第35話 神宮を囲む炎の壁
三頭の馬が、波打ち際の砂浜を疾走していた。
先頭を駆けるのは織田信長。血に染まった甲冑のまま、黒い馬を駆る姿はまさに鬼神。その後ろに木下藤吉郎、そして前田利家と狩野永徳の二人乗りが続く。
西の空は、もはや夕日の赤ではなく闇夜の濃紺に変わっていた。
しかし、熱田の方角から立ち上る赤い炎が、空を焦がしている。海面にも炎が映り、まるでこの世すべてが燃えているようだ。
「くそ、間に合わんか……!」
信長が歯噛みする。
藤吉郎が馬を並べながら叫ぶ。「殿、まだ分かりません! 神宮が燃えているかどうか!」
「どういう意味だ!」
「炎の位置です! 鳴海城から見ると完全に神宮が炎上していましたが、ここから見ると神宮と少しずれているようでもあります」
利家が二人の会話を遮る。
「殿、あの炎……おかしいです」
「おかしい?」
利家は馬を走らせながら、目を細めて炎の方角を凝視する。桶狭間でも発揮した、あの超人的な視力だ。
「炎のほとんどは……海から立ち上っています」
「海の上だと?」
「はい。炎の中心は陸地ではなく、海上です。あれは……舟が燃えている!」
信長の目が見開かれる。
「舟だと……? あの100隻の舟を、自ら燃やしたというのか!」
永徳が利家の背中にしがみつきながら叫ぶ。
「やはり……! あの妖女は、最初から神宮を燃やすつもりなどなかった! 僕たちの目を欺くための——」
「黙れ永徳、速度をあげる。くっちゃべってると舌を噛むぞ!ハイヤー」
利家は馬を走らせながら、目を見開き超視力を発揮する。炎に照らされた海岸線に、人影が見えた。
「……いた」
利家の声が、風の中で鋭く響く。
「なんだと!」と信長が振り向く。
「います!海岸に、四人の人影が!」
信長は「見えるのか、この距離で」とあらためて利家の超視力に驚く。
「ええ、見えます。あの派手な格好……間違いありません」
利家はさらに目を凝らす。一里(約四キロ)ほど先、炎の逆光の中、四つの人影が浮かび上がる。
「白と紺の服の女が一人……いや、待ってください」
利家の眉が寄る。
「おかしい。白き妖女は……赤い服に着替えています。肩に毛皮のようなものを巻いて、頭に金色の冠を被っている」
「赤い服だと?」
「はい。そして、例の白と紺の服は……別の女が着ています。黒髪の長い女が…美人だな…」
藤吉郎が怒りの声をあげる。
「身代わりか……! 囮を使うとは、卑怯者め!それにしても今川義元めの深謀遠慮は恐ろしい」
永徳は利家の背中にしがみつきながら、心の中で呟く。
(やはり……あの妖女は、すべてを計算していた。服を着替えての囮、三角形の船団、そして船や浜辺を燃やして神宮が燃えているように見せかける……全部、僕たちの目を欺くための「絵」だったんだ)
信長は馬を走らせながら、口元に獰猛な笑みを浮かべる。
「面白い……! あやつ、どこまでもワシを楽しませてくれるようじゃな!」
「殿、あと半里です!」と藤吉郎が叫ぶ。
三騎の馬が、炎に向かって駆けていく。
(あの炎の色……。ただの藁が燃える色じゃない。まるで、どろりと溶けた紅色の情念の焔が、夜を浸食しているようだ……!)
永徳は振り落とされないようにしながら、視線だけは闇夜に立ち上る煉獄の炎から焦点を放さなかった。
◇
時を少し戻す。
100隻の船団が熱田の東岸に到着したのは、日没の直前だった。
先頭の船に乗った恵は、半島の上部にある熱田神宮の鳥居を見上げながら、船頭たちに指示を出す。
「三角形の配置は崩して、撤収用の1隻を除いて熱田の東岸にあげてください。舟の藁を半分海岸に下し終えたら、全員1隻に乗って、南の海に脱出してください。時間が勝負よ」
船頭たちは指示に従い、100隻の船が横一列になり海岸に乗り上げる。4人はさっと上陸し、100人の船頭たちと藁を濡れないように浜辺に運ぶ。
作業をしながら直虎が「姫、さっきまでの三角形の配置ってどんな意味があったのですか?」と尋ねる。
恵は微笑んで答える。
「パースっていうんだけど、鳴海城から見ると、この三角形の先端——つまりワタシたちに、自然と目が向くようになるの」
「ぱーす……?」
「えーと、建物とかの絵を描くときに使う技法でね。一つの点に向かって線が集まるように描くと、奥行きが出るの。同じ原理で、三角形の先端に派手な格好のワタシたちを置くと、見る人の視線が自然とそこに吸い寄せられる」
四郎が、ぱっと顔を輝かせた。無言だが、目がキラキラしている。砂浜に枝で一つの点から放射状に線を引き、パース図を描き始める。
恵は四郎の反応に嬉しくなる。「四郎さん、分かるんだ?さっすが戦国のテクノクラート!その線に沿って視線が誘導されるの。だから鳴海城にいる信長たちは、ワタシたちを見て、その先にある熱田神宮に自然と目が向いて『熱田が攻撃される』って思い込む」
四郎は満足そうにうなずき、珍しく口角を上げる。技術的な話が通じる相手がいることが、嬉しいようだ。
元康が「……すごく、悪魔的かつ……菩薩的……作戦」とうっとりした声を出す。ゴスロリ姿のオッドアイが、夕日に照らされて妖しく光る。
「さて、ここからが本番。船頭さんたちは逃げてください」と恵は船頭たちに伝えると、彼らは「ご武運を」と手のひらと拳を合わせて挨拶をしてから、海に残してあった1隻の船に乗り込み、南の海へと漕ぎ出していった。
浜辺には恵、直虎、元康、四郎の4人が残った。
「浜辺にも藁を敷くのは、重層的に炎の壁を作ることで熱田全体が燃えているように見せるため。船だけじゃなく、陸も燃えてるように見えれば、『熱田神宮が炎上している』って錯覚がより強くなる」
直虎が感心する。「姫の頭の中は、どうなっているのですか……」
「女装の美しさには、足し算の見せ方と引き算の見せ方があるの。今回はレイヤーを重ねる『足し算』女装の応用ね」
恵はキャリーバッグから、赤いSM用のロウソク4本とチャッカマンを取り出す。
「はい、一人1本ずつ」
恵は直虎、元康、四郎にロウソクを手渡す。自分も1本を手に取る。
直虎は少し心配そうに「西風が激しくなってきました。この風のなかでロウソクの火を保てるでしょうか?」と聞く。
「このロウソクはパラフィン製だから低温でも火がつくの。風が強くても安定して燃えるはず。それに低温だから手にロウソクが垂れても火傷しないから安心して」
「なるほど、姫がこの『えすえむ』道具は拷問のためじゃないと力説しておられましたが、そんな配慮までされているのですね。さすが姫です」と直虎が妙な褒め方をする。
少し照れながら恵はチャッカマンを構える。海風が強く吹いている。普通の火打ち石なら、何度やっても火がつかないような風だ。
カチッ。
チャッカマンの先端から、小さな炎が灯る。風に揺れるが、消えない。
「おお……!」と直虎が目を見開く。
恵はその炎を、自分のロウソクに近づける。パラフィン製のロウソクは、すぐに火を受け取った。風の中でも、芯がしっかり燃え続ける。
「すごい……この風の中で……」と直虎が驚嘆する。四郎も目を丸くしている。風の中で安定して燃える炎など、この時代には存在しない。
恵は次々と、直虎、四郎、元康のロウソクにも火を移していく。
元康は火がついたロウソクをうっとりとした表情で眺め、「……我が右手に宿りし魔炎よ…今こそその枷を解き放つのだ…」
4本のロウソクが、海風の中で揺らめく。
「さて、舟に火を点ける係と浜辺の藁に点ける係に分けないとね」
元康は相変わらず自分のロウソクの炎を恍惚とした表情で見つめる。
「……闇の炎が……この世界の全てを燃やし尽くす……」
それを聞いて恵は「元康さま、中二病で終わらなそう。本当に熱田の町に火を点けそうな勢い」と苦笑して役割分担を告げる。
「ワタシと直虎くんは、浜辺の藁に火をつける。元康さまと四郎さんは舟担当。さすがに海に落ちたらロウソクの火は消えちゃうんで気を付けてね」
元康は無表情に戻る。
「……もっと……地獄の業火を見せたかったが……仕方がない……」
「そうね。ちょっと我慢して、任務をお願いしますね。船と一緒に燃えちゃダメですからね?」
元康は「……分かってる…それもまた面白き…我が運命…」と答える。
「よし、じゃあ——作戦開始!」
4人は散開する。
恵、直虎は一緒に浜辺を走り、藁の山に次々と火をつけていく。
元康は端から船に軽々と飛び乗ると、甲板の藁にロウソクの炎を近づける。
藁はすぐに燃え上がった。乾いた藁は、火の回りが早い。
一隻、二隻、三隻……
元康は船から船へと飛び移りながら、次々と火をつけていく。ゴスロリのスカートが風になびき、紫のツインテールが跳ねる。その姿は、まるで炎の中を舞う魔法少女のようだ。
「……黒炎よ……この汚れし世界を……浄化せよ……厭離穢土…欣求浄土」
元康の目が、炎を映してオッドアイに輝く。右の茶色と左の青灰色が、炎の赤に染まる。反対の端の舟に乗り込んだ四郎も無言で淡々と着火作業をこなしていく。
浜辺では恵と直虎が協力して、藁の束を次々と燃え上げさせていく。
海上と浜辺に、巨大な炎の壁が出現し始める。
「これで鳴海からは熱田神宮が炎上しているように見えるわ」
「実際には神社や町を燃やさないのが草薙の剣大作戦の肝だと聞いたときには感激しましたが、実行された今、改めて姫をお慕い、いえ尊敬いたします」
「ねっ、うまくいったでしょ、学級委員長♡」
恵はセーラー服を着た黒髪眼鏡の直虎の肩に腕を回して右手で直虎の左手をつなぎ、マイムマイムを踊りだす。
「ちょ、ちょっと姫」と直虎は顔を真っ赤にしながらも動きを合わせる。
舟から元康と四郎が戻ってくる。二人ともやり切った充足した表情だが、元康のそれは陶酔した「いっちゃってる」目だ。
元康は二人の踊りを見るといつも無表情に戻り、「……その動き……三河萬歳に取り入れたら…三河ものも少しは喜んでくれるだろうか…」とつぶやく。四郎は「安全第一」とかかれた黄色いヘルメットを脱ぐと腰に抱えて、「ふー」と息をつき、労働者らしく額の汗をぬぐう。
うっとりとした表情で恵に身をゆだねていた直虎だったが急に動きを止め、マイムマイムを無理やり中断する。恵がつんのめる。
「どうしたの?」
「複数の馬蹄の音が近づいています。予定より信長は早く来るかもしれません」
四郎の表情が厳しくなる。兄たちを失ったあの戦いが脳裏をよぎっているようだ。
耳をそばだてると静かに指を3本立てた。
恵は理解する。
「あの時の三騎が来るのね」
四郎は無言でうなずく。乗ってきた舟はすべて炎上中で、船頭たちに譲った撤収用船はすでに南の海の遠くにある。
「……どうする?」と元康が恵に聞く。
「どうするのは家康、いえ元康さまでしょ!」




