第39話 早すぎる清須同盟
熱田の豪商加藤家から、人質時代に密かに作っていた抜け穴を使って、信長の魔の手から一行は脱出する。その先は、熱田の湊。
床下の闇を、四人が這う。
先頭は松平元康。抜け穴の途中で紫のウィッグが外れ、下ろしたショートカットの黒髪が肩先に触れている。その顔には、恵の施した紫のアイシャドウとマスカラだけが、まだ鮮やかに残っていた。
「……こっち。潮の匂いの方」
二番手は、セーラー服の裾を土で汚しながら這う恵。三番手は井伊直虎。しんがりがキャリーバッグを胸に抱えた鈴木四郎だ。
「元康さま。ちょっと聞きたいんだけど」
「……なに」
「永徳くんのこと、殴ったでしょ」
元康の這う音が一瞬だけ止まった。恵も止まり、恵のセーラー服のスカートのお尻に直虎の顔がぽふっと突っ込む。
「あっ姫、すみません」
「ごめんごめん、ワタシが止まっちゃったから」
元康はまた暗い穴を這い始める。
「……うん……当て身したよ……」
「ワタシ、手で目を塞いだのよ! ちゃんと光から守れたのに!」
「……あの人、恵の手をのけようとした」
「え?」
「……光が来るって分かってて、それでも見ようとしたんだろうね。……絵師って、そういう生き物なんだね」
元康の声はいつもどおり平坦だった。
「……恵にとって大事な絵師なんでしょ。……だから目を守るために寝かせた。手加減したから死んだりはしてない……」
恵は穴の中で言葉に詰まった。
(……この子のオッドアイ、人の大事なものを見抜けるというのは本当みたいね)
「そうだったんだ。ありがと」
「……うん……礼はいらないよ……恵の大事な人ってわかったから……ちょっと壊してみたかった……」
「ちょ、ちょっと壊すって?」
「あ、あのー」と直虎が遠慮がちながらずばりと言う。「二人とも無駄話はやめて、しゃきしゃき進んでもらえますか?」
◆
穴の出口は湊に面した古い船小屋の床下だった。
四郎が板を押し上げると、潮の匂いと焦げた木の匂いが一度に流れ込む。百隻の舟の残り火がまだ海の上で赤く燻っていた。
船小屋を出ると一艘の荷船が浮かんでいる。加藤家の印を染めた帆。船頭が二人、櫂を握ったまま、四人を見て警戒を強める。
「……加藤殿から出発の許可をもらってる」
元康が加藤から渡された船を出す許可の割り印を見せる。船頭は顎で「乗れ」と指示する。
元康が恵の耳元でささやく。
「……加藤殿は"何も知らない"ことになっている。……でも、うまく出航できれば、加藤殿は岡崎の木綿を、熱田で一手に扱える約束をした……」
(恵の戦国オタク脳がフル回転する。三河木綿……! 加藤図書助順盛――竹千代が熱田の人質時代に預けられた豪商だ。ワタシの知っている歴史では2年後に行われる"商談"だけど……不自然ではないわ。この子、本当にやり手の狸おやじの卵なのね)
船頭たちの櫂が水を掻き舟が動き出そうとする。その時だった。
ヒュッ、と風を裂く音。槍が、夜の空から降ってきた。
「危ないっ!姫!」
直虎が恵に覆いかぶさる。その前に、黄色い「安全第一」のヘルメットの四郎が立ち上がり、キャリーバッグを両手で盾のように掲げる。
グニュ。
ゴルティクスの超強化炭素繊維が穂先の勢いを吸い込み、溜め――弾き返した。槍はくるくると宙を舞い、ぽちゃんと海に落ちた。
「四郎さん! やっぱり弊社製品、最強ーー!」
「姫、喜んでいる場合では!」
浜に馬蹄の音が響く。黒い馬が波打ち際に飛び込んできた。信長だ。視力が回復した視線を海の船へ向けている。
「又左! 殺すなと言うたであろうが!」
「殿、違います。俺じゃありません」
利家の声がいつになく硬かった。
「ほら、俺の槍は、まだここにあります」
馬上の利家は、確かに槍を握ったままだった。利家の馬の後ろに横座りしている永徳も利家の言葉を肯定して何度もうなずきながら、さっそく懐から筆と半紙を取り出して、これから起きることの写生の準備をしだした。
松原の闇がざわりと動いた。一つ、十、五十。松明が次々と灯っていく。
浜に現れたのは、甲冑ではなかった。白い浄衣、烏帽子、そして手に手に薙刀と槍。
「熱田神宮の神人どもか……」
藤吉郎が呻いた。
先頭の老神官が震えるが通る声で叫んだ。
「妖女を出せ! 熱田神宮を燃やそうとした大罪人じゃ!」
「焼け! 妖女を焼け!」
「神罰を与えろ!」
神人たちが一斉に雄たけびをあげる。松明の光が海の上の舟に集まる。恵は思わず一歩後ずさった。
(そりゃ、そうだよね。ワタシ、目の前で百隻燃やしたんだもん。神宮の人から見たら、魔女の放火魔……)
◆
「静まれ!」
信長が馬を降り、神人たちの前に立った。
「ワシは清須城主、織田上総介信長じゃ! 焼けた舟はすべて今川の舟! 神域には火は入っておらん! 夜が明ければ分かることぞ!」
「その今川の妖女がそこにおるではないか!」
「明日になれば分かるだと! 今まさに神宮が焼かれようとしておるのだぞ!」
神人たちの目は血走っていた。老神官がそれを制して言う。
「信長様。我らはこの度の戦に、戦力も資金も惜しみなく差し出しましたが、ご存じのように我らは、織田家の家臣ということではござらぬ」
信長が言葉に詰まった。
熱田神宮は織田の領内にありながらも織田の家の支配下にはない。熱田の大宮司家は千年の由緒を持ち、神域の者は武家の命では動かない。だからこそ信長は戦の前にあの社で祈ったのだ。
(信長でも熱田神宮はコントロールできない。ワタシ、めっちゃタブーに触れてしまったかも)
恵は舟の上で理解して、血の気が失せていくのを感じた。
◆
舟が揺れた。元康が船べりに足をかけている。
「ちょっと、元康さま!?」と直虎が声をかける。それに答えず、元康は浅瀬に飛び降りた。膝まで水に浸かり、ゴスロリのスカートが海水を吸って重く垂れる。
そのままたくさんの松明が揺れる浜辺に向かって歩いていく。
「元康さま! 戻って!」
元康は振り返らなかった。浜に上がり、神人たちの前で足を止め、そして――ゆっくりと膝をついた。下ろした黒髪が濡れた砂に垂れる。
「……今川軍、三河軍団長。松平蔵人佐元康」
その声はこれまで聞いたことがないほどよく通った。
「……熱田の湊を焼いたのは、今川の策です。……そしてこの作戦を率いたのは、妖女でもなんでもなく、僕、松平元康です」
神人たちがざわめいた。
「じゃが、確かに『妖女の妖術による火の計』だと神宮の神託でも出ておる」と老神官は言う。
(神託するどい!)と恵は心の中で思う。
元康はすっと立ち上がるとゴスロリのスカートの裾を両手でくいっと持ち上げて上品にあいさつすると、顔をあげてオッドアイの眼を見開く。
「おおっ、こやつ、妖かしの眼をしておる!」と老神官がうめく。
「……僕は闇の魔導士……そしてこんな風にかわいい魔導少女にも……見える……熱田の神様はこの姿を見たんじゃないかな……」
信長が元康のオッドアイを見つめる。左目が青灰色から明るい藍色に煌めいている。
「ふん。また本当に大切なものか」とつぶやいて信長は舟の上の恵と直虎を見て、「どっちだ?」と元康に聞く。
「……両方かな……。妖女であり、大将の一人である僕の首で、なんとか舟を行かせてくれませんか。……吉法師兄様」
信長の目が見開かれた。
「吉法師はやめろ。せめて三郎兄様にしておけ」
「……はい……申し訳ございません……」
信長はしばらく黙った。浜には波の音と松明の爆ぜる音だけが残った。そして、魔王は笑った。
「よかろう」
恵の心臓が止まりかけた。
(よかろうって! 首もらうってこと!? ダメ、絶対ダメ!)
「――だが、竹千代」
信長は続けた。
「すでに負けの決まっている大将首ひとつよりも、もっとでかい土産が必要じゃろう。熱田神宮といえども商いの街。相当な利が必要じゃ」
元康が顔を上げた。左目が青灰色に戻っている。
「……では」
元康は言った。
「尾張と三河の、同盟はいかがでしょうか」
◆
浜が静まり返った。
恵が立ち上がる。 (……清須同盟。織田と徳川の同盟は永禄五年、1562年。二年早い。しかも、こんな……松明に囲まれた浜辺で)
「ふむ。ワシにとっては悪くない。じゃが、熱田への利はどうする」
元康は膝をついたまま続けた。
「……東海道を……熱田経由に整備いたします……資金は三河が出します……」
東海道という一言で、信長の口の端が吊り上がった。
「東国の貿易の利を熱田に集中させるということか」
「……はい……三河の瀧山寺など熱田神宮にかつてゆかりのあった寺領もすべて神宮に戻します……」
少し前のめりになった神宮の老神官に、信長が尋ねる。
「どうじゃ? 悪くない条件だと思うが。もっとも朝になって、この火が神宮や町に及んでいないことを確認してからでもよい」
「瀧山寺は神宮にとって長年の懸案です。……わかり申した。明日の朝確認するまで、こやつらを火あぶりにするのは、待ちましょう」
「うむ。それにワシからも神宮にひとつ申したいことがある。今後も港の火事が神域に及ばぬよう築地塀をワシが新しく築いて寄進する。石と瓦で、千年もつものをな。……それで今夜は引いてくれんか。こいつらはワシが朝までしっかり監視する」
(信長塀……! 桶狭間の戦勝御礼に信長が熱田神宮に寄進した、日本三大土塀のひとつ……! 今、この瞬間に生まれたの!?)
老神官はしばらく元康を睨んでいたが、信長に向かって深く頭を下げ、さっと右手を上げた。神人たちの松明が一つずつ松原の闇に引いていく。
◆
信長が「舟の三人!降りてこい」と海上の舟に向かって叫んだ。
「今宵の海は出航できん! 神人どもとの約定じゃ」
「じゃあ、どうしろって言うんですか!」と恵が大声で返す。
「朝じゃ。朝、堂々と出よ。熱田神宮にも、熱田の街にも火はつけておらんのじゃろ?」
「それは誓えます」
「そなたたちをワシが朝まで見張ることを神人どもと約束した。だから、こっちに来いと言っておるんじゃ」
「メグミ姫の安全は約束できるんでしょうね?」と船上から直虎がさらに問う。
「グダグダ言ってんじゃねぇ!ぶち殺すぞ!」と利家が叫び、「馬鹿やろう。余計なこと言うな」と藤吉郎がその頭を叩く。
信長は少し困ったように頭をかきながら、「神に誓ったんじゃ、ワシは約束は守る。くそ坊主の寺を燃やすことに躊躇しないが、ワシは意外と神には敬意をもっておるんじゃ」と答える。
のちの比叡山焼き討ちを思い出した恵は、直虎に「信長の言っていることは真実よ。降りましょう。元康さまも放ってはおけないし」と説得する。直虎は四郎と顔を見合わせてうなずき、恵を警護しながら慎重に舟から降りる。
「加藤!いるんじゃろ!」
信長が一喝すると、船小屋の後ろで恰幅のよい男が飛び上がった。
「は、はっ!」
「浜に天幕を張れ。酒と魚を持ってこい」
「……天幕、でございますか?」
「朝まで殺し合いは無しじゃ。……やることと言ったら酒を飲みかわすくらいしかなかろう」
次回、第40話「浜辺で地獄の合コン」は9月22日夕方公開します。四対四、夢の顔合わせ。いよいよ第2章クライマックスです!(41話まで)
信長塀は、桶狭間の戦勝御礼に織田信長が熱田神宮へ寄進したとされる土塀で、現在も熱田神宮に現存しています。




