第34話 三角形の誘蛾灯
鳴海城の物見櫓は黄昏の潮風をまともに受けていた。雨上がりの雲が裂けた西の空は赤く染まった「逢魔時」を迎える。熱田神宮の上に太陽が沈みかけ、海面は不自然なほど赤い。
織田信長は血に染まった甲冑のまま、西ではなく、大高城のある南の方向を睨んでいた。桶狭間での勝利から数刻。今川義元の首こそ取り逃がしたものの、今川本隊は壊滅し、鳴海城にこもった強敵の岡部元信も討ち取った。あとは大高城に逃げ込んだ義元と残党を叩き潰すだけだ。
「殿、追撃の準備が整いました」
傍らに控える前田利家が報告する。槍の又左衛門の異名を持つ若武者は、血気盛んな目をしている。先ほどの戦いでは、空に浮かんだ妖術——恵の時代では無駄の象徴とされる「プロジェクションマッピング」という技術——に翻弄されて手柄を逃した。その悔しさが、目の奥に燻っている。
「うむ。夜明け前に大高城を囲む。今川の残党7000、一人残らず——」
信長の言葉が途切れた。
利家が赤く染まった西の海を指差している。
「殿、あれを」
夕暮れの海に、黒い点が無数に浮かんでいた。
「舟か」
「はい。かなりの数です」
利家は目を細める。桶狭間でも見せた超視力だ。遠くのものを見る力では、信長軍の中でも随一と言われている。
「……100隻はあります。いや、それ以上かもしれません」
信長は腕を組む。今川の水軍が大高城の救援に来ていたことは知っている。だが、なぜ今、動き出した?
「逃げていく舟なんぞ捨ておけ」
「しかし殿——」
利家の眼がさらに絞り込まれる。その顔色が変わった。
「あの船団……妙な方向へ向かっています」
「妙な方向?」
「南に脱出する経路ではありません。まっすぐ熱田神宮の方角です」
「神宮だと?」
信長の声が鋭くなる。
利家はさらに目を凝らす。夕日に照らされた海の上で、船団がかなりの速度で西進している。その先頭には——
「……殿、先頭の舟に、船頭以外にも奇妙な人影が見えます」
「何人だ」
「四人です。そのうちの一人……あの服です」
利家の声が緊張で震える。
「白と紺の、あの奇妙な服。あの白き妖女がまとっていた——」
「あやつか」
「たぶん。それと、もう一人は深紅の身体にぴったりした服……頭にはなにか冠のような金色に反射するものを被った女が」
「女が二人だと?」
「いえ、もう一人女がいます。西洋風の服に、紫色の髪をした……小柄な女? いや、よく分かりません。最後の四人目は男ですが、僧侶の普段着のような着物に、鮮やかな黄色い兜のようなものを被っています。あの黄色……あんな色は見たことがありません。まるで、この世の終わりを告げる警告のような、不気味な輝きを放ってます。とにかく、四人とも奇妙奇天烈な格好をしています」
信長は身体の向きを変えて西の海を睨む。夕暮れの逆光で、船団の詳細は見えない。だが、利家の目は信頼できる。
「妖女は一人でないのか……」
◇
その時、階下から駆け上がってくる足音がした。
「殿! 大変でございます!」
木下藤吉郎だ。猿のような顔に、汗が光っている。息を切らしながら、木の床に膝をつく。
「どうした、藤吉郎。騒々しい」
「今川の残党が、大高城から撤退を始めました!」
信長の眉が跳ね上がる。
「撤退だと? 籠城ではなく?」
「はい。全軍、沓掛城の方へ向かっているようです。しかも——」
藤吉郎は一度言葉を切り、信じられないという顔をする。
「武器を持っていません。それどころか甲冑すらだれも着ていません。7000人が走って逃げだしました」
「なんだと?」
「やつら甲冑も刀もつけないので早いです。監視につけていた歩兵では追いつけません。騎馬隊を出してください」
信長は眉間に皺を寄せる。
「馬鹿な。丸腰で撤退など、追撃してくれと言わんばかりではないか。散り散りになった残党を包囲した歩兵で各個撃破せい!」
「それが……できないのです」
「なぜだ」
「屈強な男たち7000人が一糸乱れずに一つの群れとなって移動しています。武器はなくとも、歩兵の小隊では袋叩きに合うのがおち」
藤吉郎はバツが悪そうにこめかみをかきながら続ける。
「さらに、お恥ずかしいのですが、大高城に金目の刀や甲冑が7000人分そのまま残っていると気づいた足軽連中はこぞって城内に入って、宝探しをはじめる始末でして」
「ぐぬぬ。ワシの直下の母衣衆にそんなうつけはおらんだろうな!」
かつて母衣衆に取り立てられたが、今は足軽組に落とされている利家が口を出す。
「俺も、足軽隊に入ってみたけど、本当にやつら、目の前の利と自分の命のことしか考えていねぇっすよ。俺も信長さまによる『天下国家』を語ってやったけど、『意識高いっすね』ってなんか小ばかにされたし」
藤吉郎はブルっと震える。「今川義元、恐ろしい。なにを考えているのか」と深読みする。
利家は「あの熱田に向かっている100隻の舟には例の白き妖女がいる」と藤吉郎に伝える。
藤吉郎はがばっと立ち上がり信長の横で西の海を見る。夕日を背にした船団が、確かに熱田の方角へ進んでいる。
藤吉郎は続ける。
「殿、考えてみてください。なぜ妖女は、わざわざ自分の姿を見せているのか。なぜ100隻もの大船団を、堂々と動かしているのか。そして、逃げ出した7000人は丸腰なのか」
「言ってみろ」
「熱田神宮を少数精鋭で攻撃するためです」
信長の目が鋭くなる。
「熱田神宮には、今朝がた、戦勝祈願に立ち寄りました。あそこには三種の神器の一つ、草薙の剣も祀られています。もし熱田が燃やされでもしたら——」
藤吉郎は声を低くする。
「桶狭間で勝っても、この戦は殿の敗北になります」
「どういう意味だ!」と利家がどなる。
「尾張の民の心です。『信長様は今川に局地戦で勝ったが、その代償に熱田神宮を焼かれた』と噂されます。『神罰が下る』『信長についていくと、神様に見捨てられる』と。勝って兜の緒を締めよ、どころではありません。勝って、すべてを失うことになりかねません」
利家が「藤吉郎の言う通りだ。今は一致団結しているが、尾張には信長さまに反抗する勢力が根強くいる」とうなずく。「熱田へ戻りましょう。あの妖女を討ち取れば、一石二鳥です。桶狭間で逃した恥も、そそげます」
信長は拳を握りしめる。
「……くそ。あの妖女め、謀りおったな」
信長は決断を下そうとした。
「全軍、熱田へ——」
◇
「殿、お待ちください」
静かな、しかし芯の通った声が、信長の言葉を遮った。
振り向くと、一人の若者が立っていた。18歳ほどの、色白で繊細な顔立ちの青年。手には筆、そして半紙に描きかけの絵を抱えている。
狩野永徳だ。
「永徳、お前はまだここにいたのか」と利家が睨む。
「はい。殿のお許しを得て、戦場を写生しておりました」
信長は「戦場で絵を描きたいと望む絵師など、お主くらいだ」と少し口角をあげて言う。
永徳は一礼してから、西の海を見つめる。夕暮れの光が、100隻の舟団を照らしている。その目が、じっと動かない。
「……殿、あの船団を見て、何か感じませんか」
「感じる? 100隻の舟が熱田に向かっている。それだけだ」
「いえ、それだけではありません」
永徳は懐から別の半紙を取り出すと筆で簡単な地形と船団を三角形の線で描いていく。
「僕には……あの船団から、目が離せないのです」
藤吉郎が「それは熱田が心配だからだろう」と言う。
「そうなのですが、根本的に違っています」
永徳は首を横に振る。
「僕は絵師です。物の形、配置、色彩……そういうものを見る目だけは、誰にも負けないと自負しています。だからこそ分かるのです。あの船団には……何か、おかしなものがある」
信長が「おかしなもの?」と聞く。
永徳は言葉を探すように、しばらく黙る。そして、意を決したようにゆっくりと口を開く。
「あれは船団の陣形ではなく『絵』として見るべきです。敵に見せるための“構図”なんです。あの船団、三角形に配置されてますよね?」
「三角形?」
「はい。先頭に派手な4人を乗せた舟があり、そこから後方に向かって、左右に扇状に広がっている。まるで……矢の先のように」
利家が「それがどうした。陣形としては普通だろう」と言う。
「いいえ、普通ではありません」
永徳の声に力がこもる。
「本当に熱田を攻めるなら、横一線になるはずです。最短距離で、最速で向かうはずです。なのに、わざわざ三角形に並べてから、船団を進ませたことになります。しかも、先頭の4人は派手な格好をして、目立つようにしている」
永徳は自分の目を指差す。
「これは……僕たちの目を、誘導しているのです」
「誘導?」
藤吉郎が怪訝な顔をする。
永徳は説明しようとして、言葉に詰まる。
(どう説明すればいい……?)
永徳の頭の中には、かつて信長から見せてもらった一枚の絵があった。南蛮渡来の西洋画。そこには、日本の絵にはない不思議な技法が使われていた。
一つの点に向かって、すべての線が収束していく。建物の壁も、道も、人々の視線も、すべてがその一点に向かって吸い込まれていくような——
永徳はそれを心の中で「線遠近法」と呼んでいた。西洋の絵師たちが発明した、奥行きを表現する技法だ。これは、一点に線が吸い込まれる「一点透視図法(パース図法)」と呼ばれるものだ。
あの船団の配置は、まさにそれだった。三角形の頂点に派手な4人を置き、視線を誘導し、その先にある熱田神宮に自然と目が向くように仕組まれている。
まるで催眠術のように、見る者の意識を操る画法。
だが、それを今、この場で説明する言葉がない。日本には、この技法を知る者がいない。永徳だって、信長から見せてもらった南蛮の絵と、その影響を受けた中国の最新絵画がなければ、気づかなかった。
「殿、僕には……あの船団を見ていると、自然と熱田の方に目が向いてしまうのです。まるで、引きずり込まれるように」
「引きずり込まれる?」
「はい。あの4人の派手な姿、三角形の配置、そしてその先にある熱田神宮……僕たちの目は、あの妖女によって、見せられたい方向へ誘導されているのです」
信長は腕を組む。
「つまり、お前は何が言いたい」
「これは罠です」
永徳ははっきりと言い切った。
「あの妖女は、僕たちに『熱田が危ない』と思わせようとしている。100隻の舟団は、そのための……目くらましです」
藤吉郎が「しかし、100隻の舟は本物だ」と反論する。
「本物です。ですが、本当の狙いは熱田ではない」
永徳は大高城の方角を指差す。
「あそこです。7000人の残党。妖女は、僕たちの目を船団に釘付けにして、その間に本隊を逃がそうとしている。これは『孔明の罠』です」
利家が「根拠は何だ」と詰め寄る。
永徳は言葉に詰まる。
(根拠……線遠近法の効果を、どう説明すればいい? 日本には、この技法を知る者がいない。僕だって、信長様から見せてもらった南蛮の絵がなければ、気づかなかった……)
永徳は正直に答える。
「……うまく説明できません。ただ僕には、あの船団の配置が、絵師として……見る側を意識して作られた構図に見えるのです」
藤吉郎が「つまり永徳殿の勘ですね」と言い、「軍師ならともかく絵師の勘で、熱田神宮を危険に晒すわけにはいかないでしょうな」
利家も「藤吉郎の言う通りだ」とうなずく。
信長は黙って考え込んでいる。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「利家、藤吉郎」
「はっ」
「全軍、熱田へ向かう」
永徳の顔から、血の気が引いた。
「殿……!」
「永徳、お主の言いたいことは分かった」
信長は永徳を見ずに言う。
「だが、熱田神宮は守らねばならん。たとえ罠であっても、熱田が危険に晒される可能性がある以上、尾張を統べるものとして守りに行かねばならん」
永徳は何か言おうとして、口を開く。だが、言葉が出てこない。
藤吉郎が「では、出陣の準備を」と言って、階下へ駆け降りていく。利家も「殿、馬の用意をしてまいります」と言って、後に続く。
櫓に、信長と永徳だけが残された。
永徳はその場に立ち尽くしていた。
(あの船団はたぶん罠だ。でも……それを証明できない。言葉にできなかった。絵にできなかった僕の敗北だ……)
絵師としての目は、真実を見抜いていた。しかし、その真実を他者に伝える言葉を、永徳は持っていなかった。
(これが……今の僕の限界か)
永徳の肩が、がっくりと落ちる。
信長は黙って櫓を降りようとする。その背中を、永徳は見送ることしかできなかった。
◇
信長が階段を降りかけた時、ふと足を止めた。
そして、振り返った。
「永徳」
永徳は顔を上げる。
信長は、不思議な表情をしていた。戦場の鬼でも、冷徹な策略家でもない。どこか……少年のような、純粋な光を目に宿していた。
「ワシはな、お前の目を信じておる」
「……え?」
永徳は耳を疑った。
「お前の言う通り、あれは罠かもしれん。いや、おそらく罠だろう」
「では、なぜ……」
信長は苦笑する。
「罠であろうと……ワシはあやつに会いたいのだ」
永徳は息を呑んだ。
「あの摩訶不思議な服と道具を操る妖女。桶狭間で、空に光の絵を描いてみせた女、いやお主によると男の娘という見立てじゃったな。ともかく、あやつは、ワシが今まで見たことのないものを持っておる、知っておる」
信長の目が、遠くを見つめる。
「南蛮の品、明の茶器、堺の商人たち……ワシは新しいものが好きだ。見たことのないものに、心が躍る。あの妖女は……ワシが見たこともない世界を見てきた人間じゃ」
信長は永徳に顔を向ける。
「できることなら、あやつに夜通し問い詰めたい。あやつの目には、何が見えているのか。あの不思議な術は、どこから来たのか。ワシは……知りたい。永徳……お主もそうなんじゃろ」
永徳は、目を見開いた。永徳の胸に、熱いものが込み上げてきた。
「ぼ、僕も……」
声が震える。
「僕も、あの人に会いたいです」
信長が「ほう」と眉を上げる。
永徳は拳を握りしめる。
「あの妖女は、未知の画法を知っている。僕たちの目を操る術を、心得ている。僕は……絵師として、あの人に会わなければならない。あの人が知っている絵はどんなものなのか……知りたいんです」
信長は「くくく」と笑った。
「やはりお前はワシと同じ種の人間よのぉ」
「はい」
「ならば、来い」
信長は階段を降りていく。
「妖女の罠に釣られてやろうではないか。だが引き換えに妖女の正体を必ず暴く。そして……頭蓋骨を断ち割ってでも、あやつの頭の中のことをあらいざらい見せてもらおう」
信長はマントをさっと翻すと階段を降りていく。
永徳は急いでその背中を追いかけようとした。その時、異様な空気が永徳の背中を刺す。
はっとして永徳は振り返り、海の隔てた対岸の熱田を見る。地上と海上から立ち上がった深紅の炎が、日没の空を飲み込み、艶めかしく脈打っている。
「あ、熱田、じ、神宮が、燃えている!」
永徳はあわてて階段を駆け下りながら、考える。
(信長様と話していたわずかの時に熱田半島を一気に炎上させたというのか?)
階段を下りたとき、すでに信長たちは出発していた。慌てて出陣の準備をしている兵たちから「俺たちのお社が炎上しているぞ」「草薙の剣が燃えてしまうのか」と勝者とは思えない悲鳴に似た声があがった。




