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第42話 要塞沓掛城【第3章開幕!】

熱田の浜辺、焼け残った舟を囲んでの、たった一夜の休戦。恵は織田信長に西洋の物語を語り、若き絵師・狩野永徳とは、夜明けまで砂の上に絵を描いた。――「命短し、恋せよ乙女」。

夜が明ければ、ふたたび敵と味方。恵は直虎、四郎とともに舟へ乗り、松平元康を熱田に残して、東の海へと発った。「沓掛城でまた会おうぞ」――魔王の言葉を背に受けながら。

そして長い長い一日の果てに、恵たちが目指すのは、今川軍一万二千が集結する、荒野の巨大要塞・沓掛城だった。

 一羽の燕が夕暮れの荒野を飛んでいた。西へ傾いた太陽を背に黒い翼が風を切る。その「鳥の眼」の下に広がるのはどこまでも続く草原だった。

 田畑はほとんどない。人家もない。ところどころに雨水を吸って黒くなった窪地と強い風に曲げられた松の木が見えるだけだ。


 荒野を東西に貫く細い街道を、疲れ切った二頭の馬が進んでいた。

 一頭には、鎧姿の若武者と、その背中に身体を預けるセーラー服。もう一頭には、黄色い兜のようなものをかぶり、巨大な黒い荷物を抱えた武者の3人組。


 荒野が突然、深く切り裂かれている。

 堀だった。濁った雨水を湛えた幅広い堀が夕日を映してどす黒い血のように赤く鈍く反射している。

 堀の向こうには高く盛り上げられた土塁。人の手で斜面を削り、叩き固めて造られた土の壁が荒野の端から端まで延びている。

 燕は翼を傾け、高度を上げる。

 一つ目の壁を越える。

 だが、その向こうにもう一つ、さらに高い壁が現れた。

 外側の水堀と内側の空堀。兵を集める広大な曲輪を区切る土塁。

 幾重にも折れ曲がった土壁の上には、槍を持った兵が櫛の歯のようにずらりと並んでいる。要所には木造の櫓がそびえ、城外の荒野を睨みつけていた。

 山に築かれた城ではない。何もなかった荒野の大地を掘り、その土を積み上げ、人の力だけで巨大な山と谷を造ったのだ。城というより荒野に伏せた巨大なサイのような獣だった。


 尾張と三河の境を睨む、今川軍の尾張侵攻を支える要塞――沓掛(くつかけ)城。

 燕は城門の上空をゆうゆうと飛び越える。

 眼下には、無数の兵がひしめいている。

 もともと沓掛城に駐留していた駿河軍団五千。そこへ昨夜、大高城から逃げ延びてきた遠江と三河の兵七千が加わっていた。

 飯を炊く煙。負傷者を運ぶ列。桶を担いで井戸へ走る者。

 大高城から武器も甲冑も捨ててきた兵たちの一部は、城の倉から新しい槍や具足を受け取っている。一万を超える兵を呑み込んでも、城はなお余裕を残すほど広い。

 燕は最も高い土塁に囲まれた本丸へ舞い降りていく。本丸御殿の屋根には夕日の最後の光が残っていた。


         ◆


 本丸御殿の最奥の座敷。

 巨大な銅鏡の前で、がっちりとした男が白粉(おしろい)を塗り直していた。顔を真っ白に塗り、眉を潰して、その上に太い「まろ眉」を描く。最後に口を大きく開き、お歯黒に染めた歯を確認する。

 今川義元は鏡の中の自分を見て満足げに口角を吊り上げた。

 その顔は公家の化粧とは程遠く、これから金網の中で流血試合を始める悪役プロレスラーのメイクのそれだった。

 身につけているものはレスラーパンツならぬ、褌(ふんどし)一丁。

 桶狭間から大高城、そして沓掛城まで馬を走らせた身体は、疲労しているどころか異様な熱を帯びていた。

 義元は両腕を曲げる。肩から腕にかけての筋肉がもりっと盛り上がる。分厚い胸板の下で脂肪に覆われた腹の筋肉まで硬く引き締まった。

 義元は傍らの衣桁に掛けたゴルティクス製トレンチコートを手にすると、ばっとそれを纏(まと)った。

 螺鈿の化粧箱の一段目を持ち上げると、そこには使い込まれて艶のある荒縄があった。義元は愛おしそうに撫でてから縄の両端を両手で強く引く。

 ギチギチと縄が鳴る。

 続いて黒い革製の鞭を握ると、手首をスナップして軽く振った。

 ヒュン!

 鋭い音が奥座敷に響く。

 控えていた小姓がびくりと肩を震わせた。

 義元は長い舌を出し、塗り直したばかりの白粉の口元をぺろりと舐めた。

 「くくく……。『同意の上でのプレー』とやらであったな」

 もう一度、鞭を振る。

 ヒュン!

 「よいぞ。三国の太守たるこのワシが、たっぷりと教えてもらおうではないか。メグミの身体を使ってな!」

 義元は筋肉を盛り上がらせ、縄と鞭を左右の手に持つと、御殿を揺るがすような声で叫んだ。

 「メグミは、まだかぁ!」


         ◆


 義元の雄叫びが届かない城の最外郭。

 巨大な城門の周囲はすでに夜の色に沈みかけていた。

 高い土塁が西日を遮り、門の内側には青黒い影が落ちている。松明に火が点され、その明かりが土壁を赤く染めていた。開かれた城門の向こうには暮れ残る荒野が広がる。そこには誰の姿もなかった。

 老参謀の朝比奈泰能が暗くなりゆく街道を睨む。

 隣には、遠江軍団長の井伊直盛が立っていた。髭に覆われた顔を険しくして、何度も荒野の奥へ目を凝らしている。

 朝比奈が低い声で言った。

 「遅すぎる」

 「熱田を朝に発ったのであれば、すでに着いておらねばならぬ頃合いです」

 直盛の声にも焦りが混じっている。


 「草薙の剣大作戦は成功した。じゃが、熱田で捕まったかもしれんし、大高城で馬を調達するのに手間取ったか。途中の落ち武者狩りに見つかったか……」

 朝比奈は西の熱田の方角の夕暮れを見上げた。まもなく夜のとばりが降りる。

 暗闇は門を閉じた城を守る。だが同時に敵を隠す。朝比奈は直盛をちらりと見る。言うまでもなく、直盛の娘直虎のことだ。

 直盛は問われる前に「これ以上、門を開けておくのは危険です。夜襲を受ければ、城内へ一気に入り込まれます」と無表情で言う。

 朝比奈はうなずくと門番へ向けて右手を上げた。

 「城門を閉めよ」

 門番たちが一斉に動く。数人がかりで鉄の鋲が打たれた分厚い扉へ肩を押し当てる。

 そのときだった。

 「お待ちください!」

 一人の武者が門の前へ飛び出した。

 大高城で出発前の恵に挨拶へ来た遠江軍団の百人隊長の一人だった。本来は義元の馬回りとなるはずだったが、子が生まれたばかりの弟に安全だと思ったその役目を譲った男。弟は桶狭間から戻らなかった。

 兵長は朝比奈と直盛の前に膝をつく。

 「門を閉じたら簡単に開けることはできません。我ら百騎が門を守ります。ですから、閉めるのは、いましばらくお待ちください」

 兵長の後ろには、同じ遠江の兵たちが並んでいた。疲労と泥にまみれながらも、城の倉から借り受けた槍を構えている。

 朝比奈が眉をひそめた。

 「貴様らは昨日から、まともに眠ってもおらんだろう」

 「我ら遠江軍団の命があるのは、あのお方のおかげ」

 兵長は顔を上げた。

 朝比奈はしばらく黙って兵たちを見る。直盛も何も言わない。

 やがて朝比奈は荒野の彼方へもう一度目を向けた。

 「……半刻だけじゃ」

 兵長の表情が明るくなる。

 「それ以上は待てん」

 「はっ!」

 兵長が深く頭を下げた。


 その直後、門の上から声が上がった。

 「馬だ!」

 物見の兵が土壁から身を乗り出し、暗くなり始めた街道を指差している。城門の兵たちが一斉に顔を上げる。

 「二騎! 二騎が、こちらへ来るぞ!」

 誰もいなかった荒野に二つの影が現れた。

 ゆっくりと、だが確実に近づいてくる。

 一頭には二人が乗っている。

 馬を操る若武者。その背中に身体を預ける、白と紺の衣の人物。

 もう一頭には、黄色い兜のようなものをかぶり大きな黒い荷物を抱えた武者。

 遠江軍団のひとりが物見台に駆け上り、大きく身を乗り出して、下にいる仲間に告げる。

 「メグミ姫だ!」

 声が裏返った。

 「虹色の女軍師さまが戻られたぞ!」

 歓声が上がった。

 門の上から、門の下へ。外郭からさらに奥の曲輪へ。

 「虹色の女軍師が帰った!」

 「姫が生還されたぞ!」

 声が波のように巨大な城を走っていく。門を守る遠江の兵たちが槍を突き上げた。

 沓掛城にもともといた駿河軍団の兵たちはきょとんとしている。

 朝比奈は沸き立つ兵たちとは対照的に、近づいてくる影を冷静に数えた。

 「二騎、三人……一人は死んだか」

 直盛が目を細める。先頭の馬を操るのは娘の直虎。その後ろにセーラー服の恵。もう一頭は黒いキャリーバッグを抱えた鈴木四郎。


 直盛が答えた。

 「いないのは、松平元康様のようです」

 「討たれたと思うか」

 「……いえ」

 直盛はゆっくりと首を横に振った。

 「あの方のことです。どこかで、うまく逃げおおせてる可能性が高いでしょう」


         ◆


 恵は兵たちの歓声を遠い場所の出来事のように聞いていた。

 朝、熱田を出発した。焼け落ちて煙る舟と舟の間をすり抜けて、加藤家の商船が海を東へ進む。商船はあゆち潟に面した大高城へ横づけして”乗客”3人を下ろすと、いそいそと熱田へ戻っていった。

 3人は無人の大高城に入った。織田軍の雑兵たちの関心をひくために城内に放置された今川軍の武器は略奪されてすでにない。もちろん馬も一頭もいない。


 恵はスキル「鳥の目」(※一度見たグーグルマップをすべて記憶している)を使う。大高城から沓掛城まで約10キロ。「令和の道で徒歩2時間、この時代の道なき道だと、何時間歩くことになるのかしら……」と思わず地面に膝をつく。

 だが直虎と四郎は動揺する様子もなく、指で輪っかをつくると、「ぴーっ」「ぴーっ」と指笛を鳴らしだした。


 しばらくすると、「ひひん」といななきがして、霧の中から2頭の馬が現れた。


 恵は「なに、これ、どんなマジック?」と驚く。

 直虎はへへんと鼻を指ですりながら、「遠江の馬は優秀でしょう?」と胸をはる。四郎も珍しくこれ以上ないくらいに顎をあげてドヤ顔をしている。


 恵は「すごいよ、すごいよ。君たちすごい!」と二人の肩を抱く。直虎は顔を赤くして、四郎はさらにドヤ顔になる。


 そこから直虎は二度と迷わないように慎重に、そして落ち武者狩りがいないかを頻繁に索敵しながら、沓掛城を目指した。

 何度、寝落ちして馬から落ちそうになったか。何度、直虎から「姫、もう少しです。寝ないでください」と言われたか。もうよく分からなかった。

 顔には潮と砂と汗がこびりつきセーラー服は泥だらけ。膝も腰も、身体から外れてしまいそうなほど痛い。夕方になって現れた沓掛城の姿だけは疲れ切った恵の目にも鮮明に映った。


 遠くから見えた平べったい丘の盛り上がりが近づくにつれて、人工的な土の城壁が延々と続いている要塞であることがわかった。

 恵は正面の巨大な城門を見上げる。

(やっと着いた……)

 二頭の馬が土橋を渡り城門をくぐる。蹄の音は門の中から上がる歓声でかき消される。

 その直後、馬の歩みが止まった。

 直虎が鞍から飛び降りる。

 「姫、失礼します」

 セーラー服の脇へ両手を入れ、恵を軽々と抱き上げる。恵はいつものように地面へそっと下ろされた。四郎がすぐに近づき、その身体を支える。

 直虎は恵の様子を確かめずに馬へ向いた。本来の直虎なら、「姫、具合は」「どこか痛むところは」と、恵の返事を聞くまでそばを離れないはずだった。だが今は振り返ることもなく、馬の首へ両腕を回した。


 「……二人も乗せて…よくここまで頑張った」

 馬の鼻から細く長い息が漏れた。首筋は汗に濡れている。脚はもう立っているだけで震えていた。

 直虎は馬の首を強く抱きしめる。

 「でも、もう、走らなくていいんだよ」


 馬の前脚が崩れ、大きな身体ががくりと傾く。直虎は倒れる馬と一緒に膝をつき、その頭を両腕で受け止めた。

 どさりと重い音が土の上に響く。城門を満たしていた歓声が一瞬やんだ。馬の脇腹が一度、大きく上下する。もう一度。そして、止まった。

 直虎は兜を深くかぶり直した。兵たちから顔を隠すように。籠手を外した手で、汗と泥に固まった馬のたてがみを優しく撫でる。

 「ありがとう」と声を震わせながら、何度も、何度も、同じ場所を撫でる。兜の奥から落ちた雫が馬のたてがみに吸い込まれた。


 朝比奈はしばらくその姿を黙って見ていた。

 やがて門番の兵に命じる。

 「その馬は食料にするな」

 門番が驚いたように朝比奈を見る。一万を超える兵を抱える沓掛城にとって、馬一頭の肉は貴重な食料だった。朝比奈はもう一度、静かに言った。

 「丁重に葬ってやれ」

 「はっ」

 門番たちが深く頭を下げる。


 朝比奈は馬から視線を外し、恵へ向き直った。

 先ほどまでの優しい声は消えていた。

 「軍師恵よ。早く来い」

 恵は四郎に身体を支えられながら、ぼんやりと朝比奈を見る。

 「主(あるじ)がお待ちじゃ」

 「……主って誰だっけ?」

 「義元様じゃ。約束を忘れたわけではあるまい」

 恵は数秒考えた。

 「ああ……そういえば、夜伽(よとぎ)の約束をしてたっけ」

 自分のボロボロの手足を見下ろす。

 「あれ? でもワタシ、ハッテンできる体力残ってるかなぁ……」

 まるで今夜の飲み会の予定を思い出したくらい、他人事じみた口調だった。


 朝比奈は「付いてこい」とだけ答え、城の奥へ歩き出す。恵は四郎からそっと離れると、とぼとぼと、その背中についていった。


   ◆


 「お待ちください!」

 馬のそばに膝をついていた直虎が立ち上がった。兜の奥で涙を拭い、遠ざかる恵の背中を追う。

 「メグミ姫に夜伽をさせるなど、絶対に許しません!」

 直虎の肩を大きな手が掴んだ。

 「直虎」

 父、井伊直盛だった。

 「離してください、父上」

 「お前、また痛い目に遭いたいのか」

 直盛は空いた手をゆっくりと握り、拳を作る。

 ごりっ、ごりっ。

 骨と関節が鳴る。


 大高城で直虎の腹を甲冑ごと打ち抜いた拳だった。


 疲労困憊の恵は背後で繰り広げられている井伊親子の動きに気づかず、高い土壁に挟まれた道を、朝比奈に続いて歩いていく。


 直虎は父の手を振り払おうとしなかった。

 代わりに静かに言った。

 「四郎。手伝ってくれ」

 四郎が近づく。

 直虎は兜の緒を解いた。

 兜を取り地面へ置く。

 続いて胸の前の紐を解き始める。

 四郎が背中へ回り、腹巻草摺の留め具を外した。

 傷ついた鎧が地面へ落ちる。

 がしゃん。

 重い音が城門の土壁に反響した。

 直虎は手甲も脛当ても外す。

 やがて淡い水色の狩衣姿になった。

 直虎は後ろ髪を留めていた紐をほどく、黒髪が背中へさらりと落ちる。


 直虎は父の正面に立ち、両腕をゆっくりと広げた。

 武器も鎧もない。

 夕暮れの最後の光が開いた城門から差し込み、狩衣の輪郭を淡く照らしている。その姿はすべての苦しみを受け入れようとする弥勒菩薩のようだった。


 「どうぞ、父上」


 直盛が拳を振り上げていた。


 「どこを殴っていただいても結構です」


 拳はぴくりと震え、振り上げられたまま止まった。


 直虎は目を閉じない。父をまっすぐ見て、心から微笑んでいた。


 「某(それがし)……」

 一度、言葉を切る。

 「いえ、わたくしが、今宵の義元様の夜伽のお相手になります」


 直盛の目が大きく見開かれた。


 直虎は少し申し訳なさそうに付け加える。

 「ですので、顔を殴るのは、やめていただいたほうが」

 「どうしたんだ、お前は?」

 直盛の声から怒気が消えていた。

 「あれだけ輿入れを嫌がっておったではないか。女として生きることを拒み、男になる、武士になると言い続けていたお前が……」


 直虎は城の奥へ消えようとする恵の背中を見つめた。

 夜明けの熱田の浜で、恵が狩野永徳と肩を寄せて、砂の上に絵を描いていた。自分には分からない絵の話をしながら、自分には見せたことのない笑顔を見せていた、あの人。その胸の痛みは、まだ消えていない。

 それでも、やっぱり私はあの人を守りたい。今はすこしでも休ませてあげたい。安らかな寝息をたてるあの人の顔を膝に置いて、『ウィッグ』という偽りの髪の毛を優しくなでてあげたい。それが本当のあの人なのだから。


 直虎は父へ挑発的な視線を送り、言った。

 「父上に、二つ、女心を教えて差し上げましょう」

 「……女心?」

 「一つ」

 直虎は人差し指を立てた。

 「女というものは、一日で心が変わるものです」

 中指も立てる。

 「二つ。女は、守りたい人のためなら、男よりも強くなれます」


 直盛は何も言えなかった。

 やがて振り上げられていた拳が下がった。

 直虎は両腕を下ろす。

 父へ一礼するとその横をすたすたと通り過ぎた。


 「では、父上。行ってまいります」

 「ま、待て、直虎!」

 直虎は振り返らなかった。


         ◆


 直盛が呆然と娘の背中を見送っていると、袖をぐいぐいと引かれた。

 鈴木四郎だった。

 直盛の正面に立ち、両手を忙しく動かし始める。

 四郎は口がきけない。

 右手を低い位置へ置く。小柄な人間を示す仕草。

 頭の左右で手を動かし紫色のツインテールを表現する。

 直盛が首を傾げる。

 「松平元康様か」

 四郎が激しくうなずく。


 次に片手を高く掲げ、髪を高く結った人物を示す。

 肩から何かを翻すように手を動かす。

 「……織田信長?」

 四郎がまたうなずいた。


 右手を東へ伸ばす。

 左手を西へ伸ばす。

 互いに敵対するように二つの拳をぶつけた。

 そこから拳を開き、今度は両手を固く握り合わせる。


 直盛の髭がぴくりと動く。

 「戦ったのか」

 四郎は首を横に振る。

 もう一度、右手を東へ。左手を西へ。そして両手を握り合わせる。


 直盛は数秒考えた。

 目が限界まで見開かれる。

 「なに?!」

 大声が城門に響いた。

 「三河と尾張が同盟じゃと!」

 四郎は地面を踏み鳴らすほど強くうなずいた。

 「元康様がおらんのは、それか!」

 四郎が何度もうなずく。


 直盛はすぐに城の奥へ向き直った。

 「夜伽どころではない! 義元様にすぐ軍議を開くよう上申してまいる!」

 髭を風になびかせ巨体とは思えない速さで土の道を駆けていく。


         ◆


 狩衣姿で歩く直虎の横を、父の巨体が猛然と通り過ぎた。

 「父上?」

 「話はあとじゃ!」

 直盛は振り返りもしない。

 さらに先では、老臣の朝比奈と恵が並んで歩いていた。

 朝比奈は恵へ何かを説明している。恵はもう半分眠りながら、「へぇ」「そうですかぁ」と力なく相槌を打っている。

 その二人の間を、直盛が猛烈な勢いで駆け抜けた。

 「道を空けられよ、朝比奈殿!」

 「ぬおっ! なんじゃ、直盛!」

 直盛が巻き起こした風で、恵のウィッグがふわりと浮いた。

 「あ……危ない……」

 恵は両手でウィッグを押さえる。

 ものすごい速さで遠ざかっていく武人の背中を、ぼんやりと見送った。

 「直虎くんのお父さん……元気だなぁ……」

 朝比奈が「何事じゃ、まったく」とぶつぶつ言いながら、再び歩き出そうとするが、また歩みを止めて熟考する。

 その後ろに直虎が追いついた。

 「姫!」

 恵が振り返る。

 「直虎くん……鎧、脱いだの?」

 「少々、事情がありまして。それより姫、今宵の夜伽についてですが――」


 「直虎、貴様まで何を悠長なことを言っておる!」

 老いてもさすがの名参謀、朝比奈が怒鳴った。

 「直盛のあの顔は、ただ事ではない。みなのもの急ぐぞ!」

 恵、直虎、四郎、そして朝比奈の四人は、城の最も奥にそびえる本丸御殿へ急いだ。


         ◆


 本丸御殿の奥座敷。

 ゴルティクス製トレンチコートを纏(まと)い褌(ふんどし)一つの今川義元は右手に縄、左手に鞭を持ったまま、廊下から近づいてくる足音を聞いた。


 ドドドドドドド――。


 激しく、迷いのない足音。

 義元は目を輝かせる。

 「来たか!」

 立ち上がり、襖の前に立つとコートの前をばっと開き、胸と腕の筋肉とふんどしの中身を限界まで盛り上げる。

 「ようやく来たか、メグミ! 待ちくたびれたぞ!」

 足音が襖の前で止まった。

 義元は蛇のような長い舌で白粉の口元をべろりと舐める。

 「さあ、今宵はお互いの体力の限界まで存分に――」


 襖が勢いよく開いた。

 現れたのは、肩で激しく息をする髭面の大男だった。

 井伊直盛。


 義元は固まった。

 直盛も固まった。


 コートの前を開き、褌一丁の男の裸体。

 蛇のような舌を出し、顔をゆがませた悪役レスラーの決め顔。

 

 二人の間に、長い沈黙が落ちた。


 直盛は見てはいけないものを見たように一度目を伏せた。それでも覚悟を決め、再び義元を見る。


 「……義元様」

 「な、なんじゃ」

 「とても雄々しく……申し訳ない。言葉が出ません」

 「そんな追従褒めの言葉なんていらん、いったい、なんじゃ」


 直盛は真剣な表情になった。

 「緊急の軍議を開いてくだされ。今すぐです」

第3章「沓掛城編」、開幕です! 第2章と同じく、今回も一羽の燕の「鳥の目」から幕を開けてみました。荒野にそびえる、石垣を持たない土の巨大要塞・沓掛城。史実の沓掛城もまた、丘陵の突端に築かれた今川方の重要拠点でした。堀と土塁だけで築かれた、荒々しくも巨大な人工の城塞を、想像しながら読んでいただけると嬉しいです。 そして、あれほど「男になる」と言い張っていた直虎の、思わぬ決意。姫を守るためなら、女にも――。 次回、第43話。三河・尾張同盟の報せに揺れる軍議のゆくえは?9月24日夕方公開

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