手袋越しの熱
舞踏室の床は、いつ見てもよく磨かれていた。
高い窓から差し込む午後の光が、白い石床の上に長く伸びている。壁際には練習用の椅子が並び、部屋の隅には楽師が一人、舞踏のための曲を奏でるために控えていた。美しく滑らかな床、淡い光、整えられた空間、控えめに響く弦の音。舞踏というものは、本来、優雅、華やか、格式、そういった言葉と共にあるべきものなのだろう。
けれど今、私の頭の中にある言葉は一つだった。
痛い。
「カイエン殿下!」
「悪い!」
また踏まれた。
右足である。
なぜか殿下は、先ほどから私の右足ばかりを狙ってくる。もちろん、本人にそのつもりはないのだろう。だが、踏まれる側としては、もはや右足に個人的な恨みでもあるのではないかと疑いたくなる。
「殿下、ターンの時に半拍早いです。音より先に足が出ています。」
「音、ちゃんと聞いてるぞ。」
「聞いていることと、合わせることは別です。」
「難しいな、舞踏。」
「拍に合わせて動けばよいのです。」
「……剣なら相手を見て動くから分かるんだけどな。」
カイエンは不満そうに唇を尖らせた。
その様子は、まだどこか幼い。十三歳になっても、彼は興味のあることには一直線で、興味のないことにはすぐ顔へ出る。剣、馬、遠乗り、狩り、虫、肉の屋台。そういうものには目を輝かせるのに、礼法や舞踏となると途端に気持ちが床へ落ちる。目の前にいる相手の足も、時々一緒に床へ踏みつける。
私は痛む右足をそっと引きながら、壁際へ視線を向けた。
美しい少年が、壁を背にいつも通り静かに立っていた。なぜか彼の周りだけ空気が凛と澄むような気品が漂っている。
淡い金髪が午後の光を受けて、ほとんど白銀のように見える。手には本を持っていた。舞踏室にまで持ってくるあたり、本当に徹底していると思う。ただし、読んではいない。彼の目は本ではなく、私たちの足元を見ていた。
「ヴィルヘルム殿下。」
「はい。」
「何かお気づきの点はございますか。」
「カイエンは、三拍目で左肩が先に動きます。そのため、レベッカの右足の進路を塞いでいます。」
「なるほど。」
「あと、二度目の回転で視線が窓へ逃げます。」
「窓へ?」
「外で騎士が剣を振っています。」
私はカイエンを見た。
カイエンは気まずそうに目を逸らした。
「……見えてたから。」
「殿下。」
「少しだけだって!」
「舞踏中に騎士の剣を見るのはおやめください。」
「剣の方が面白いんだよ。」
「その本音を隠す努力をしてください。」
舞踏の教師が、扇で口元を隠しながら小さく咳払いをした。笑いを堪えているのか、胃を痛めているのかは分からない。どちらであっても、申し訳ないとは思う。
ヴィルヘルムは静かに言った。
「剣の型として考えれば、少しは覚えやすいかもしれません。」
「剣?」
カイエンの目が光った。
分かりやすい。
本当に分かりやすい。
「相手の足を踏むのは、味方の動線を潰すのと同じです。」
「味方の動線。」
「はい。相手の動きを妨げず、かつ自分の軸を崩さず、音の拍に合わせて位置を取る。剣の組み稽古と似ています。」
「なるほど。」
カイエンの顔が真剣になった。
剣に変換されると聞く。素直なのは美点である。入口が剣しかないのは問題だが、入口が見つかるだけましなのかもしれない。
「では、もう一度お願いいたします。」
私は手を差し出した。カイエンがその手を取る。音楽が始まる。
一歩。
二歩。
三歩。
今度は踏まれなかった。
「できた!」
「素晴らしいです、殿下。」
「だろ!」
「ただし、今のは舞踏であって、勝負ではございません。最後に勝った顔をなさる必要はありません。」
「勝っただろ。」
「何にですか。」
「足を踏まない戦いに。」
「……それは当然のことですが。」
カイエンはそれでも得意げに笑った。
その顔を見ると、少しだけ胸が緩む。単純で、明るくて、褒めるとすぐ伸びる。その素直さが、いつか彼自身をよい方向へ連れていってくれればいいと思う。
数日後、右足の甲に残っていた薄い痛みがようやく引き始めた頃には、カイエンは目に見えて上達していた。
悔しいほどに。
最初は私の足を踏み、音より先に動き、窓の外の剣へ気を取られていたというのに、身体の使い方を理解すると早かった。腕の高さ、歩幅、重心の移動、ターンの速度。どれもすぐ形になる。王子としての作法は怪しくても、運動に関する才能は本物だった。
「レベッカ、遅い。」
お前が言うのか。
私は心の中で思った。口には出さなかった。私は気配りのできる公爵令嬢である。
「殿下、素晴らしい上達です。短期間でここまで形にされるとは。」
「だろ。でも、お前、さっき遅れたぞ。」
「殿下。」
「なんだ?」
「褒め言葉は、受け取った後に相手へ投げ返すものではありません。」
カイエンは他意など全くない様子で目を瞬かせた。
「そうなのか?」
「はい。投げ返された側の心に刺さります。」
「なんかヴィルみたいだな。」
「私は刺しておりませんが。」
壁際から、ヴィルヘルムが静かに言った。
「……いつも刺さっています。」
「それは受け取り手の問題かと。」
「ほら、刺しています。」
私達のやり取りに、カイエンが声を立てて笑った。
ヴィルヘルムは、ほんのわずかに目を伏せた。笑ったのかもしれない。その表情に、私は少しだけ安心する。
最近のヴィルヘルムは、三人でいる時、ごく稀に表情を緩めるようになった。ほんの少し。よほどよく見ていなければ分からない程度だ。けれど、私には分かる。
分かるようになってしまった。
それが嬉しいのか、困るのかは、自分でもまだよく分からない。
「そういえば。」
カイエンが、突然ヴィルヘルムを見た。
「お前は踊らないのか?」
ヴィルヘルムの指が、本の頁の上で止まった。
「私は舞踏会へ出る予定はありません。」
「出ればいいだろ。母上も喜ぶぞ。」
「必要ありません。」
「お前、踊れないんだな。」
「カイエン殿下。」
私は咎めるように言った。カイエンは悪びれず肩をすくめる。
「だって、見てるだけなら何とでも言えるだろ。」
ヴィルヘルムは何も言わなかった。
言い返そうと思えば、いくらでも言い返せたはずだ。彼なら、十倍ほど正確にやり返せる。カイエンが二度と同じ言葉を使いたくなくなるほど、静かに刺すこともできる。
けれど、しなかった。
「私は必要ありません。」
ただ、そう繰り返した。
その声はいつも通りだった。静かで、整っていて、揺れがない。でも私は、少しだけ引っかかった。
決して踊れないからという理由ではない。
そんな気がした。
カイエンが休憩時間に入って中庭の方へ早速飛び出していくと、舞踏室には私とヴィルヘルムだけが残った。教師はカイエンを追って出ていった。正確には、休憩後の授業から逃げないように見張りに行ったのである。
午後の光は少し傾き、床に伸びた窓枠の影が長くなっていた。楽師は弓を下ろし、次の楽曲の楽譜をめくっている。扉の外からは、カイエンの明るい声と、それを諫める教師の声が遠く聞こえた。舞踏室の中だけが、急に広く、静かになったように感じられた。
「ヴィルヘルム殿下。」
「はい。」
「一曲だけ、私と踊ってください。」
彼はゆっくりと本から顔を上げた。
「必要ありません。」
「必要かどうかは、踊ってから考えましょう。」
「順序が逆です。」
「たまには逆でもよろしいかと。」
私は少し笑って、手を差し出した。
今回は掴まなかった。
ただ、彼の方へ差し出した。
昨年までの私なら、きっと手を取って引っ張っていただろう。練習しておいた方が良いとか、自分ももう少し練習しておきたいとか、何かしら理由をつけて手を握っていた。しかし、もうわざとらしい理由を付けなくとも、一緒に何かを楽しむくらいは近い位置にいるのだと、私は考えていた。
いや、そう考えたかったのかもしれない。
ヴィルヘルムは、私の手を見た。
長い沈黙だった。
部屋の外から、遠くカイエンの声が聞こえる。教師が何かを言い、侍従が小さく答える。楽師が指慣らしのように、低い音を一つ鳴らした。
ヴィルヘルムは、その音にほんのわずか目を動かした。
それから、少し戸惑いを残した手つきのまま、ゆっくりと私の手を取った。
手袋越しの指は、少し冷たかった。
「……足を、踏むかもしれません。」
「カイエン殿下の初日に比べれば、大抵のことは耐えられます。」
「比較対象が不名誉です。」
「事実ですから。」
「あなたも中々に辛辣ですね。」
「ヴィルヘルム殿下の影響では?」
「大変不本意です。」
楽師が、ゆっくりとした曲を弾き始めた。
私は一歩を踏み出した。
ヴィルヘルムの動きは硬かった。
だが、ひどくはない。むしろ、初めてにしては驚くほど正確だった。歩幅も、手の位置も、体の角度も、私とカイエンの練習を見て覚えていたのだろう。
やはり、踊れないわけではない。
ただ、硬い。
足元ではなく、扉の方を見る。窓の外を見る。壁際を見る。人の気配を拾うように、青い瞳が静かに動く。その目を見て、私はようやく少し分かった気がした。
舞踏は、ただ踊るだけのものではない。手を取られ、距離を詰められ、曲が終わるまで簡単には離れられない。終わった後には相手の笑みがあり、家名があり、探る言葉があり、柔らかく近づいてくる人々がいる。
王宮の中で、質子として連れて来られた隣国の王子という立場にある彼にとって、舞踏会で誰かの手を取ることは、ただ一曲を踊るというだけの意味では終わらないのだろう。
私はそれを言葉にしなかった。
言えば、彼は否定するだろうから。
だから、代わりに言った。
「ヴィルヘルム殿下。」
「はい。」
「今は、私を見てください。」
彼の足が、一瞬止まりかけた。
私はそのまま、ゆっくり次の一歩へ導いた。
「舞踏中に扉や窓ばかり見ていては、相手に失礼です。」
「……それは、そうですね。」
「はい。今は、私がお相手です。決して壁や窓ではございません。」
彼は少しだけ黙った。
それから、視線を私へ戻した。
青い瞳が、真正面からこちらを見る。
その瞬間、彼の動きが少し変わった。
まだ硬い。完璧ではない。けれど、先ほどよりずっと滑らかだった。足元を警戒するでも、扉を確認するでもなく、私の呼吸と歩幅に合わせてくる。手袋越しの手はまだ少し冷たかったが、指先に入っていた力が、ほんのわずかに抜けていくのが分かった。
手袋越しだから、本当の体温など分かるはずがない。
それでも、彼の手が少しずつこちらに慣れていく感覚だけは、確かに伝わってきた。
遠くの音が薄くなり、舞踏室の床に落ちた二人分の影が、曲に合わせて重なっては離れていく。窓の外の光は少しずつ傾き、白い床に細い金色の線を引いていた。
私は不意に、胸の奥が静かになるのを感じた。
不思議だった。
踊っているのに、走っている時よりも息がしやすい。
たぶん、彼が私を見ているからだ。
逃げるでも、避けるでもなく。
ただ、私を見ている。
曲が終わった。
ヴィルヘルムはすぐに手を離そうとして、少し遅れて止まった。慌てて離すことが、かえって不自然だと気づいたのかもしれない。彼は短く息を整え、礼をする。私も礼を返した。
「初めてとは思えませんでした。」
私が言うと、彼は目を伏せた。
「そう、でしょうか。」
「はい。少なくとも、カイエン殿下の初日とは比べものになりません。」
「比較対象が、やはり不名誉です。」
「では、言い直します。」
私は微笑んだ。
「お上手でした。」
ヴィルヘルムは、何も言わなかった。
ただ、耳のあたりが少し赤いような気がした。
いや、やはり光の加減かもしれない。
「舞踏会で困った時は、どうか私の名をお使いください。」
私は何気なく言った。
何気なく、言ったつもりだった。
「一曲、私と先約があるとおっしゃればよいのです。」
ヴィルヘルムは、私を見た。
その目が、ほんの少しだけ揺れた。
「あなたに迷惑がかかります。」
「迷惑ではありません。有益な運用です。」
「運用、ですか。」
「はい。私はエルヴェシア公爵家の娘で、カイエン殿下の婚約者です。少々便利ですので、使える時は使うべきです。」
「あなたは、自分の立場まで道具にしますね。」
「使えるものは、全部使いましょう。それが合理的です。」
彼は、しばらく私を見ていた。
その目に何があったのか、私はまだうまく読めなかった。驚き、呆れ、あるいは、困惑か。
けれど、そのどれとも少し違うような気がした。いつもならすぐに返ってくる言葉が、この時だけは少し遅れた。
やがて彼は、小さく言った。
「覚えておきます。」
「はい。是非に。」
その日の練習は、そこで終わった。
数日後の建国記念舞踏会で、ヴィルヘルムは大広間の端に姿を見せた。
誰とも踊らず、誰にも近づきすぎず、柱の陰に立っていた。けれども、以前のようにただ存在を隠すのではなく、華やかな音楽と人々の笑い声、白い手袋が差し出され、取られ、家名と挨拶と探るような視線が交差する大広間の中に、彼は静かに立っていた。
私はカイエンとの一曲を終え、王妃陛下へ礼をした後、自然と彼の姿を探した。
遠くから、目が合う。
ほんの一瞬。
私は小さく会釈した。
彼もまた、わずかに頭を下げた。
それだけだった。
音楽は続いている。人々は笑い、光は床に揺れ、白い手袋がいくつも差し出されては取られていく。
その中で、ヴィルヘルムは一度だけ、自分の右手を見下ろしていた。
まるで、手袋越しに残る熱を確かめるように。
私はその意味を、まだ知らなかった。
けれどその夜、彼は曲が三つ終わるまで、大広間を離れなかった。




