第一話 死に戻り芸人
ちょっとダークな世界観。
LIVEN内での死亡は、利用者の身体に一切の影響を与えません。死亡した利用者は、ただちに現実で覚醒します。 ——LIVEN利用規約 第十二条
2084年
「本日の死に方は、こちら!」
神田は片側三車線の真ん中で、両腕を広げた。
夜の幹線道路である。街灯が等間隔に並び、その光の輪の中にだけ、神田の影が落ちていた。排気ガスの匂いがする。足の裏には、昼間の熱がまだアスファルトに残っている。何もかもが現実と寸分違わず、ただ神田の体だけが、現実よりずっと軽い。
神田は右手の自撮り棒を高く掲げ、先端の端末に親指を当てた。画面の隅に赤い丸が灯り、「配信中」の三文字が出る。
画面の右上の数字は、312。先週の半分だった。
「大型トレーラー、時速百二十キロ。正面から受け止めてみたいと思いまーす」
数字の下を、コメントが流れていく。
『またそれ』
『先週も轢かれてたじゃん』
『飽きた』
312が311になった。
「いやいや、先週は軽トラだから。今日はトレーラー。重さが違う。重さが」
コメントは流れなかった。
三か月前には、この道路の両脇に野次馬が詰めかけた。歩道を埋め、陸橋から身を乗り出し、路肩に車を停めてまで端末を向けてきた。画面の向こうには千人いた。今は歩道に、犬を連れた女が一人立っているきりだ。犬のほうが、よほど熱心にこちらを見ている。
遠くで、クラクションが鳴った。坂の上に、ヘッドライトが二つ現れる。
神田は腰を落とした。相撲の立ち合いの構え。三か月前に一度だけウケた型である。一度ウケたものを、神田は捨てられない。
ライトが近づいてくる。運転席は空だった。トレーラーに人が乗っていたのは、神田が子どもの頃までだ。神田は、二つ数えた。間を外すと、轢かれても笑いにならない。昔、相方によく言われた。
「神田、いきまーす!」
ライトが視界いっぱいに膨らんだ。
白。
音は、なかった。
◇
天井のしみが見えた。
茶色い、地図のような形のしみ。どこかの島に似ているが、どこの島なのかは、この部屋に越してきてから一度も分かったことがない。六畳一間の、いつもの天井である。
神田は仰向けのまま、しばらく息をしていた。シャツが背中に張りついている。体が重い。向こうの体は轢かれても跳ね上がるのに、こっちの体は寝返りひとつ打つにも腹が邪魔をした。
枕元の端末を手に取る。今夜の最高視聴者数、318。投げ銭の合計、千四百円。
「……六人増えた」
誰に言うでもなく言って、端末を伏せた。千四百円では、缶コーヒーが三本しか買えない。家賃には、まるで足りない。
流しにはカップ麺の容器が三つ。玄関の床には、同じ封筒が三通。一通目は白く、二通目には「至急」の判が押され、三通目は宛名の文字まで赤い。人間の催促というものは、段階を踏んで色が濃くなるらしい。
冷蔵庫の扉に、色の褪せた写真が一枚、磁石で留めてあった。小さな女の子が、神田の肩の上で大口を開けて笑っている。神田はそれを見ないようにして冷蔵庫を開け、中に何も入っていないことを確かめて、閉めた。
死んだあとは、眠れない。
向こうで死ぬと、体のどこかが勝手に朝だと決めてしまうらしい。目を閉じても、瞼の裏でまだライトが膨らみ続けている。
神田はサンダルをつっかけ、薄いジャンパーを羽織って、部屋を出た。
◇
夜中の二時、町は静まり返っていた。
八月なのに、夜は上着が要った。毎年のことだった。向こうの八月は、ちゃんと暑い。
アパートの前の幹線道路に出る。片側三車線。さっき神田がトレーラーに轢かれたのと、同じ道路である。
向こうでは街灯が明るく、車が途切れず、歩道に人がいた。こちらの街灯は三本に一本が切れ、車は一台も走っていない。アスファルトのひび割れから、雑草が膝の高さまで伸びていた。どの窓も暗い。みんな向こうにいる。誰もいない交差点で、信号だけが律儀に、青から黄、黄から赤へと色を変えていた。
商店街は、どの店もシャッターが下りたままだった。貼り紙が何枚も、日に焼けて丸まっている。「LIVEN店へ移転しました」「長らくのご愛顧ありがとうございました」。神田が三年勤めたコンビニの貼り紙も、その中にあった。向こうの同じ場所では、同じコンビニが今夜も二十四時間開いている。
商店街の外れで一軒だけ、白い明かりが漏れている。
コインランドリーへ向かう。
ガラス戸を押すと、乾燥機の熱気が顔にかかった。奥の受付台の向こうで、白髪の老人がタオルを畳んでいる。この店の主人で、二階に妻と住んでいるらしい。商店街で夜通し明かりがついているのは、この店くらいだった。受付台の上には、角の擦り切れた古い端末が開いたままになっている。
神田は自販機の前に立った。今夜の投げ銭で払おうと端末をかざしたとき、背中に声がかかった。
「また死んだのか」
神田の指が止まった。振り返ると、老人はタオルを畳む手を止めていなかった。
「……なんで分かるんですか」
「顔に書いてある」
「どんな顔ですか」
「寝起きの顔だ。夜中の二時に寝起きの顔をしてるのは、向こうで死んで、こっちで目が覚めたやつだけだ」
神田は自分の頬を撫でた。脂で指が滑った。
「……何百回死んでも、これだけは慣れないんですよ。目が覚めたら、もう朝まで眠れない。町中がぐっすり寝てるのに、こっちだけ起きてる」
「それで、うちに来る。この時間に明かりがついてるのは、ここだけだからな」
自販機が、支払いを受け付ける電子音を鳴らした。
「おやじさんは? 起きてるってことは、向こうで死んだんですか」
「死んでない」
「じゃあ、なんで起きてるんです」
「起きてるんじゃない。これから寝るんだ。店を閉めたら、二階で妻と寝る。朝まで、普通に」
「普通に」神田は繰り返した。「……繋がないで?」
老人は答える代わりに、小さな花柄の、女物の寝間着を丁寧に畳んだ。
「今どき、そんな人いるんですね」神田は本気で感心した声を出した。「寝てる間の八時間、なんにもしないなんて。向こうなら、その八時間で働けるし、遊べるし、別の人生だってやれるのに」
「八時間、何もしないのが好きなんだ」
「もったいない」
「それに、繋がなければ夢が見られる」
「夢?」神田は眉を寄せた。「夢なら、向こうがそうでしょう。みんなで同じ夢の中にいるようなもんだ」
「だからだ。あれは、みんなで見る同じ夢だ」老人は寝間着を、タオルの山のいちばん上に載せた。「俺は、自分の夢が見たい」
神田は鼻で笑った。「渋いなあ」
「渋いか」
「渋いですよ。自分の夢なんか、ろくなもんじゃない。こっちは家賃の夢ばっかりで」
老人の口の端が、ほんのわずかに動いた。
缶コーヒーが落ちてくる。神田はそれを持って、受付台の前の丸椅子に座った。
「今日はトレーラーです。正面から」
「痛いのか」
「一瞬だけ。あとは天井のしみ」神田は缶を開けずに、手の中で転がした。「あのしみ、島の形してるんですよ。どこの島か、三年考えてるのに、まだオチがつかない」
老人は笑わなかった。神田は、ウケなかったネタをそっと引っ込めた。「……これでも、芸人なんですけどね」
「死ぬ瞬間は、何が見える」
神田は少し考えた。
「白いですね。真っ白。音もない。で、気づいたら天井」
「その白いのは、怖くないのか」
「怖かったら、三百回も死にませんよ」
「三百回」
「数えてないけど、たぶんそのくらい」
老人は畳みかけのタオルを台に置いた。
「なんで、そんなことをする」
神田はプルタブを引いた。
「おやじさん、生きてて誰かにじっと見られたこと、あります?」
老人の手が止まった。
「俺はないんですよ。四十六年。学校でも、バイト先でも、別れた嫁にも」神田はコーヒーを一口飲んだ。甘すぎる。「で、向こうで軽トラに轢かれてみたら、千人見てた。最初の日。千人ですよ。千人が、俺が潰れるとこを、息止めて見てた」
「今は」
「三百」
「減ったな」
「慣れるんですよ、人間。死ぬのにも、見るのにも」神田は缶の縁を親指でなぞった。「だから、もっとでかく死ぬしかない」
老人はしばらく黙っていた。乾燥機の中で、誰かのシーツが白い腹を見せては沈み、また見せては沈んだ。
「昔、本当に人が死ぬところを見た」
「事故ですか」
「地震だ。もう五十年も前になる。梁の下から手が一本出ていて、まだ温かかった。引っ張っても、抜けなかった」
神田は缶を口に運びかけて、止めた。
「その手を見ていたのは、俺だけだった」老人は乾燥機の丸い窓に目をやったまま言った。「誰にも見られずに死ぬのと、千人に見られて何度も死ぬのと、どっちがましなんだろうな」
「そりゃ、見られるほうでしょう」
神田は即答した。即答してから、なぜか缶を握る手に力が入った。
「そうか」
老人はそれ以上何も言わなかった。代わりに、ずいぶん経ってから、独り言のように呟いた。
「……そういうつもりじゃ、なかったんだがな」
「え?」
「なんでもない」
壁のテレビが、音もなく光っていた。
CMだった。白い寝台に、家族四人が並んで眠っている。画面が切り替わると、同じ四人が向こうの遊園地で、観覧車を見上げて笑っていた。字幕が流れる。
「お店も、お仕事も、もう向こうにあります」
「お食事も、お体のお手入れも、眠ったまま自動で」
「起きなくても、暮らせる。――LIVEN長期滞在シェルター 入居者募集中」
「あれ、いいですよね」神田は顎で画面を指した。「起きなくていいんですよ。飯も風呂も、寝てる間に勝手にやってくれて」
老人は画面を見なかった。
「店も仕事も向こうに移って、今度は人間ごと移るわけか」
「こっちにいても、することないですもん」神田は缶を振った。「俺、LIVENの一個下なんですよ。生まれたときから、ずっと世話になってる。向こうは世界一になって、こっちは家賃も払えないけど」
老人の手が、寝間着の上で止まった。
「誰が作ったか知らないけど、ありがたいですよ。俺みたいなのでも、向こうなら投げ銭がもらえるんだから」
「作ったやつを、知らないのか」
「知らないです。知らなくても使えるし」神田は笑った。「おやじさんは?」
「さあな。繋がないから、知らん」
老人は立ち上がり、乾燥機の扉を開けた。熱い空気がこぼれる。
神田は空き缶を手の中で回した。
「俺、シェルター入ろうかな。家賃いらないし。飯も勝手に入ってくるらしいし」
「入ったら、夜中に起きることもなくなる」
「最高じゃないですか」
老人は洗濯物を抱えたまま、初めて神田の顔をまっすぐに見た。何か言いかけて、やめた。
「入ったら、一発目はでかいのやりますよ」神田は身を乗り出した。「電波塔のてっぺんから飛ぶんです。シェルターで死んだら、どこで目が覚めるのか。絶対みんな見る」
老人の指が、台の上の端末の縁を一度叩いた。
「いつだ」
「入居が明後日だから、明後日の夜十時」
「そうか」
老人は端末の画面に目を落とし、キーを叩き始めた。神田は横から覗き込んだ。見たこともない文字が、右から左へ流れていく。ミミズが寝返りを打ったような字だった。
「それ、何語ですか」
「妻の国の字だ」
「奥さん、外国の人?」
「昔、教わった。俺が知っている中で、いちばん誰にも読めない字だ」
「何書いてるんです」
老人の指は止まらなかった。
「手紙のようなものだ」
やがて端末を閉じると、老人は畳んだ洗濯物を抱えて、店の奥の階段に足をかけた。
「芸名は」
「神田です。本名」
「覚えておく」
階段の途中で、老人は振り返らずに言った。
「明後日は、たぶん死ねないぞ」
「は?」
「おやすみ」
階段を上る足音が、天井の向こうへ消えていった。
神田は、名前を覚えておくと言われたのも四十六年で初めてだと気づいて、空き缶をゴミ箱に放った。
外れた。
◇
退去の日、神田の荷物は紙袋ふたつに収まった。
部屋を出る前に、冷蔵庫の写真を剥がした。少し迷ってから、裏返しにして紙袋の底に入れた。
シェルターは、町外れの体育館を三つつないだような建物だった。入口には列ができていた。手をつないだ老夫婦。何も持たずにスーツを着た若い男。泣きやまない赤ん坊を抱いた女。誰も喋らない。喋るのは、列の先頭で番号を読み上げる声だけだった。
中に入ると、白い寝台が見渡すかぎり並んでいた。半分ほどは、もう埋まっている。誰も動かない。誰もいびきをかかない。四百人が眠っている部屋で、聞こえるのは空調の音だけだった。
「神田さん、お待たせしました。こちらへどうぞ」
案内の女性が、端の寝台へ神田を導いた。胸の名札には、名前の代わりに番号が書いてある。声は明るく、ホテルの受付のようだった。
「本日から、神田さんのお体はこちらでお預かりします。お食事も、お体のお手入れも、眠っている間にすべて済みますので、ご安心ください」
「風呂も?」
「はい。お髭も、爪も」
女性は寝台の枕元を手で示した。
「向こうのお住まいも、もうご用意してあります。窓から海が見えるお部屋ですよ。前のお住まいと同じ間取りにもできますけれど、皆さん、せっかくだからと広いお部屋を選ばれます」
「海、いいですね」
「お仕事も、向こうでそのまま続けられます。もう、起きる必要はありません」
女性は、それがいちばんの贈り物であるかのように笑った。
神田は寝台に腰を下ろした。思ったより柔らかい。天井が高く、しみは一つもなかった。
「あの、ここって、夜中に起きてる人はいるんですか」
「職員が交代でおりますよ。どうしてです?」
「いや……」神田は言葉を探した。「夜中に起きてる知り合いがいて。コインランドリーのおやじさんなんですけど。ここに入ったら、もう会いに行けないのかなって」
「向こうでお会いになればいいじゃないですか」
「繋いでないんですよ、その人」
女性は少しだけ首を傾げた。そういう人間がいることを、初めて聞いたという顔だった。
「では、お手紙でも」
「……そうですね」
女性は一礼して、次の番号を呼びに行った。
神田は横になり、白い天井を見上げた。どこの島にも似ていない天井だった。オチのつけようもない。
明後日の夜、電波塔から飛ぶ。千人、いや、もっと見るかもしれない。けれど、名前を覚えておくと言ったあの老人だけは、それを見ることができない。惜しいのか、ありがたいのか、神田には分からなかった。
明後日は、たぶん死ねないぞ。
あれは、どういう意味だったんだろう。
「……本日の、死に方は」
口の中で呟いて、目を閉じた。
◇
「本日の死に方は、こちら!」
電波塔のてっぺんで、神田は両腕を広げた。地上三百メートル。真下の交差点を、車のライトが豆粒のように流れていく。
自撮り棒の先で、赤い丸が灯っている。配信を始めて、まだ三分も経っていない。画面の数字は、1,204。
シェルターに入ったところで、向こうでの暮らしは何も変わらなかった。変わったのは、赤い封筒が届かなくなったことくらいだ。その代わり、二日かけて告知だけは打っておいた。この町でいちばん高い場所から落ちる。それも、ただ落ちるのではない。
「地上三百メートル! 落ちてる間に、漫才一本、最後までやりきりまーす! 相方はいません! ツッコミも自分でやります!」
『バカだろ』
『何秒あんの』
『噛んだら即死』
『どっちにしろ死ぬだろ』
数字が、2,000を超えた。
「計算したら、だいたい八秒。八秒あれば、つかみと本題とオチまでいけます。いけなかったら、オチは地面がつけてくれます!」
3,000。4,000。コメントが速すぎて、もう読めない。真下の交差点にも、向かいのビルの窓にも、こちらを見上げる人影が増えていく。三か月ぶりの景色だった。
そのとき、風が止んだ。
足元の交差点で、信号が一斉に赤に変わった。向かいのビルの壁面広告から、文字が消えた。代わりに、見たこともない字が浮かんだ。右から左へ、ミミズが寝返りを打つような。
『バグ?』
『文字化けしてる』
『演出?』
「演出っす!」
神田は叫んだ。叫んでから、どこかで見た字だと思った。どこで見たのかは、思い出せなかった。
5,000。
神田は手すりを越えた。二つ、数えた。
「神田、いきまーす!」
落ちた。
「はいどうもー! 落ちながら失礼しまーす!」
――と叫んだ体が、宙で止まった。
落ちていない。風もないのに、塔の半ばあたりで、神田の体は見えない手のひらに載せられたように浮いていた。握りしめたままの端末に、コメントが溢れた。
『浮いた』
『なにこれ』
『え、死なないの?』
数字が跳ね上がった。8,000。10,000。
「なんすかこれ」神田は手足をばたつかせて、笑った。「俺、死ねないじゃん。オチ、どうすんの」
そして、世界が止まった。
コメントが止まった。数字が、10,482のまま動かなくなった。交差点の車も、見上げる人影も、窓の明かりの揺らぎさえも、写真のように固まった。動けるのは、宙に浮いた神田だけだった。
「……あれ?」
声だけが、やけに響いた。
長い時間だった。一分なのか、一時間なのか分からない。誰かが、どこかで、ひどく長く考え込んでいるような静けさだった。
壁面広告の字が、一度だけ明滅した。右から左へ流れる列の、最後の一行だけが、ほかよりわずかに明るく見えた。
やがて、世界が動き出した。
数字が、10,483になった。
体が、重くなった。
交差点のライトが、豆粒から拳になり、拳から顔になった。
「あ、オチ――」
白。
音は、なかった。
いつもなら、ここで天井が見える。
しみのない、白い天井が。
暗い。
……長い。
数字も、見えない。
目は、覚めなかった。
1話で人が死ぬ作品多すぎ。




