第43話 逆恨みの軍議
長い一日の果てに、荒野の巨大要塞・沓掛城へたどり着いた恵たち。だが直虎の馬は力尽きて門前に倒れた。義元は褌一つで夜伽を待ちわびる――が、そこへ飛び込んだ井伊直盛が叫ぶ。「緊急の軍議を!」。三河と尾張の同盟。
「軍議じゃと? 今からか?」
褌一丁の今川義元は荒縄を握ったまま、髭だらけの井伊直盛を睨みつけた。
「これからワシは恵と心ゆくまで『同意の上でのプレー』とやらを――」
「そのプレーとやらが何かは存じませぬが」と直盛が食い気味に言う。「それどころではございませぬ。三河と尾張が手を結びました」
義元の動きが止まった。
白粉の下の表情がすっと消える。
「……もう一度、申してみよ」
「松平元康さまが、清須の織田と、同盟を」
義元はしばらく無言で縄を見つめていたが、やがてそれを衣桁に放ると、ゴルティクス製のトレンチコートの前をばっとかき合わせた。
「……夜伽はしばらくおあずけか。つまらん」
舌打ちひとつ。だがその目はもう戦人の目に戻っていた。
◆
本丸御殿の広間に幾つもの灯が並べられた。
上座に裃に着替えた義元。その左右に老参謀・朝比奈泰能と、遠江軍団長・井伊直盛。下座には井伊直虎や鈴木四郎といった隊長格の武者たちがずらりと並んでいる。
そして――沓掛城にもともと駐留していた、駿河軍団の幹部たちが上座近くに居並んでいた。桶狭間の惨劇も熱田の火計も彼らは伝え聞いただけだ。傷ひとつ負っていない五千の精鋭。その一番手前に白髪まじりの酷薄そうな目をした武者がじっと座っている。
恵はその男の視線に気づいた。
広間じゅうの誰もが、多かれ少なかれ珍妙な女軍師に好奇の目を向けている。だが、その男の目だけは違った。
好奇でも畏怖でもない。剥き出しの憎悪だった。
(……なに、あの人。ワタシ、なんかしたっけ)
疲れきった頭ではそれ以上、考えることもできなかった。
◆
「では、軍議を始める」
義元が扇をパチンと鳴らす。直盛が進み出て、四郎から伝えられた内容を報告した。松平元康が織田信長と同盟を結んだこと。おそらくは熱田で。
広間がざわめく。朝比奈が「元康さまが、寝返ったと?」と眉をひそめる。
「討たれたわけではない、と?」
「はい」と直盛。「あの方のことです。どこかでうまく立ち回ったのでしょう」
恵を睨んでいた駿河軍団の幹部が膝を進めた。
「ならば、この城におる三河の兵、二千はもはや敵ということになりますな」
「昨夜、遠江軍団とともに大高城から逃げ込んできた連中じゃな」と義元。
「はっ。今すぐ武装を解除し、一箇所に隔離すべきかと。とりわけ――」
幹部は声を低くした。
「三河軍団には、松平元康に異様なほど心酔する一団がおるとか。おのれらを『闇の戦士』などと称し、わけの分からぬ呪文を唱えて回っておるそうで。……あいつらが元康に呼応して城内で暴れれば厄介です」
(闇の戦士……元康さまの中二病、伝染ってるじゃん……)と恵は朦朧とした頭の隅でツッコむ。
義元がうなずいた。「よかろう。三河軍団の武装を解き、隔離せよ」
その時、朝比奈が「……あの」と、間の抜けた声を出した。
一同が視線を老参謀に向ける。
「三河の兵には……そもそも武装を渡しておりませぬ」
「なに?」
「大高城から武器も甲冑も捨てて逃げてまいりましたゆえ。城の倉の武具は数が限られております。まずは無傷の遠江軍団に配りました。手傷を負った三河の兵には……ほとんど行き渡っておりませぬ」
広間に奇妙な沈黙が落ちた。
やがて義元が「なんじゃ」と気の抜けた声で笑う。
「では、隔離もへったくれもないわ。あやつら丸腰ではないか」
「さようで」と朝比奈も苦笑する。「刀の一本も持たぬ者どもに何ができましょう」
幹部たちの間に安堵の空気が広がった。「それもそうだ」「丸腰では、暴れようもない」「かえって手間が省けた」。
恵もうつらうつらしながら、(よかったぁ……武器、なくて……あったら凄惨な内ゲバになってたかも)とぼんやり思う。
◆
「では次じゃ」と義元が扇を開く。「これからどうするか。撤退か、籠城か――」
「お待ちを」
低い声がそれを遮った。
あの憎悪の目をした男だった。白髪まじりの駿河軍団の武将がゆっくりと立ち上がる。
「庵原、なんじゃ」と義元。
庵原と呼ばれた男は恵をまっすぐに指した。
「その議論の前に。……なぜこの素性の知れぬ女がこの場におるのです」
「白き……いや、虹色の女軍師、恵じゃ。桶狭間でこのワシを救うた」
「その功は伝え聞いております」庵原の声は、氷のようだった。「ですが、この女が現れてから今川はどうなりました。義元さまの馬回り衆は全滅。大高城と鳴海城は落ち、岡部殿は討死に。そして――」
庵原は一度、言葉を切った。
「小幡が死にました」
その名に恵の眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「……小幡さんを知ってるんですか」
「無二の友じゃ」
庵原の目は怒りの炎で燃えているが、恵と目を合わそうとはしない。
「あれは貴殿の策の囮となって死んだと聞いておる。輿を身代わりに立て、それに乗って敵の罠の中へ」
恵は何か言おうとした。違う。小幡さんは自分から志願して――義元さまが囮を断ったのに、自分から。
だが庵原は恵に言い分など言わせる間もなく続ける。
「まして、このたびの熱田での元康と信長の同盟とやら。おかしいではありませんか? むしろ裏で糸を引いているのはこの怪しき女軍師ではありませぬか? どうです、皆の衆? こやつに怪しさを感じませぬか?」
広間がざわつく。恵を知っているものも、恵が「怪しいか」と言われればそれについては同意せざるをえない。直虎が「姫は――」と腰を浮かせかけた。だが恵はその袖をそっと押さえた。
立ち上がる。ふらりと身体が揺れる。
「……分かりました。ワタシ、外します」
拍子抜けするほどあっさりと。
庵原が意外そうに片目を細めた。恵はほんの少しだけ微笑んだ。疲れすぎてうまく笑えているのかも分からなかった。
「イハラ…庵原忠胤さんかな? 間違ってたらごめんなさい、いま頭働かなくて」
庵原は自分の名を言われ、驚愕し、より警戒心を高める。
「小幡さんのこと……また今度、ちゃんとお話しさせてください。ワタシもあの人のこと忘れてないんで」
庵原は答えなかった。ただその拳が膝の上で固く握られた。
義元が扇を開いてひらひらと振る。
「よい。恵、下がって休め。……じゃが」
にぃと、白粉の口が吊り上がる。
「軍議が終わったら、また呼ぶ。そのあとの夜伽の約束も忘れるでないぞ」
恵は立ち上がると、義元に背中を見せて右手をひらひらと振り返した。
「はぁい。……体力、残ってると、いいなぁ」
庵原はさらに憤怒で顔を赤くする。「な、なんじゃ、太守さまに対してその態度は!」
「くくく、良いではないか。あれこそがメグミよ」と義元はむしろ目を垂らしている。
とぼとぼと恵は広間を一人で出ていく。
◆
直虎がすかさず義元に平伏した。
「義元さま。某、姫の護衛の任にございます。お側を離れるわけにはまいりませぬ。退席のお許しを」
義元は面白そうに直虎を見た。
「ふん、良かろう。恵はだいぶ疲れておるようじゃ。ちぃっと休ませてやれ。……夜にたっぷりと働いてもらわんといけないのでな」
直虎の頬がかっと引きつる。だがぐっと堪えて頭を下げると、四郎を目で促し二人して広間を辞した。
残された義元は扇をぱちりと閉じた。
「さて。尾張と三河の大うつけ二人が手を組んだとなると、この城をどうするか。――話を、続けようぞ」
第5話で義元の輿の囮となって散った侍大将・小幡。恵が戦国で最初に「失った人」でした。その小幡を「無二の友」と呼ぶ男・庵原の登場です。
次回、第44話「膝枕と大馬鹿野郎」。軍議を追い出された恵が直虎にねだったのは、直虎の夢「膝枕」?
9月25日夕方公開




