんだかわかりませんが!そのおなごのほうがおかしいです!」と直虎はなぜかその女子に対して怒りだす。
「ふふ。で、その子さ、次の週にはもう、サッカー部のマッチョと付き合っててさ。ケダモノみたいな奴なんだよ、そいつ。朝と昼休みと夜。一日に三回も自慰してるって堂々と自慢してんの。信じられる? 三回だよ、三回」
直虎は返事ができない。「じ……」と口を動かしたきり、固まっている。
「ワタシは週イチくらいしかしなかったのに。健全だったのになぁ。あーあ、健康的なケダモノには勝てないわ」
恵はあっけらかんと笑う。
「あ、そういえば直虎くんと四郎くんって身体めっちゃ鍛えてるじゃん。やっぱ一日に何回もしちゃうタイプ?」
部屋の隅で四郎の手が止まった。
――が、すぐにまたカチ、カチとヘルメットの留め具をいじりだす。何も聞こえていないふりをして。
直虎の顔はもう赤いのか、青いのか分からなかった。
下からその顔をのぞきこむ恵はからかって、
「ああ、その顔はやってるね!一日二回はマスターベーションしてたでしょ!」
「ま、ますたーなんとかの意味が分かりませんが、いえ、なんとなく分かりますが、私はやってません!」とムキになって答える直虎。
「嘘だぁ!ここまで仲良くなって、それはずるいよ。修学旅行の夜に同じ部屋で枕投げしたあとは布団かぶってエロトークでしょ!」
「しゅうがく、りょこう……。メグミ姫は遊びのおつもりですか?私……われらとの関係も……」
「さすが!直虎くん、当たりだよ。修学とは『学び修める』修行ってことなんだけど、実質的には遊びの旅だね。楽しまなくっちゃ」
恵は話がずれているのに気づかない。
「で、自慰の回数の話に戻るけどさぁ」
「ま、また自慰っ? メ、メグミ姫って……意外と女性に……もてなくないですか?」直虎は少しかちんときて、思わず言ってしまう。
恵はふっと笑いのトーンを落とした。
「ワタシのことを本気で好きになってくれる女の子なんてこの世にいないと思うんだよね。こんな男でも女でもない中途半端なワタシのこと」
直虎の目を見つめる目の焦点が少しだけ天井に移る。
「だから、恋人とかもういいの。遊びで十分。……この時代ってさ、まだ怖い病気もないし。せっかくだから、いろんな人といっぱいハッテンして遊びたいなぁ」
そして、またいたずらっぽく笑って、
「できれば直虎くんみたいなイケメン男子とも、ハッテンしたいなー、なんてね」
冗談のつもりだった。場を盛り上げるための「男子トーク」。
ぽた。
恵の頬に温かいものが落ちた。
ぽた、ぽた。
「……え?」
恵が焦点を天井から戻すと直虎が泣いていた。ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、じっと恵を見下ろしている。
恵は慌てて跳ね起きた。
「ご、ごめん! ごめんね、直虎くん!」
膝から頭を上げ、正座に座り直す。
「ワタシ、調子に乗って変なこと言っちゃったよね。男からハッテンしたいとか気持ち悪いこと言われたら、そりゃ嫌だよね。ほんと、ごめん。気持ち悪かったよね。冗談だから、忘れて――」
直虎の手が動いた。
ぶわっと振り上げられた掌が、恵の頬めがけて振り下ろされる。
その瞬間だった。
「――あああぁあああっ!!」
声が部屋を切り裂いた。
鈴木四郎の声だった。
桶狭間で恵と出会ってからずっと、ただの一度も言葉を発したことのなかった男。その四郎が生まれて初めてのように絶叫していた。ヘルメットを取り落とし、畳を蹴って、手を伸ばして。
直虎がはっと我に返る。
だが振り下ろした掌はもう止まらなかった。
――ぺしっ。
勢いを失った手が恵の頬にほんの軽く触れた。
痛みはなかった。
◆
恵は目を白黒させた。何が起きたのかまるで分からない。
直虎はそれ以上に何が起きたのか分からず、自分の手を見つめてわなわなと震えていた。
「……バカ」
「え?」
「バカ、バカ、バカ……大馬鹿野郎だ、私って本当にバカだ」
直虎は自分の頭を拳で何度も殴りつける。
俺でなく私ーー直虎が使っていたその一人称の意味に、恵は気づかない。ただ直虎の様子におろおろするばかりだ。
「な、直虎くん、どうしたの。落ち着いて。大丈夫、頬っぺは全然痛くないよ」
「うわあああっ!」
直虎は頭を抱えて叫ぶと、弾かれたように立ち上がり、部屋を飛び出していった。狩衣の裾を翻し、百合の香りを残して、逃げるように。
あとには、呆然とする恵と、ヘルメットを取り落としたまま固まる四郎だけが残された。
◆
「……四郎さん」
恵は閉じられた襖を見つめたまま力なく言った。
「ワタシ、直虎くんにひどいことを言っちゃったんだよね」
四郎はゆっくりと首を横に振った。
「……あんなに泣くほど嫌がる話をずっと続けて……」
四郎はもう一度はっきりと首を横に振る。
「やっぱり一日30分睡眠はダメだ……ショートスリープ……危険、だめ……」と恵が言い終わる前に、恵の身体はぐらりと傾き畳に倒れ込んでいた。四郎が身体を支える。恵の口からすぅと寝息が漏れる。あまりに深く、あまりに疲れた眠りだった。
四郎は恵の身体をそっと畳に下すと、直虎が置き忘れた羽織をふわっと掛けてあげる。
四郎は閉じられた襖の――直虎が消えていった、そのほうをじっと見つめる。
追いかけてやりたい。だが眠った恵から離れるわけにもいかない。
四郎は両方の姫を見守る決意をしている。ただ、今はすーすーと夢の世界に落ちた恵を見守るしかなかった。
◆
城門の物見台。
冷たい夜の風が直虎の高く結び直したポニーテール状の黒髪と狩衣の袖を揺らす。
眼下には篝火に照らされた広大な城内。頭上には雨上がりの雲が切れて青白い月が出ている。
直虎は木の柵に背中を預けて膝を抱えて座り込み、その月を見上げていた。
「……私は……いや某は……」
姫を守ると誓った。何があっても離れないと誓った。
それなのに。
自分を好きになってくれる女などいない。そう言って寂しそうに笑った姫を、あろうことか、この手で頬をぶった。
「……最低だ」
膝に顔を埋める。肩が震えた。声を殺した嗚咽が、夜の荒野に、細く、細く、溶けていった。
◆
半刻ほど過ぎた。
小部屋の襖の外から声がかかった。
「女軍師どの。軍議が済み申した。義元さまがお呼びでございます」
四郎が眠る恵の肩をそっと揺する。
「ん……」
恵はうっすらと目を開けた。ほんの少し眠っただけで、身体の芯の疲れは、まるで取れていない。それでも、幾分か頭は動くようになっていた。
「……あれ。ワタシ、寝てた?」
のろのろと身を起こす。ふと頬に手をやる。振り上げた手のひらが『ぺしっ』と触れたあの感触を思い出す。あれは夢の中じゃない。リアルだ。
「……ねぇ、四郎さん。ワタシやっぱり直虎くんにひどいこと言っちゃったんだよね」
四郎はまた首を横に振った。何度も。――姫は悪くない。
恵は少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「……そっか。ありがと。あとで仲直りできるよね?」
四郎は満面の笑みで大きくうなずいた。
◆
本丸御殿の広間。
軍議はすでに終わっていた。重臣たちの顔には疲労と覚悟が滲んでいる。
上座の義元が恵を手招きした。
「恵よ。決まったことを伝えておく」
恵が少し不安そうに庵原の顔を見る。庵原は憮然として腕を組んでいるが、反論するつもりはないらしい。
朝比奈が義元に代わって居並ぶ幹部たちにあらためて告げる。
「明朝、駿河・遠江の両軍団は食料をすべて持ち、この沓掛城を発ち、駿府へ撤退する。それまで城門は固く閉ざす」
「……この城はどうするんですか」
と恵が聞く。
「三河軍団に明け渡す」
恵は目を瞬いた。もしも恵が軍議に参加していたら提言しようとした策だった。
「丸腰の三河軍団にですか」
確かめるように更問いする恵。
義元が答える。「元康が寝返った以上、三河と尾張の国境のこの城に意味はない。傷ついた三河ものを皆殺しにする案も出たが……」と義元が言葉を止めて、恵の表情をうかがう。恵が「皆殺し」という言葉に少し顔を曇らせたのを見て、満足気に言葉を続ける。
「織田は同盟を組んだ三河ものを放ってはおけんじゃろ。丸腰の負傷兵だらけ、食料の無い城など、本来は欲しくもなかろう。厄介事をそっくり押しつけてやるのよ。追撃どころではあるまい」
義元は非情だけどやっぱり優れた武将だわと恵はぼんやりと思う。(ワタシが考えたプランで、一番被害が少ない策と同じ……何か穴があるようにも思えるけど……でもよかった……)疲れきった頭ではそれ以上深くは考えられなかった。
義元が扇をぱちりと閉じた。
「――以上じゃ。軍議はお開き」
重臣たちが立ち上がる。去り際、庵原が恵を一瞥した。その目にはまだあの憎悪が燻っている。
そして、広間に義元の声が低く響いた。
「恵。残れ」
白粉の口が、にぃと吊り上がる。
「約束の――夜伽の時間じゃ」
広間にはそれを止めるものは誰一人としていなかった。
恵は断る理由を持たなかった。
もともと、そういう約束だった。それに――こんなへとへとの状態でも、義元は「同意の上でのプレー」を律儀に守るだろう。恵にはなぜかその確信があった。
「それなら女装子のプライドをかけて全力でめくるめくハッテンをするだけ」
ただ、ひとつだけ。
頭の隅を、泣きながら飛び出していった直虎の顔がかすめる。
「……直虎くん、どこ行っちゃったのかな」
小さく呟いてから、恵は四郎から渡してもらった黒いキャスターカバンを引きずりながら、義元のあとに続いて奥座敷へとよたよたと歩いていった。奥座敷への立ち入りを認められていない四郎は大広間の縁側でいつでも駆け付けられるように神経を張り詰めることしかできなかった。
◆
しばらくして。
静まりかえった沓掛城に「その音」は響いた。
ヒュン。
鞭の音。
そして。
「――ひぃっ」
女のものか男のものかわからない中低音の悲鳴。
音は本丸御殿の奥から夜気を伝って城のすみずみにまで染み渡っていく。城門の物見台にも。
膝を抱えて座っていた直虎がびくりと肩を震わせた。
「……姫」
ヒュン。
「ひぃっ」
直虎は両手で耳を塞いだ。ぎゅっと目を閉じてうずくまる。
――あの音の意味を知りたくない。
自分が代わりに夜伽をすると父親に啖呵を切ってまで守ると誓ったのに。絵師との楽しそうな会話の内容が理解できなく悔しい思いをしても、近くにいるのは自分だ、何があっても離れないと誓ったのに。その誓いをこの手で破ったのは愚かな私自身。
雲に隠れていた月が現れて、青白く冷たいスポットライトのような光で城門に座る直虎の影を作る。
◆
月の光が消える。直虎全体が影になる。雲のせいではない、誰かがそこに立って月の光を遮ったのだ。
たわいない雑談からのすれ違い――。直虎は初めて恵に手をあげてしまう。
出会ってからずっと無言だった四郎の、初めて発せられた「声」。恵や直虎を黙って見守る「父役であり母役である」四郎の悲鳴にも似た言葉なき声。
次回45話「立てよ国民!」9月26日夕方公開します




