第二話 片手の拍手
片手では、拍手は鳴らない。 ――アラビアのことわざ
2032年
手は、まだ温かかった。
梁の下から、1本だけ突き出ている。指の付け根に、絆創膏が巻いてあった。子どもの手ではない。けれど、大人の手にしては小さい。
長田は、その手を両手で握っていた。
引っ張った。抜けない。もう1度引っ張った。梁の上で、2階だったものが軋んだ。
「誰か」
声が、思ったより小さかった。長田は腹に力を入れた。
「誰か、いませんか」
返事はなかった。通りの向こうでも、誰かが誰かを呼んでいた。呼ぶ声はあちこちから聞こえるのに、答える声はどこからも聞こえなかった。
研究室の床で揺れに叩き起こされ、止まった電車の線路を歩いて、ここまで帰ってきた。3か月ぶりに見る家は、屋根が地面の高さにあった。
空が、妙に明るかった。電柱が1本、斜めに倒れたまま電線を垂らしている。焦げた匂いが、風に乗って流れてきた。
母の手だろうか、と長田は思った。妹の手かもしれなかった。どちらの指に絆創膏を巻くような傷があったのか、長田は知らなかった。最後に家族の手を見たのがいつだったか、思い出せなかった。
手の中の指が、1度だけ、わずかに動いた気がした。
気のせいだったのかもしれない。長田には、確かめる方法がなかった。
握っているうちに、手は少しずつ長田の手と同じ温度になり、それから、長田の手よりも冷たくなった。
誰も、それを見ていなかった。
◇
避難所の体育館は、夜になると、寝息と咳と、誰かのすすり泣きで満ちた。
床に敷いた段ボールの上で、長田は膝を抱えていた。灯油ストーブの匂いが、毛布にまで染みついている。震災から、16日が経っていた。
入口の掲示板には、亡くなった人の名前が貼り出されている。長田という姓が、4つ縦に並んでいた。長田はその紙の前を、毎朝、足を止めずに通り過ぎた。
昼間、新聞社の腕章をつけた男が、カメラを提げて体育館を回っていた。レンズがこちらを向いたとき、長田は毛布を頭から被った。シャッターの音が、毛布越しに聞こえた。男は、写っていたのが毛布の山だったことに気づかないまま、次の区画へ移っていった。
近所の女が、段ボール越しに声をかけてきた。
「長田さんとこ、息子さんおったんやねえ」
責める口調ではなかった。本当に知らなかったのだと分かった。長田も、その女の名前を知らなかった。
夕方、校庭の炊き出しの列に並んだ。港で働いているという外国人の一団が、大鍋で豆の煮込みをよそっていた。鍋の横の段ボールに、女が一人、マジックで何か書きつけていた。ペン先は、右から左へ動いていた。長田は器を受け取り、その字を一瞬だけ見て、列を離れた。
眠れなかった。眠れば、あの手が出てくる。
向かいの区画で、老人が一人、壁にもたれて座っていた。妻と息子夫婦を亡くしたのだと、昼間誰かが話していた。老人は誰に言うでもなく、天井に向かって呟いた。
「このまま、寝て、目が覚めんかったらええのになあ」
長田は、老人の顔を見られなかった。膝を抱える腕に、力が入った。
隣の区画で、子どもが叫び声をあげて飛び起きた。母親が背中をさすり、「夢やからね、夢やから」と繰り返す。子どもは泣きながら首を振った。夢の中で、何度も家が潰れるのだと言った。
長田は、膝の上の古いノートパソコンを開いた。大学の研究室の瓦礫から、這い出すようにして持ち出した1台だった。家から持ち出せたものは、何もなかった。画面の光が、毛布の端を青白く照らす。
脳波の波形。睡眠の段階を示す図。書きかけの修士論文。
見る夢を、選べたら。
あの子が、家の潰れる夢を繰り返し見ずに済んだら。
あの老人が、目を覚ましたいと思える夢があったら。
長田はキーを叩いた。指先に、まだあの手の感触が残っていた。
◇
その男が来たのは、同じ夜の、10時を回った頃だった。
体育館の扉が開き、冷たい風と一緒に、トラックの排気音が入ってきた。荷台の幌に、港の倉庫街でよく見る会社の名前が刷ってあった。
「ストーブ、20台。毛布、300枚。それから――」
男の声は、大きくはなかった。低いのに、体育館の隅まで届いた。
「プリン、1000個」
寝ていたはずの子どもたちが、一斉に顔を上げた。
男は、この場所にまるで似合わなかった。背が高く、癖のある髪が額にかかっている。仕立てのいいコート。磨かれた革靴。泥だらけの床を、その革靴で平然と歩いてくる。年は、長田とそう変わらないように見えた。笑うと、白い歯が並んだ。
ただ、手だけが、コートに似合っていなかった。指先の爪が何枚も割れ、その隙間に、黒い土が詰まっていた。
ボランティアの年配の男が、「若宮さんとこの坊ちゃんや」と誰かに耳打ちしていた。あのトラックの、と付け足すのが聞こえた。長田には関係のない話だった。
若宮は、子どもたちにプリンを配りながら、1人ずつ名前を聞いた。聞いた名前を繰り返し、何か一言付け足して笑わせる。さっき飛び起きた子どもには、名前を聞いたあとで「プリンは、蓋から舐める派か」と聞いた。子どもは泣き腫らした目のまま、こくりと頷いて、蓋を舐めながら笑った。
向かいの老人のところにも、若宮はプリンを置いた。そばにいたボランティアの男が、老人の肩を叩いて言った。
「ほんまに、運が悪かったなあ」
若宮の手が、止まった。
笑顔が消えていた。長田が瞬きをするあいだに、それは元に戻っていた。若宮は老人の前に膝をつき、プリンの蓋を開けて、スプーンを添えて渡した。
長田は区画の隅で、画面に目を戻した。ああいう人間は、苦手だった。
◇
体育館の明かりが落とされ、ストーブの炎だけが赤く残った。
「それ、何?」
顔を上げると、若宮が隣にしゃがんでいた。プリンを2つ持っている。1つを、長田の膝の横に置いた。
「……研究です」
「こんなところで?」
「ここしか、ないので」
若宮は画面を覗き込んだ。波形を、しばらく黙って見ていた。
「脳波だ」
長田は少し驚いて、若宮を見た。
「一般教養で、ちょっとだけ齧った」若宮は笑った。「齧っただけで、単位は落とした。……で、これで何をするの」
長田は答えなかった。若宮も急かさなかった。自分の分のプリンの蓋を開け、一口食べた。スプーンを持つ指の、割れた爪が、ストーブの火に赤く光った。
隣の区画で、さっきの子どもがまた、うなされ始めた。
長田は、その声のほうを見た。若宮も見た。
「夢を」長田は言った。声が掠れた。「夢を、選べるようにしたいんです」
「選ぶ?」
「同じ夢を見なくて済むように。……家が潰れる夢を、見なくて済むように」
若宮は、スプーンを止めた。
「できるの」
「理屈の上では。眠っている脳に、外から――」長田は言いかけて、口を閉じた。声に出すと、自分でも馬鹿げて聞こえた。「何年かかるか、分かりません。設備も、お金も、ないので」
「金はある」
若宮は、天気の話でもするように言った。
「親父のだけどな」
それから、長田の画面を、人差し指で、とん、と叩いた。
「設備は、買えばいい。人は、集めればいい。足りないのは、これを考えられる頭だけだ。それは、うちの金でも買えない」
長田は、画面に映る自分の波形を見た。眠れない人間の、乱れた線だった。
「……逃げられる場所を作りたいんです」長田は言った。「夢の中くらい、安全な場所に」
若宮は、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと首を振った。
「逃げ場じゃ、だめだ」
長田は顔を上げた。
「夢だと分かってる夢は、目が覚めたら終わる。終わったら、また瓦礫の前に戻される」若宮は体育館を見回した。段ボールの区画。並んだ毛布。壁にもたれたまま目を閉じない老人。「どうせ作るなら、本物と見分けがつかないやつを作ろう。そっちで生きていけるくらいの」
「そっちで、生きる」
「そう。家が潰れない世界。人が――」
若宮は言葉を切った。ほんの一瞬、笑顔が剥がれて、その下から何か別のものが覗いた。すぐに元に戻った。
「人が、理不尽に死なない世界」
長田は、自分の手のひらを見た。まだ、あの温度が残っている気がした。
「……そんなもの、作れるんですか」
「一人じゃ無理だね」
若宮は立ち上がった。そして右手だけを宙に上げ、ひらひらと振ってみせた。
「片手じゃ、拍手は鳴らないだろ」
その右手が、長田の前に差し出された。割れた爪の、土の詰まった手だった。
長田は、その手を見た。それから、自分の右手を見た。梁の下の手を握っていた手だった。
長田は、その手で、若宮の手を握った。
温かかった。
「若宮です」
「……長田です」
若宮は握った手を1度だけ強く振って、笑った。白い歯が並んだ。
「やるなら、常識も世界も、まとめて変えよう」
若宮は、長田の目を見ていた。見ているのに、長田は自分が見られている気がしなかった。「でも最初は、プリンが無限に出てくる夢からだ。長田くん」
隣の区画で、子どもの寝息が、少しだけ静かになった。
向かいの老人は、まだ起きていた。
プリンは好きですか?




