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リブン  作者: カツオ
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第三話 濁点

人生の3分の1を、取り戻そう。 ――LIVEN 2037年 公開時の広告より

2035年

目を開けると、プリンがあった。

白い皿の上に、ひとつ。その向こうにも、ひとつ。さらにその向こうにも。皿は地平線まで並んでいて、どの皿にも、同じ形の、同じ色のプリンが載っていた。カラメルが、縁をとろりと伝っている。

長田は、いちばん手前のひとつにスプーンを入れた。

甘かった。

舌の上で崩れて、喉を落ちていく。その冷たさまで、きちんとあった。二つ目を食べた。三つ目を食べた。いくら食べても、腹は膨れなかった。皿は一枚も減らなかった。

空を見上げた。空は、プリンの底の、焦げたカラメルの色をしていた。

若宮の趣味だ、と長田は思った。

◇

天井の鉄骨が見えた。

港の倉庫を改装した研究所は、夏の夜でも鉄骨がじりじりと鳴った。窓の外で、クレーンの赤い灯が明滅している。

長田は寝台の上で、しばらく動かなかった。こめかみに貼りついた電極が、汗で少しずれていた。

モニターの前の椅子で、若宮が眠っていた。

眠っていても、若宮は人の目を引いた。背が高く、椅子から長い脚がはみ出している。癖のある髪は、本人に言わせれば寝癖ではなく「そういう形」らしい。まくった袖から出た腕は日に焼けていて、研究所の誰よりも外を歩き回っている人間の腕だった。机の上には、空になったプリンの容器が七つ並んでいた。

長田が身を起こすと、寝台が軋んだ。若宮が目を開けた。

「……どうだった」

寝起きでも、若宮の声はよく通った。低いのに、遠くまで届く。怒鳴ったところを、長田は一度も見たことがなかった。

「甘かったです」

若宮は椅子を蹴って立ち上がった。

「味がしたのか」

「しました。冷たさも」

若宮は声を上げて笑い、長田の肩を何度も叩いた。それから、研究所の奥でまだ起きていた三人の技術者を、倉庫じゅうに響く声で呼んだ。

長田は、自分の右の手のひらを見た。

「出てきませんでした」

「何が」

「手が」

若宮の笑い声が、止まった。

梁の下の手のことは、いつだったか徹夜明けに一度だけ、若宮に話したことがあった。あの日から、眠るたびに手が出てきた。温かい手から始まって、冷たい手で終わる。三年のあいだ、一晩も欠かさなかった。

今夜は、プリンだった。

若宮は何も言わなかった。机の上の容器をかき分け、まだ封の切れていないひとつを探し出して、長田の手に載せた。

「本物も食っとけ」

◇

人を集めるのは俺の仕事だ、と若宮は言った。言ったとおりにした。

一年で、研究所の人間は三人から四十人になった。大学の研究室から引き抜いてきた者。ゲーム会社を辞めてきた者。元は船乗りだったという、配線だけは誰より速い男。

若宮は、一度会った人間の名前を忘れなかった。名前と一緒に、その人間のどうでもいいことを一つだけ覚えていた。元船乗りが、娘の運動会で父親競走に出て転んだこと。経理の女の飼い猫が、毛布しか噛まないこと。半年後にすれ違っても、若宮はそれを持ち出して笑わせた。笑わされた人間は、その日から若宮のために残業した。

もう一つ、若宮には癖があった。大事なことを言う前に、人差し指で、とん、と何かを叩く。机でも、画面でも、相手の胸でも。体育館の夜、長田のノートパソコンの画面を叩いたのと同じ指だった。その音がすると、四十人が手を止めて、若宮を見た。

若宮が人を連れてくると、長田はその人間に仕事を渡した。渡す仕事は、いつも長田の頭の中に、もう出来上がっていた。長田は一日に三時間眠り、残りの時間でキーを叩いた。眠るときは、試作機に繋いだ。手は、もう出てこなかった。

金を集める場には、長田も引きずり出された。

ベンチャーキャピタルの会議室は、雑居ビルの7階にあった。机の向こうに3人。真ん中の白髪の男が代表パートナーで、両脇の若い2人は、ずっとノートパソコンを叩いていた。若宮の隣には、若宮が連れてきた弁護士が1人、黙って座っていた。

長田はモニターに脳波の図を映して、説明を始めた。睡眠の段階、刺激の入力、覚醒の閾値。話せば話すほど、若い2人の目が画面に落ちていった。白髪の男だけが、画面ではなく長田の顔を見ていた。

説明が終わると、白髪の男が口を開いた。

「技術は分かりました。分かったことにしておきましょう。それで、誰が金を払います? 震災はお気の毒でした。ですが、運が悪かった人たちへの同情で財布を開く時代は、もう終わりましたよ」

長田の隣で、若宮が立ち上がった。

笑っていなかった。

ほんの一呼吸のあいだだった。長田がそれに気づいたときには、若宮はもう白い歯を見せていた。机の端を、人差し指で、とん、と叩いた。

「人間は、1日に8時間眠ります。人生の3分の1です。その3分の1、人は1円も稼がないし、1円も使わない。とくに、働いている人です。朝から晩まで働いて、帰って、寝るだけ。その人たちの8時間が、いちばんもったいない」

「市場の話をしてください」

「月3000円。働いている6000万人のうち、1割が使えば、年に2000億円を超えます」

「その売上が立つのは、何年後です」白髪の男は表情を変えなかった。「眠っている人間の脳に、外から刺激を入れる。医療機器の承認を取るなら、治験だけで何年もかかる。その間、売上はゼロです」

「取りません」

「承認を、ですか」

「医療機器かどうかは、何に使うと言うかで決まります。病気を治すと言えば医療機器。言わなければ、眠っている間に使う娯楽の機械です」若宮は、とん、と机を叩いた。「うちは、治すとは一言も言いません。見たい夢が見られる。それだけです」

長田は、若宮の横顔を見た。避難所でうなされていた子どものことを、思い出していた。

「欧州なら、それは通りませんよ」白髪の男は言った。「あちらでは、頭蓋の外から脳に電流を流す機械は、医療目的がなくても規制の対象です」

「知っています。だから、日本で売ります」

男の手元で、若い1人のキーを叩く音が止まった。

「では、事故は。夢の中で、1人でも目が覚めなかったら? 訴訟1件で、会社が飛びます」

若宮が答えるより早く、長田の口が動いた。

「覚めます」

3人の目が、一斉に長田に集まった。長田は唾を飲み込んだ。

「夢の中で何が起きても……落ちても、轢かれても、死んでも。体には何も起きません。目が覚めるだけです。そう作ってあります」

白髪の男は、しばらく長田を見ていた。それから、若い1人に目で合図をした。紙が2部、机の上に滑ってきた。

「タームシートです」

長田は紙を覗き込んだ。優先株式。残余財産優先分配権。買取請求権。日本語のはずなのに、1行も頭に入ってこなかった。

「5億、出します。評価額は、出資前で10億」

若宮は、紙を見なかった。

「出資前で20億です」

「試作機が1台。被験者はあなた方2人だけ。売上はゼロ。それで20億?」

若宮は上着の内ポケットから封筒を2通取り出し、机の上に置いた。封はされたままだった。

「ほかに2社から、出資前20億でタームシートを頂いています。期限は、明日の正午です」

長田は、その封筒を初めて見た。

白髪の男は封筒に目もくれず、紙をめくった。

「評価額は、いったん置きましょう。優先株の条件です。残余財産の優先分配は2倍、参加型。それと、経営株主への買取請求権」

若い1人が、補足するように言った。

「会社が売却された場合、まず当社に出資額の2倍をお返しいただき、その残りも、さらに持ち分に応じて分配します。また、契約に違反があった場合には、若宮さんに当社の株を買い取っていただきます」

長田には、それが何を意味するのか分からなかった。分かったのは、机の上の若宮の人差し指が、叩く寸前で止まったことだけだった。

「2倍の参加型は、やめましょう。1倍、非参加型で」若宮は言った。「あなたのためです」

「私のため?」

「この会社は、これから何度も金を集めます。次に入る投資家は、必ず、あなたと同じか、それより良い条件を求めます。2倍の参加型が何層も積み重なったら、会社を売るとき、最初に賭けたあなたの取り分が、後から来た人たちに食われる」若宮は、とん、と紙を叩いた。「最初の条件は、最後まで全員の基準になります。だから、最初は軽くしておいたほうがいい」

白髪の男は答えなかった。若い2人が、顔を見合わせた。

「買取請求権は」

「残します。ただし、僕が嘘をついたときだけです。故意か、重大な過失に限ってください」若宮は言った。「事業がうまくいかなかったというだけで、創業者に株を買い戻させる。そういう会社には、次の投資家も、次の社員も来ません。国のガイダンスにも、そう書いてあるはずです」

隣の弁護士が、初めて小さく頷いた。

白髪の男は、しばらく若宮を見ていた。

「取締役は」

「1人、お願いします」若宮は即答した。「僕が暴走したら、止める人がいる」

「最後に。あなたご自身は、この会社にいくら賭けているんです。お父上の会社から金を出さない理由は」

「親父の金が入れば、僕はいつまでも親父の息子です」若宮は窓の外の港を顎で示した。「この倉庫は、去年まで親父の会社のものでした。今は僕のものです。僕の名義で、銀行から借りて買い取りました。失敗したら、40まで、この港で荷を担いで返します」

会議室の誰も、笑わなかった。

白髪の男は、紙を閉じた。

「出資前20億で、5億。1倍の非参加型。買取請求は故意と重過失に限る。取締役は1名」男は立ち上がり、初めて口の端を上げた。「若いのに、交渉がうまい」

「交渉はしていません」若宮は手を差し出した。「倉庫屋の息子なんで。荷物の値段は、運ぶ前に決めておくんです」

部屋を出たとき、若宮の手には、5億円の約束と、開けられなかった封筒が2通あった。

エレベーターの中で、長田は言った。

「倉庫、買ったんですか」

「言ってなかったっけ」

「……さっき、怒ってましたか。若宮さん」

「俺が?」若宮は笑った。「金をくれる人に怒るわけないだろ」

長田は、それ以上聞かなかった。

その夜も、二人は倉庫の屋上でプリンを食べた。港の灯が、黒い水に揺れていた。若宮は、借金を返したら隣の倉庫も買うと言った。長田は、プリンのほかに、夢の種類を百本まで増やす方法を話した。二人とも、相手の話をほとんど聞いていなかった。それでも、話は途切れなかった。

◇

2037年

名前が決まったのは、公開の三か月前の夜だった。

会議室のホワイトボードに、宣伝担当が並べた候補が三十ほど書いてあった。どれも横文字で、どれも「ドリーム」か「スリープ」か「ワールド」のどれかを含んでいた。

若宮は、それを端から全部消した。白くなったボードに、大きく三文字書いた。

プリン

「名前は、これでいく」

会議室が静まり返った。

「最初の夢がプリンだった。子どもが一回で覚える。それに、プリンが嫌いな人間に、俺は会ったことがない」

宣伝担当が、商標が取れないと言った。技術者の一人が、海外では通じないと言った。経理の女が、投資家が怒ると言った。若宮はそのひとつひとつに、楽しそうに言い返した。プリンの商標なら誰も持っていない。通じないなら、通じさせればいい。投資家は、儲かれば名前なんか読まない。

一時間、誰も折れなかった。長田は会議室の隅で、それを黙って見ていた。若宮が本気なのか冗談なのか、五年一緒にいても、こういうときだけは分からなかった。

やがて若宮は、両手を挙げた。

「分かった。プリンは、最初の夢の名前にする」

それから、ボードを人差し指で、とん、と叩いた。プリンの文字の下に、アルファベットを五つ書いた。

LIVEN

「生き生きさせる、って意味だ。死んだみたいに眠ってる八時間を、生き返らせる」

宣伝担当が、ボードと若宮の顔を見比べた。それから、ゆっくりと頷いた。経理の女が、それなら投資家に説明できると言った。会議は、そこで終わった。

一人ずつ部屋を出ていき、最後に長田と若宮が残った。

「プリンは、本気でしたよね」

「半分な」

「LIVENは、いつから考えてたんですか」

若宮は答えずに、マーカーを取った。LIVENの下に、カタカナで四文字書いた。

リフジン

長田が見ている前で、若宮はイレーザーの角を「ジ」に当てた。字の本体だけを、慎重にこすり取っていく。肩の二つの点だけが、白いボードの上に取り残された。

若宮はその二つの点を指でなぞって消し、隣の「フ」の肩に、書き直した。

リブン

「読み方は、こっちが先だ」

長田は、しばらくボードを見ていた。

「理不尽から、死を抜いたんですか」

「そう」

「プリンの夢なのに」

若宮は、ボードから目を離さなかった。

笑っていなかった。今度は、一呼吸では戻らなかった。窓の外で、クレーンの灯が三度明滅した。

「長田くんは、握ってたんだろ」若宮が言った。「最後まで」

「……はい」

「俺は、離したんだ」

長田は、若宮の横顔を見た。何を、と聞こうとして、やめた。聞けば、若宮はまた笑うだろうと思った。

若宮はマーカーに蓋をして、長田のほうを向いた。白い歯が並んでいた。

「さ、これで名刺が刷れる」

◇

公開の日は、記録的な寒波の朝だった。

港に雪が積もるのは何十年ぶりだと、ニュースが繰り返していた。それでも会場の外には、夜明け前から列ができていた。列の大半は、コートの襟を立てた勤め人だった。今日のために休みを取ったのだと、前の男が隣の男に話していた。白い息が、列の上に雲のように溜まっていた。

舞台の上に、若宮が一人で立っていた。光を浴びて、白いシャツが眩しかった。客席は満員で、二階の手すりからも人が身を乗り出していた。最前列に、親に連れられた子どもたちが並んでいる。

長田は舞台袖の暗がりにいた。若宮に何度言われても、表には出なかった。

幕の陰から、カメラを抱えた男が近づいてきた。長田は顔を背けた。シャッターの音がした。もう一度背けた。

「あ、そこ」

マイクを通した若宮の声が、会場に響いた。客席の顔が、一斉に袖のほうを向いた。

「そこの袖に隠れてるのが、これを作った男です。写真はやめてやってください。写ると魂を抜かれるって、本気で信じてるんで」

会場が笑った。カメラの男も笑って、レンズを下ろした。長田は幕の奥へ、一歩下がった。

「彼が五年かけて作りました。僕は、銀行から金を借りてきただけです」若宮は客席を見渡した。「返せなかったら、来年は港で荷物を担いでます。見かけたら、声をかけてやってください」

会場が、また笑った。

「外、寒かったでしょう」若宮は、わざとらしく肩をすくめてみせた。「今夜から、寝ているあいだくらいは、南の島にいてください。山でも、海の底でも、月の上でもいい。百の夢から、見たい夢を選べます」

最前列の子どもが一人、身を乗り出した。

「プリンも?」

「プリンもだ」若宮は、その子を指さした。「食べ放題」

若宮が、演台を人差し指で、とん、と叩いた。背後のスクリーンに、五つの文字が浮かんだ。

「名前は、LIVEN」

若宮は、スクリーンの文字を振り返った。

「英語で、活気づける、生き生きとさせる、って意味です。」

若宮は客席に向き直り、両腕を広げた。

「僕らが盛り上げるのは、皆さんの夜です。liven up your night」

拍手が来た。波のように、客席の前から後ろへ、一階から二階へと広がって、会場の天井を叩いた。若宮は両腕を広げて、それを全身で浴びていた。

長田は、袖の暗がりで、自分の両手を見た。

右手と、左手を、一度だけ打ち合わせた。

鳴った。

その音は、拍手の中にまぎれて、誰の耳にも届かなかった。

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