第41話 命短し、恋せよ乙女!【第2章エピローグ】
あみだくじの席替えが地獄の合コンの空気を変えた。第2章「大高城編」いよいよグランドフィナーレ!
席替えの効果は劇的だった。
まず机の端。
藤吉郎が身を乗り出して四郎の頭を見つめていた。正確には頭に載った黄色い「安全第一」と書かれたヘルメットを。
「……あの。それ、貸していただけませんでしょうか」
四郎がきょとんとする。
「いや、先ほどからずっと気になっておりまして。兜のようで兜ではない。鉄でも革でもない」
四郎は少し迷って、合コン幹事の恵を見やると、恵はニコニコと笑顔で「渡して良いわ」と返事をしている。四郎はヘルメットを外して藤吉郎に差し出した。
藤吉郎は両手で押し頂くように受け取ると、焚き火の光にかざした。
「……軽い。恐ろしく軽い。それでいて、押しても曲がらぬ」
指先が表面をなぞっていく。
「この丸みが、そもそも仕掛けですな。槍でも矢でも、真正面から当たらねば滑る。当たる角度を、あらかじめ"外して"おるわけだ。……おや、内側はどうなって」
藤吉郎が裏返した瞬間、四郎の目が輝いた。
四郎は両手の指を組んで頭の形を作った。それから指を一本ずつ立てて、その中に空間があることを示す。
「ほう。中身が、頭に直接触れておらぬのですか。この帯だけで支えて、頭と殻の間を空けておるのですな」
四郎が大きく頷き、次に片手を殻に見立てて拳で強く叩き、もう片方の手を中の頭に見立てて、そっと揺らした。
「なるほど! 殻が衝撃を受けても、中の頭までは伝わらぬ。……衝撃を"受け止める"のではなく、"時間をかけて逃がす"と!」
四郎が机を両手で叩いた。そうだと言わんばかりに。
「いや、いや、これは恐ろしい技術じゃ。当世具足は力を受け止めることばかり考えておる。だがこれは力を受け流し、遅らせ、散らす。……誰が考えたのです」
四郎は天を指差し、それから遠く遠くを指差した。
「遠い国の、はるか先の者、ということですかな」
恵は席の向こうで、初めて立った赤ちゃんでも見るように感激して目を潤ませている。
(通じてる。完全に通じてる。この二人、技術者同士だから言葉なんていらないんだ)
藤吉郎はヘルメットを丁寧に返すと、しばらく四郎の顔を見つめていた。意を決したように懐に手を入れた。
「……四郎どの。実は拙者、お見せしたいものがござる」
取り出したのは、掌に収まるほどの四角い木の塊だった。小さな木片が縦横に組み合わさり、六つの面が、それぞれ違う色に塗り分けられている。朱、藍、白、黄、黒、緑。
「これは拙者が開発したものでしてな。その名も――『溜比丘九部』でござる」
「今……なんて?」
恵の声が裏返ったが誰も聞いていなかった。
藤吉郎が指先で一段を回す。カチと乾いた音がして、色が入れ替わった。
四郎の目が限界まで見開かれた。
「回すと色が混ざる。混ざったものをまた六つの面すべて一色に戻す。……それだけの遊びでござる。針売りの頃、荷駄の待ち時間が暇でしてな、組木の要領で」
四郎は震える手でそれを受け取った。
一段回す。カチ。もう一段。カチ。
そして顔を上げて――何度も、何度も頷いた。
「……分かりまするか?」
四郎が胸を叩く。強く。
「分かってくださるか!」
藤吉郎が猿のような顔をくしゃくしゃにした。
「誰に見せても『それが何になる』と言われましてな。殿に見せた時など『サル、それで飯は食えるのか』と。……このおもちゃのすごさを分かってもらえる方が、おったか!」
四郎はもう聞いていなかった。指が猛然と動き始めている。
カチ、カチ、カチ、カチ。
(……ルービックキューブ。1974年、ハンガリーの建築学者エルノー・ルービックが発明。……四百十四年、早い)
恵は静かに酒をあおった。もう何も言うまい、と決めた。
◆
その隣。利家と直虎は席替えの結果を聞いた瞬間、二人そろって「げっ」と不満を口に出していた。椅子に座り直した直虎は、まだぐしぐしと鼻を鳴らしていた。目の縁が赤い。
利家はしばらくその顔を眺めてから、盃に酒を注いでやった。
「……まあ、飲めよ」
「……かたじけない」
「お互い、つれぇことあるよな」
直虎が顔を上げた。
「……前田どのも?」
「俺は赤母衣衆から足軽に格下げだ。桶狭間じゃ、殿から理不尽に蹴り飛ばされるわ、妖女に目を焼かれるわ。……でも最近もっとつらいのは、家に帰っても嫁が口をきいてくれねぇってこと」
「……嫁御に?」
「松ってんだけどよ」
利家は盃を一息に干した。
「赤母衣衆を首になって一年、せこせこと農家やって、最近ようやく足軽隊に潜り込めたんだが、俺が戦から帰ると、飯は出す、着替えも出す、だけどな、口をきかねぇんだ。三日も。何が悪いか聞いても『別に』しか言わねぇ。……女ってのは、何考えてんだ」
直虎の目がかっと見開かれた。涙が引っ込んでいる。
(……あ、これ、直虎くんのスイッチ入った。やばいかも)
恵は席の向こうで心配そうに身を乗り出そうとする。井伊直虎は、教えたがりで世話焼きなのである。
「前田どの。それは心配しておられるのです」
「は? 怒ってんだろ」
「怒っているのではありません。前田どのが戦場に行くたびに、松どのは『今度こそ帰ってこないかもしれぬ』と思っておられる。帰ってきた時には、その恐ろしさが一度に溢れる。……それを、どう言えばよいか分からぬのです」
利家の動きが止まった。
「……そう、なのか?」
「『別に』は、『何も言いたくない』ではありませぬ。『言葉にできぬほどある』という意味です」
「うおおおぉ。そうだったんか!」
利家が頭を抱えた。
「じゃあ俺は、どうすりゃいいんだ」
「帰ったら、まず抱きしめなされ。何も言わずに」
「抱っ!?」
「それから『心配をかけた』と。それだけでよいのです」
利家は隣の席から永徳の筆をひったくった。
「紙もくれ! 書く! 忘れる前に書く!」
利家は半紙に猛然と書きつけ始めた。
『一、帰ったらまず抱きしめる。何も言わずに』
『二、「別に」は言葉にできぬほどあるという意味』
『三、』
「三は!? 三はなんだ!?」
「落ち着きなされ」
「井伊どの! あんた、なんでそんなに女心が分かるんだ!?」
直虎の手が盃の途中で止まった。
「……某の姉が教えてくれた……ような」
嘘を言う直虎の目は泳いでいるが、利家は気にしない。
「そうか! 姉ちゃんってのはありがてぇな!」
恵はなぜか胸が少しざわついた。(直虎くんの姉?妹じゃなかったっけ?)
◆
さらにその隣。
永徳と元康が向かい合っている。利家に筆を奪われた永徳は元康の顔をじっと見つめていた。
「……なに?……」
「あの、崩れています」
「……えっ」
「目元の紫が、海水で流れて、右と左で違います」
元康が見るからに動揺しだして、両手で顔を覆う。
「……直して」
「え!?」
「……筆、持ってるでしょ」
「いま又左さんに獲られました!」
「……替えを持ってないの。絵師でしょ」
永徳は慌てて懐から替えの細筆を取り出し、元康の瞼に乗っているアイシャドウをぬぐうと反対側の瞼に描いていった。絵師の手つきは驚くほど優しかった。
「この色、貝の紫ですか?」
「……恵のだよ、なにで出来ているかは知らない……」
「この鮮やかさ羨ましいです。僕らが使う紫は、どうしても沈むので」
「……白粉も。……重いし、能面みたいになるけど………恵の白粉はすごく軽い……」
筆が二人の間を行き来する。
「元康様はなぜそのような不思議な女の装いをされているのですか?」
「……似合うから……」
「はい。とても似合っています」
「……絵師が言うなら、確かだね……」
元康の口の端がほんの少しだけ上がった。
◆
そして、机の奥の端。
恵の真向かいに、織田信長が座っていた。
(緊張する。……というか、何を話せばいいの。未来のことを聞かれたら、どうしよう。今川義元に未来を教えた結果が、今日のこれだし。これ以上、歴史を歪めたら――)
「恵よ」
「は、はいっ」
信長は盃を置いて、正面から恵の瞳を見据えて言う。
「貴様は、未来から来たんじゃろ」
恵の心臓が跳ねた。
「だが、未来のことは話さなくてよい」
「……え?」
「話せば、貴様は葛藤して、言葉を選ぶんじゃろ、おそらく義元の時のようにな。……ワシが知りたいのは、そんな蒸留された言葉ではない」
「それって……ワタシのことを」
恵の瞳が自然と潤む。信長は照れたように顔を少し背けて、わざとぶっきらぼうに言う。
「日ノ本以外のことを教えよ。ワシの知らぬ国のことを」
恵の肩から、すっと力が抜けた。
(この人、ワタシが何を怖がってるか見抜いてる)
「じゃあ。南蛮のお話をさせてください」
◆
「今、南蛮では"ルネサンス"っていうのが起きてるんです。百年くらい前から」
「るねさんす」信長は面白そうに顎を撫でながら繰り返す。
「千年前の古い知恵を掘り返して、もう一回やり直そうっていう運動。絵も、建物も、学問も、全部変わったの」
「古いものを、掘り返す」信長はまたも咀嚼するように言葉を繰り返す。
「その中に『反対の一致』っていう考え方があるんです」
「反対の、一致とはなんじゃ?」
「相反するものは、突き詰めると一つになる。……たとえば、とても大きな円を描くと、その一部はまっすぐな線に見える。曲がったものと、まっすぐなものが、極限では同じになる」
「……ほう」
信長の目が光った。
「面白い。それを南蛮の坊主が考えたのか」
「そう。カトリックのえらいお坊さんたちが」
「日ノ本の坊主もそれくらい考えればよいものを」
◆
「じゃあ、その『反対の一致』のなぞなぞを出しまぁす!」
恵は盃を置いた。
(シェイクスピアのこの喜劇まだ出来ていないけど……日ノ本の外の話だから、セーフってことで)※シェイクスピア『恋の骨折り損』は1594年から1596年頃に作られたとされる。
「南蛮のお芝居に、こんな問答があるんです。主人と小姓との会話」
恵は声色を変えながら演じた。
『道はすぐそこだ。さあ、行け!』
『鉛のように速く、ですね、旦那様』
『鉛は、重くて鈍くて遅い金属ではないか?』
『いいえ、旦那様』
『鉛は遅いと言っておるのだ』
『そう言うのは早すぎますよ、旦那様』
恵はそこで言葉を切った。
「……さあ、どういう意味でしょう」
信長は腕を組んだ。
天幕の中でのほかの会話がちょうどやんでいた。焚き火の音、利家が筆を走らせる音。藤吉郎の感激の唸り声。永徳が細筆で元康のメイクを直すしゃっしゃっというかすかな音が響く。
「わかったぞ!」
信長が机を叩いた。
「鉄砲から発射される鉛は、遅くない――だろ!」
恵は思わず信長に指を指して叫んだ。
「ビンゴ!!」
「びんご?」
「大正解です」
「重くて鈍い鉛が、この世でいちばん速く人を殺す。……くくく。反対の一致とは、よう言うたものじゃ」
信長は心底愉快そうに笑った。
◆
盃が何度も回った。
恵はイタリアのフィレンツェの話をした。絵描きと商人と、詩人の街。
「そこにね、シモネッタっていう女の人がいたんです。イタリアでいちばんの美女で、誰もが彼女を見に行った。……でも、二十三で死んじゃったの」
「若いのぉ」
「病気で。街中が喪に服して、お葬式では、棺を開けたまま街を練り歩いたの。みんなが最後にもう一度、彼女の顔を見られるようにと」
「それほど……で、あるか」
「ボッティチェリっていう絵描きが一人いてね。その人は、シモネッタが死んだあとも、ずっと彼女の面影を描き続けた。女神を描いても、春の景色を描いても、全部、彼女の顔になった。……そして自分が死ぬとき、彼女の足元に埋めてくれって遺言したの。ストーカーね、完全にストーキングよ!」
信長はしばらく黙ってから、ぽつりと言った。
「追いかけたくなるか……その絵師の気持ち、わからんでもないな」
しかし、その言葉は恵の耳には届かず、「その女性を悼んで、歌が作られて、その後、何百年もイタリアで歌われ続けたんです」
「どんな歌じゃ」
「……日ノ本の言葉にすると」
恵は盃の中で揺れる酒を見つめて言った。
「――命短し、恋せよ乙女」
焚き火が爆ぜた。
「命短し、で、あるか…」
信長は静かに盃を置いた。
その顔を見て恵ははっと気づいた。あの謡の文句と同じ意味であることを。
(人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり……。この人が舞った敦盛と、七千里を隔てたイタリアの歌が通じているって奇跡じゃない?)
「……恵よ」
「はい」
「面白いのぉ。人間の世というのは」
「……はい」
◆
どれだけ飲んだのか、誰も覚えていなかった。
気がつくと天幕の中は寝息だらけだった。
利家は『女心完全マニュアル』を握りしめたまま机に突っ伏している。四郎と藤吉郎は肩を組んだまま眠っている。直虎は椅子の上で丸くなり、元康は永徳の肩にもたれスースーと寝息をたて、永徳もまた元康にもたれて目を瞑っていた。
信長は腕を組んで目を閉じている。眠っているのか、いないのか、分からない。
恵はそっと立ち上がり、天幕の外へ出た。
「……んーっ」
伸びをする。潮風が冷たい。濃紺だった東の空が、ほんの少しだけ色を薄めようとしていた。
背後で布の擦れる音がした。
振り返ると永徳が立っていた。ベレー帽をきちんとかぶり直している。
「……眠れないの?」
「僕はずっと、貴女と話したかったんです」
恵の胸が小さく鳴った。
「……ワタシも」
◆
二人は砂浜に並んで座った。
「……聞き耳を立てていました」
永徳が恥ずかしそうに言った。
「ボッティチェリの『美しきシモネッタ』。それと……レオナルド・ダ・ヴィンチの『美しきフェロニエール』。もっと教えてくれませんか」
「……名前、覚えたんだ」
「あなたの口から出た知らない言葉、どれ一つとして忘れられません」
恵は嬉しく思いながらも少し迷った。
(風景画や遠近法は、教えすぎると絵の歴史が変わっちゃうかも。……でも、女の人の肖像画は、狩野派にはほとんどない題材のはず……なら)
「じゃあ、話すね」
恵は砂の上に指で四角いキャンバスを描いた。
「まず『美しきフェロニエール』。真っ黒な背景に女の人が一人。肩を少し傾けてこっちを見てるの。でも、目が合わない。ほんの少しだけ視線がずれてる」
「……なぜ、ずらすのですか」
「理由は分からないけど、鑑賞する人と目が合うと、静止した絵になっちゃうからかな。目線がわずかにずれてることで、その人は絵の中でも"今"を生きてる気がするの」
永徳が息を呑んだ。
「それだ……それが、欲しかったんです。僕が絵に書き留めたいのは瞬間だけじゃない。動きそのものなんだ」
砂の上のキャンバスに、永徳の指がいくつも線を引いていく。永徳が描くその場限りの砂浜の絵は止まらない。東の空が藍から橙へと変わっていく。いつのまにか二人の肩は触れ合っていた。
◆
その様子を天幕の陰から見ている者がいた。
直虎は恵のために手にした羽織を持ったまま動かなかった。
姫が笑っている。
姫は今日一日どんな危機のときも微笑みを忘れなかった。姫の笑顔を全部知った気でいた。でも自分には見せたことのない種類の顔で、あの絵師と絵の話をしている。
槍なら防げる。馬なら走らせられる。だけど、あの砂の上に引かれていく線の意味を、自分は一つも知らない。
直虎は羽織の襟を握りしめた。
「それでも、某は……私は……」
夜明けの風が正面から頬を刺して、涙が溢れた。それは風のせいだと、直虎は自分に言い聞かせた。
◆
日が昇った。
松原の方から、白い浄衣の一団が現れ、焼け残った舟と、無傷の神宮の杜の際を見て回る。やがて老神官が信長に向かって深く黙礼し、神人たちも静かに去っていった。
「……約束、守ってもらえたんだ」
恵はほっと息をはくと、緊張が解けて、その場に座り込む。
信長は腕を組んだまま恵を見下ろす。
「ワシは神には敬意を払うと言うたであろう。神もまたワシに敬意を払う」
しばらくして恵は立ち上がると、セーラー服のスカートをぱんぱんと叩き、砂を落として、信長の正面に立つ。隣にはウィッグを装着して完全ゴスロリになった元康が無表情で立って、舟を見ている。
恵は左手の手のひらに、右手の拳をあてて、
「では、信長さま、元康さま。これでさようなら、です」
と別れを告げる。
信長は「で、あるか」とだけ言う。
元康は顔をあわせず「しっしっ」と犬でも追い払うような仕草を見せる。
恵は苦笑いして二人に背を向けて舟に向かって歩く。すっと音もなく両脇から直虎と四郎が並んで歩みを進める。
利家が「殿、本当に行かせるんですか?」と信長に聞く。
藤吉郎も「今度ばかりは又左に賛成です。調略せずとも、殿から頼めば、織田軍に属してくれるかと」と勧める。
信長は何も答えない。
永徳がもじもじしながら口を開く。
「実は僕もあの人に頼んだんです。さっき朝日を見ながら、『僕たちと同じ道を歩いてくれませんか』って」
利家が「それって結婚の申し込みじゃねえの?」と冷やかす。
「でも、断られました」
「まぁ、こんななよなよした情けない絵師じゃな」
「おい、又左、やめろ」と藤吉郎がいさめる。
「いいんです。たぶん合ってます。あの人、恵さんはこう言いました。『ワタシがあなたといると、あなたの道を間違えさせてしまう』って。僕の力が足りないんです。絵師としても、男としても」
「お前、その解釈、なんか違う気がするぜ。女心的に。俺も教わったばかりだけどよ」と懐から例のマニュアル『女心の書』を取り出して頁をめくる。
藤吉郎はそんな二人を呆れて見てから、信長に聞く。
「殿は恵どのに声をかけたのですか?」
信長は「いや。これからだ」と言うと、大きな声で叫ぶ。
「おーい、恵!」
船べりに足をかけた恵が振り返る。
「沓掛城でまた会おうぞ。今度はお主を絶対に捕まえてみせる」
目をぱちくりさせた恵は少し間をあけて、両手を口にあてて叫び返す。
「来なくていいから!でも、次会うときはユノロクのリュックを返してね」
◆
舟が湊を離れていく。
一羽の燕が海を走る舟を追いかける。翼の下にはまだ煙をあげる百隻の残骸と、砂浜に並ぶ五つの影と、朝日を浴びた熱田神宮の杜が見える。
燕は舟の上を一周する。船べりにセーラー服の女装子と、その隣で目を赤くした若武者と黄色いヘルメットをかぶった侍の3人が熱田の海岸を見つめている。
恵は大きく息を吐くと
「信長は……チェイサーだわ」
とつぶやく。
「ちぇい……?」と直虎が首を傾げる。
「ワタシの界隈でね、女装子を追いかけまわす男の人のことをそう呼ぶの。追う人、チェイサー。……織田信長がワタシのチェイサーって、どんな運命よ」
「姫を追いかける……信長がうらやましいです」
「ん?」
「いえ、なんでもありません……某はずっと姫の隣におります! チェイサーの魔の手から姫を守り抜きます!」
恵は「うん」と笑った。
◆
燕は舟を追い越し、東の陸へ翼を傾ける。
大高城の浜。その先の桶狭間の丘。そのまた先――尾張と三河の国境近くの要塞、沓掛城。
ゴルティクス製コートの襟を愛おしそうにいじりながら、白粉を塗り直した男が、縄の使い方を恵の身体で試すのを、今か今かと待ちわびている。
戦国の長い一日はようやく終わった。
だが、恵の本当の試練の"夜"はまだ始まっていない。
(第2章・完)
第2章「大高城編」、これにて完結です!
「命短し恋せよ乙女」は大正時代の流行歌『ゴンドラの唄』の一節ですが、もとをたどるとフィレンツェの美女シモネッタを悼む詩と歌が、明治時代の文豪森鴎外によって翻訳されて日本に紹介、さらにそれをもとにした歌詞が「命短し恋せよ乙女」です。
次回から第3章「沓掛城編」。倒錯的ドS義元との再会、約束の(?)夜伽の行方は?第42話、お楽しみに!9月23日夕方公開予定




