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馬は嘘を吐かない

 春から初夏へ移ろう頃の王宮は、白い石壁の上へ、日ごと濃さを増していく緑の影を落としていた。庭園を彩っていた春の花々はすでに盛りを越え、代わって木々の若葉が枝を覆い始めている。午後の光にはまだ春の柔らかさが残っているものの、風の中にはわずかに夏の匂いが混じり始めていた。


 王宮の北側まで回ると、人の声も少し遠くなる。騎士たちの訓練場から響く掛け声が風に乗り、時折、木剣の打ち合う乾いた音が聞こえてくる。そのさらに奥には厩舎があり、乾いた土と干し草、革、それから馬の体温を含んだ匂いが、開け放たれた戸口から流れていた。


 ヴィルヘルムが厩舎の場所を知ったのは偶然だった。


 以前、授業から逃げ出したカイエンをレベッカと二人で探して王宮中を歩き回ったことがある。その時、彼女が淡々と挙げていった「カイエン殿下が潜伏しそうな場所」の中に、この厩舎があった。

 結局、その日はここにはいなかった。干し草の裏も、馬具を置く小部屋も確認した後、レベッカは「では次です」と何事もなかったように歩き出した。


 けれど、その時に見た馬たちの姿が、なぜかヴィルヘルムの記憶に残った。

 それから時々ヴィルヘルムは一人でこの厩舎を訪れるようになった。


 しかし、厩舎といっても馬に乗るために来たわけではない。ただ馬を見ているだけだ。


 厩舎には王族や騎士たちが使う馬が並んでいた。

 どれもよく手入れされている。艶のある毛並み、穏やかに揺れる尾、干し草を噛む静かな音。鼻を鳴らし、蹄で床を掻き、気になる音がすれば耳を動かす。


 そこには、人間のような分かりにくさがなかった。


 言葉の裏に別の意図を隠さない。微笑みながら相手を値踏みすることも、親切の形をした何かを差し出すこともない。嫌なら耳を伏せる。怖ければ身を引く。安心していれば、ただ大人しくそこにいる。

 何かを疑うための防御も、傷つけられないための構えもなく触れられる温もりが、ヴィルヘルムにはどこか不思議だった。


 王宮に来てから、ヴィルヘルムはまだ一度も馬に乗っていない。アインシュヴァルトでは幼い頃から馬に乗っていたし、鞍の硬さも、馬の背に合わせて身体を揺らす感覚も、手綱から伝わる生き物の呼吸も、体はよく覚えている。


 だが、この国で自分から乗馬を望んだことはなかった。

 許可を求めれば、その理由を問われる。許可を得れば、それが誰かの好意や恩として形を持つ。

 隣国から来た質子である自分が何かを望む時、それはただの希望では済まなくなることがある。だから、ヴィルヘルムはただ時々厩舎を訪れては眺めるだけにしていた。


 目の前には、栗毛の牝馬がいる。額に細い白斑のある、穏やかな目をした馬だった。名はレーネというらしい。世話をしていた青年が、別の厩舎係に向けてそう呼んでいたのを聞いた。


 ヴィルヘルムがそっと首筋へ手を伸ばすと、レーネは少しだけ耳を動かし、それから彼の手の匂いを確かめるように鼻先を寄せた。

 馬は、人間のようにわざとらしく笑わない。探らない。優しい声で別の意図を隠したりもしない。

 温かい。厚い皮膚の下で血が流れ、細かな筋肉が動いている。


 ヴィルヘルムは何も考えず、その柔らかな首筋をゆっくりと撫でた。


「ヴィルヘルム殿下?」


 突然名を呼ばれ、ヴィルヘルムは内心僅かに動揺しつつ手を止めた。


 振り向いて視線を上に巡らせると、少し離れた王宮の二階の回廊にレベッカが立っていた。薄い青の昼用のドレス、編み込んで纏められた少し赤の混じった濃い褐色の髪には緑のリボンが添えられていた。手には何冊かの本を抱え、後ろには侍女が一人付き添っていた。


 今日は午後からまた三人で授業を受ける予定で、午前は確か王妃陛下との茶会があると昨日話していた。丁度終わったところなのだろうか。


「少し待っていてください。」


 こちらへそう声をかけると、レベッカは回廊の奥へ姿を消した。

 やがて北棟から外へ続く階段を降り、わずかに足を速めながらこちらへやって来る。王妃教育の最中なら決して見せない程度の、小さな急ぎ方だった。


「馬をご覧になっていたのですか?」


「はい、少しだけ。」


 初夏に近い、少し眩しいほどの日差しを受けて、亜麻色の瞳がいつもより明るく見えた。蜂蜜を薄く透かしたような柔らかな色が光を含み、こちらを見上げている。


 尋ねる声は穏やかで、姿勢はいつものように真っ直ぐだった。まだ十四歳だというのに、彼女は王宮のどこにいても、不思議とその場所に馴染んで見える。

 自分がどこに立つべきなのかを、いつも知っているようだった。


 レベッカはヴィルヘルムの手元へ視線を落とした。


「馬がお好きなのですか?」


 少女の何気ない問いに、ヴィルヘルムはすぐには答えられなかった。


 好き、という言葉は少し違う気がした。馬を眺める時間は確かに嫌いではない。だが、自分が馬を見る本当の理由は、言葉にするには酷く曖昧で、そして僅かな毒や隠すべき感情を多分に含んでいる。

 それでも、目の前の少女に対してなら、そのすべてを隠す必要もないともう理解していた。

 彼女はヴィルヘルムを害すことはない、勝手に評価することも、また貶めることもない。


「……馬は、嘘を吐きませんので。」


 少しの沈黙を挟んで、それだけ答えた。

 レベッカはやはりその言葉を笑わなかった。不思議がりもしなかった。ただ、彼の手の下で大人しくしているレーネへ視線を移し、小さく頷いた。


「確かに、その通りですね。」


 その返答に、ヴィルヘルムはほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。レベッカは自分の中にあるものだけで人を理解しようとはしない。そういうものとして受け入れて、ゆっくりと解くように自分の中に落としていく。彼女の学問に対する姿勢と一緒だ。

 王宮にいる人間は、たいてい何かを聞く時、その答えの裏側を探ろうとする。けれど彼女は、必要だと思われる時以外、こちらの奥へ無理に手を入れてこない。


「私も一緒に拝見しても?」


「手荒なことをしなければ、暴れることはありません。」


 レベッカは馬へゆっくりと近づいた。あくまで平然とした顔をしている。

 だが、ヴィルヘルムには彼女の重心がわずかに後ろへ残っているのが分かった。


 レーネもそれに気づいたのか、耳を少しだけ横へ動かし、レベッカの方を見る。

 レベッカはその動きに気づき、まるで課題に取り組んでいる途中に不意に質問を向けられた時のように、一瞬だけ固まった。


「馬は苦手ですか?」


 ヴィルヘルムが尋ねると、レベッカはわずかに目を細め、間を置いた。


「……苦手、というほどではございません。ただ、経験がないだけです。」


 いかにも彼女らしい答えだった。怖いとは言わない。苦手とも認めない。あくまで、経験が不足しているだけだと説明する。思わず口元が緩みそうになり、努めて何でもない表情を保った。

 ヴィルヘルムはそれ以上追及しなかったが、レベッカはしばらくじっと馬を見つめていた。整った眉の間に、小さな思案の影が落ちる。


「……実は先日、カイエン殿下に言われたのです。乗馬もできないのか、と。」


「カイエンが?」


「はい。特に他意はないのでしょう。……ただ、殿下はご自分ができることを、他の者もできて当然と思い込む節がありますので。」


 レベッカの声音は冷静だったが、最後のあたりにほんの少しだけ棘があった。


「……確かに今後のことを考えれば、馬に関する知識が全くないというのは不都合でしょうね。視察、遠乗り、騎士団との行事、領地巡察。自分で乗るかどうかは別として、最低限の理解は必要なのでしょう。」


「……それは、そうかもしれませんね。」


 レベッカは顎に手を当て、少し思案するように視線を下げた。


「カイエン殿下は座学より身体を動かす方がお好きです。もし午後の課程に乗馬を組み込めば、前段の勉学に少しは前向きになるやも……。」


 そう言うと、レベッカは侍女の方を振り向いた。


「王妃陛下へ文をお届けしたいので、紙と筆記具を。」


「今、でございますか?」


「はい。今です。」


 侍女は少し驚きつつも、慣れた様子で小さな筆記具を取り出した。レベッカは厩舎の外にある簡素な腰掛けに本を置き、その上に紙を重ねる。


「……『三日に一度、午後の課程に乗馬の時間を組み入れてはいかがでしょうか。カイエン殿下の気分転換にもなり、勉学への意欲も増すかもしれません。また、私自身も将来のために馬に慣れておく必要がございます。』」


 少女はヴィルヘルムに内容を共有するためか、口に出しながらさっとペンを滑らせていく。美しく整った文字が、白い紙の上を踊るように埋めていく。

 書き上げた書面をもう一度ざっと確認し、レベッカは満足そうに頷いた。


「ヴィルヘルム殿下、やはり見ているだけでは勿体ないです。知識と技能へ変換しましょう。」


 ヴィルヘルムは思わず目を瞬かせた。


 王妃陛下はその提案を面白がったらしい。数日後には、三人の午後の課程に乗馬の時間が加えられることになった。


 カイエンは最初から楽しそうだった。馬場へ着くなり目を輝かせ、厩舎係や騎士の説明を聞くより早く馬へ近づこうとして、何度も注意されていた。

 彼は馬に乗ると分かりやすく機嫌が良くなる。座学では魂を椅子に置き忘れたような顔をしているのに、馬上に上がると背筋が伸び、手綱を握り、明るい顔で馬場を進む。身体の使い方が素直なのだろう。騎士や厩舎係も、カイエンの運動能力の高さには感心していた。


 ヴィルヘルムも、久しぶりに馬へ乗った。最初は周囲の視線を警戒していたが、鞍の上へ身体を収めると、思っていたより自然に呼吸が戻ってきた。

 手綱の革の感触、馬の背の温度、歩くたびに鞍を通して伝わる筋肉の動き。王宮の床の上より、馬の背の方がずっと息がしやすい。

 風が前から当たり、視線が少し高くなり、遠くの木々の色が近づいたように見える。その感覚を、体は忘れていなかった。


 問題は、レベッカだった。


 彼女は事前準備だけなら完璧だった。馬への近づき方、乗り方、姿勢、手綱の持ち方、馬の視野、注意点。恐らく本も読んできたのだろう。厩舎係の説明を聞く時も真剣で、質問も的確だった。手順そのものは理解している。どこを持ち、どこへ足を掛け、どの順番で身体を上げればよいかも把握していた。


 だが、乗れなかった。


 正確には、乗るところまではできた。厩舎係と侍女の補助を受け、彼女は何とか馬上へ上がった。背筋は伸びている。だが、伸びすぎている。肩に力が入り、手綱を握る指は硬く、馬が一歩動いた瞬間、レベッカの表情は礼法の授業で身につけた微笑みを完全に捨て去り、無になった。


「レベッカ、顔が固いぞ。」


 カイエンが馬上から笑った。


「……ちがいます。集中しているのです。」


「怖いんだろ。」


「……今集中しているのです。話しかけないでください。」


「いや、絶対それは怖がってる顔だ。」


「でんかうるさいです。私はとてもしゅ、集中しているのです。」


 言葉の途中に馬の首が動き、レベッカの呂律が乱れた。

 同じ言葉を三度繰り返すあたり、かなり余裕がない。


 ヴィルヘルムはレベッカと馬の両方を見た。馬は悪くない。むしろ非常に大人しい。

 問題は、レベッカの緊張が馬へ伝わっていることだった。馬は彼女の硬さを感じ取り、少しだけ歩調を迷わせている。その迷いにレベッカがさらに緊張する。悪循環だった。


「馬は、人間より感情に敏いです。」


 ヴィルヘルムがそう言うと、レベッカが前を向いたまま、ほんの少しだけ顔を動かした。


「……では、私が少しだけ、ほんの少しだけ怖がっていることも伝わっているのですね。」


「恐らく。」


 レベッカは静かに深呼吸して、前を向いた。しかし、表情は硬いままだ。


「楽しい。私はきっと楽しめる。いや、楽しくなってきた。」


「何ですか?」


「自己暗示です。」


 声だけは落ち着いているのに、馬が二歩進むたび、彼女の肩は小さく跳ねた。

 結局、自己暗示とやらは余り効かなかったらしい。少女の顔は最後まで硬いままだった。


 そうして取り入れられた乗馬の授業だったが、最初こそ面白がっていたものの、乗馬が「授業」として組み込まれると、カイエンはやがて飽き始めた。

 好きに走れるならよいが、姿勢や手綱、歩法を細かく見られるのは面倒らしい。最初の数回は意気揚々と参加したものの、そのうち何かと理由をつけて逃げ出すようになってしまった。


 レベッカもまた、王妃教育の課程が増えるにつれ、毎回は来られなくなった。彼女は悔しそうにしながらも、「優先順位がありますから」と教師たちに手を引かれるようにして、乗馬から少しずつ離れていった。優先順位というならば、確かに王妃に乗馬は不要なのだろう。


 結果として乗馬の授業は数か月もしない内に無くなった。


 それでも、ヴィルヘルムだけは厩舎へ通い続けた。レベッカはヴィルヘルムがいつでも馬に乗れるようにと、いつの間にか王妃へ許可を取り、厩舎係にも話を通してくれていた。


 王宮の馬場は広いとはいえ、どこまでも続く草原ではない。白い石壁に囲まれ、決められた柵の内側を回るだけだ。それでも、馬の背にいる間だけ、ヴィルヘルムは自分の足で歩くより少し遠くへ行ける気がした。たとえ一周して同じ場所へ戻るだけだとしても、風は確かに頬を撫で、馬は確かに自分の意思で息をしていた。

 

 ヴィルヘルムは馬に乗るだけでなく、干し草を運ぶのを少し手伝い、厩舎番の老人に馬の癖を教わり、世話も覚えた。老人は無口だが腕のいい男で、ヴィルヘルムを隣国の王子としてではなく、馬の扱いが上手い静かな少年として見てくれた。余計なことを聞かず、必要な時だけ短く声をかける。その距離が、ヴィルヘルムにはありがたかった。


 何者であるかではなく、何をしているかだけで見られる時間は、ヴィルヘルムにとって非常に得難いものだった。



  ◇



 それから一年ほどが過ぎた。


 季節は再び春から初夏へ移り、王宮の馬場には乾いた土の匂いと、若葉を抜ける風があった。

 遠くの訓練場からは木剣の打ち合う音が聞こえ、近くの木々は濃い影を落とし始めている。馬場の柵は日差しに白く光り、その向こうに見える王宮の壁は、揺れる葉影を受けて淡く波打って見えた。


 ヴィルヘルムは、その日カイエンとの剣術の稽古の後、一人で馬に乗っていた。カイエンは疲れたから早めに昼食を取ると言って、室内に戻っている。


 今日の馬は黒馬だった。壮年の落ち着いた雄馬で、アベルと名付けられていた。

 黒い毛並みは、眩しい陽の光を受けて鈍く輝いていた。大きな体躯に似合わず足取りは落ち着いていて、手綱を取るたびにその穏やかな瞳がこちらを窺うように振り返る。歩を進めるたびに艶やかなたてがみがふわりと揺れ、黒曜石のような光を放った。

 ヴィルヘルムは、アベルを特に速く駆けさせるわけでもなく、また技の練習をさせるでもなく、ただ馬場をゆっくりと回っていた。歩調に合わせて手綱を緩めたり、軽く合図を送ったりしながら、馬の状態を確認していた時だった。


「ヴィルヘルム殿下。」


 呼ばれて、ヴィルヘルムは手綱を引き、アベルをゆっくり止めた。振り向くと、薄い若草色の外出用ドレスを着たレベッカが立っていた。髪はいつもより少し簡素にまとめられ、手には資料らしき束を抱えている。

 簡単な外出か視察か、終わらせて通りかかった折に偶然こちらを見つけて来てくれたのだろうか。


「レベッカ。」


 見られて困ることをしていたわけではない。けれど、馬上の自分を彼女に見られることは、なぜか少し落ち着かなかった。

 アベルが彼の小さな動揺を拾ったのか、耳を後ろへ向ける。ヴィルヘルムは無意識に首筋を撫で、馬を落ち着かせた。


「やはりお上手ですね。」


「……慣れているだけです。」


「それを上手と言うのではありませんか?」


「……そうかもしれません。」


 レベッカはしばらく彼とアベルを見ていた。それから、何かを思いついたように小さく頷く。


「綺麗な馬ですね。……私も、久しぶりに乗ってみようかしら。」


 ヴィルヘルムは少し黙った。


「今から、ですか?」


「はい。一年前よりは、私も成長しております。恐らく、多少は改善されているはずです。」


 その自信の根拠は、どこから来るのだろう。ヴィルヘルムは止めるべきか少し迷った。だが、レベッカの瞳は、すでに期待を孕んで琥珀色に輝いている。それを見て、ヴィルヘルムは静かに口を閉じた。

 厩舎番に頼み、アベルよりもさらに大人しい馬を用意してもらおうとしたが、レベッカは馬を見ながら続けた。


「この子では駄目でしょうか?」


「この馬ですか?」


「とても綺麗な黒馬ですね。ヴィルヘルム殿下にとてもよくお似合いです。」


 その言葉に、少し首元が熱くなる。彼女にとっては何気ない一言だったのだろうが、ヴィルヘルムは内心落ち着かない気持ちになった。表情には出ていないと思うが、静かに息を吐いて胸の内を整える。


「……アベルと言います。お乗りになるなら、手伝いましょう。」


 アベルも比較的大人しい馬だ。体躯は大きいが、少し乗るくらいなら問題ないだろう。

 ヴィルヘルムは鞍を整え、レベッカが乗れるように手伝った。


 レベッカは乗る前までは非常に理性的だった。裾を整え、手袋を確認し、馬へ近づく角度を確認し、手綱の持ち方まで復習していた。

 一年前と同じように手順は正しい。厩舎番も感心したように頷いていた。


 しかし、馬上へ上がった瞬間、彼女はまた固まった。


 背筋は伸びている。伸びすぎている。肩は硬く、視線は真っ直ぐ前を向いているが、真っ直ぐすぎる。

 手綱を握る指に余計な力が入り、アベルが一歩動く前から、すでに彼女は心の中で何かと戦っているようだった。


「……本当に、意外です。」


 ヴィルヘルムが思わず言うと、レベッカは前を向いたまま温度の無い声で答えた。


「私は頭を使う専門なのです。こちらは専門外です。」


「なるほど。自己暗示ではどうにもなりませんか。」


「……まだ覚えていらっしゃったのですね。」


 言葉はしっかりしている。だが、馬が一歩動いた瞬間、レベッカの肩が小さく跳ねた。

 ヴィルヘルムはその様子を見て、やはり危ないと判断した。


 アベルは賢い馬だが、乗り手の緊張には反応する。レベッカが怖がり、馬が迷い、その迷いでレベッカがさらに怖がれば、簡単に悪循環になる。


「……降りますか?」


「い、いいえ。ここで降りると、私は一年前から何も成長していないことになります。たいへん不本意です。」


「レベッカ。ここは意地を張るべきところではありません。明らかに安全上の懸念があります。」


「……それでは、馬の扱いに長けた殿下から見て、何か他にご指南いただける点はないでしょうか。」


 ヴィルヘルムはしばらく考えを巡らせた。レベッカは馬上で固まったまま、非常に真剣な顔をしている。恐らく、今の彼女の中では、恐怖と自尊心と合理性が複雑に協議しているのだろう。


 どうするべきか。その時、脳裏に思い浮かんだ提案に、内心鼓動が跳ねる。

 いや、これは特におかしい練習方法でもない。むしろ慣れない者を安全に馬に乗せるという点では、最も適切な案だろう。そう胸中で決して口を開いた。


「……私が、後ろで手綱を持ちましょうか。」


 レベッカがぎこちなくこちらを見た。亜麻色の瞳が揺れる。


「い、いえ、さすがにそこまでご迷惑をお掛けするわけには。」


「迷惑ではありません。今のままでは、あなたが怖がり、馬も迷い、余計に怖くなるだけでしょう。」


「……たしかに。」


「私が一緒に乗って、少し走らせましょう。馬に乗る楽しささえ覚えれば、恐怖も低減するかもしれません。」


「それは、合理的、ですね。」


 その言い方に、ヴィルヘルムは少しだけ頬を緩めた。

 レベッカは気付かないまま少しの間馬上で真剣に考え、やがて決心したように息を吐いた。


「では、お願いいたします。」


 ヴィルヘルムは頷くとアベルの横へ回り、鐙へ足を掛けた。一度身体を沈め、軽く鞍へ身を上げる。


 レベッカはヴィルヘルムの様子を見ながら、少しだけ目を細めていた。若干目元の辺りに朱色が乗っている気がするが、この陽気だ、少し暑いのかもしれない。

 ヴィルヘルムが首を微かに傾げると、レベッカはさっと視線を落とした。


「どうしました?」


「いえ、神の造形力の神髄を……何でもございません。」


 レベッカは小さく咳払いすると、前へ向き直った。


 ヴィルヘルムは彼女の後ろへ座った。馬上で完全に距離を取ることはできない。だが、必要以上に近づかないよう気をつけた。片腕をレベッカの横から前へ伸ばし、手綱を取る。肩にも腰にも触れない。ただ、落ちそうになった時に支えられる位置を保つ。


 レベッカの背中越しに、彼女の呼吸が分かった。緊張で浅い。馬が少し足踏みをするだけで、彼女の肩に力が入る。ヴィルヘルムは手綱を軽く整え、アベルにも届くような低い声で言った。


「馬は決してあなたを落とそうとしているわけではありません。息を止めないでください。」


「……止めては、いません。」


「大丈夫です。何かあっても後ろから必ず支えますから、安心してください。」


 レベッカは少し黙った。沈黙の中で、彼女が小さく息を吸う音が聞こえる。


「……分かり、ました。」


 その一言で、少しだけ場の空気が変わった。少女の肩の力が少し緩み、背中の線が僅かに弛んだ。


 しかし、それでも完全に恐怖が抜けきったわけではないのだろう。理屈で覆い、言葉で整え、姿勢で隠しているだけで、身体はまだ確かに怯えている。馬がそれを見抜くから、彼女は余計に困っている。


「大丈夫、少し歩くだけです。絶対に急がせません。」


 ヴィルヘルムはそう言って、アベルへ静かに合図を送った。


 黒毛の雄馬は、ゆっくり歩き出した。蹄が馬場の土を踏む音が、柔らかく続く。乾いた土がわずかに崩れ、鞍の下で馬の背の筋肉が規則正しく動く。レベッカの身体がその揺れに合わせきれず、最初は少し硬く跳ねた。ヴィルヘルムは手綱を短く持ちすぎず、アベルの首の動きを妨げないようにしながら、歩調を一定に保つ。


 馬場の周囲には若葉をつけた木々が並び、風が吹くたびに葉裏の淡い色がちらちらと光った。柵の向こうには王宮の白い壁があり、窓には午後の空が映っている。遠くから初夏を告げる鳥の囀りが響き、王宮の庭園からか、微かな花の香りが流れていた。初夏の前の柔らかな風が、馬上の二人の間を通り過ぎる。


 レベッカの呼吸は、最初は浅かった。けれど、アベルが数歩、また数歩と進むうちに、少しずつ長くなっていく。まだ怖いのだろう。肩にも力が残っている。それでも、先ほどよりは随分ましだった。ヴィルヘルムはその変化を、手綱越しと背中越しに感じていた。馬もまた、乗り手の緊張がわずかに緩んだことを感じたのか、歩調が安定する。


「……少しだけ、分かってきた気がします。」


 レベッカが小さく言った。


「何がですか?」


「馬が、私を振り落とそうとしているわけではないということです。」


「最初からそう言っています。」


「頭では理解していました。」


「体は?」


「只今、協議中です。」


 ヴィルヘルムは今度こそ少しだけ笑った。声には出なかったが、レベッカにも背後の空気がわずかに緩んだのが伝わったのかもしれない。振り向こうとして、しかし馬上でそれをする勇気はまだないのか、僅かに首を動かしただけで諦めた。


 馬場の半分を過ぎた頃、少し強い風が吹いた。

 木々の葉がざわりと揺れ、間を抜ける風が僅かに高い音を立て乾いた砂を巻き上げる。場外の低い草地が水面のように波打っては影と日差しを重ね、躍らせていた。


 レベッカのいつもより簡単にまとめられた髪から幾筋か零れた髪が頬にかかった。

 彼女はそこで髪の乱れに気付いたように顔を上げ、少し姿勢を整えた後、片手を首裏に当てる。それから暫し迷った後、リボンをそっと引き抜いた。


 ふっと髪が解ける。


 整髪に使う香油の香りだろうか。柔らかい体温の混じった淡い薔薇の香りが鼻先を掠めた後、少女の若草色のドレスの背に、長く艶やかな褐色の髪が広がった。

 少し癖のある濃い赤褐色の髪が、細い背を隠しながら、時々風を受けてふわりと舞う。


 いつも確りとまとめられ整えられている髪が、今だけは何も手を加えられることなく、陽の光を受ける度に、赤や金の色を細く混じらせながらひどく美しい色を返していた。


 ヴィルヘルムは思わず口を閉ざし、目の前の光景を半ば呆然と見詰めていた。

 先ほど少女に対し、息を止めるなと言ったことを、身体が苦しくなってきてようやく思い出し、気付かれないようにそっと深く息を吸った。


 そこでまた薔薇の香りが胸に入った気がして、鼓動が早くなる。首元どころか頬や耳まで熱を持っている気がして、ヴィルヘルムはレベッカが気付かないことを切に願った。


「風が、近い気がします。」


 レベッカのどこか静かな声に、思考が止まる。


 彼女は真っ直ぐに前を向いていた。


 馬上では、普段より視線が高い。いつもは見えない王宮の庭園の先の小さな木立まで望むことができた。

 ただ、そちらを見ているというよりは、どこか少しぼうっとした様子で見るともなしに眺めているようだった。


 風がもう一度強く吹いた。


 解かれた少女の長い褐色の髪が遊ばれて、自由気ままに宙を舞った。


 細い背が眼前に映る。張り詰められた姿勢も態度もそこにはなかった。

 今だけは、将来の王妃候補でも、公爵令嬢でもなく、ただの十五歳の少女が目の前にいるようにヴィルヘルムには感じられた。


 急に何もかもが遠くなるような感覚に包まれ、静かに手綱を握り直す。


「……慣れると、もっと遠くまで見えますよ。」


「遠く、ですか。」


「はい。」


 なぜか、その言葉が、二人の間に少しだけ残った。


 手綱を握っているのはヴィルヘルムだった。

 けれど、行き先を決める権利はどこにもない。


 この馬場を一周すれば終わる。レベッカは王妃教育へ戻り、自分は王宮の中へ戻る。

 彼女は第一王子の婚約者で、自分は十年が過ぎるまでこの国を出ることもできない質子だ。


 馬は歩いている。風は吹いている。手綱は自分の手の中にある。


 それなのに、どこへも行けない。


 それでも一瞬だけ、考えてしまった。


 ――このまま馬を走らせて、彼女とどこか別の場所へ行けたなら。


 王宮の外へ。役割も、婚約も、国も、人の視線も届かない場所へ。馬が嘘を吐かないように、自分も何も偽らなくていい場所へ。彼女が第一王子の婚約者ではなく、ただレベッカでいられる場所へ。自分が隣国の質子ではなく、ただヴィルヘルムでいられる場所へ。


 在りもしない道も、未来も、残酷でしかない。望むことは、悲劇であり、苦しみの果てに絶望しか生まない。


 だから、ヴィルヘルムは手綱を緩めなかった。アベルを走らせることもしなかった。ただ、ゆっくりと馬場を一周させた。


 一周が終わる頃には、レベッカは大分馬上に慣れていた。ヴィルヘルムが静かに合図を送ると、アベルは厩舎番の近くで立ち止まる。


 先に馬から降り、レベッカへ手を差し出す。レベッカはその手を一瞬見た後、素直に取った。手袋越しの指先は、それでもなぜか少しだけ温かく感じた。


 地面に足がついた瞬間、レベッカはほんの少しだけ顔に安堵を浮かべる。それから、すぐに気を取り直したようにすっと背筋を伸ばした。


「……馬は、思っていたより高いですね。」


「嫌でしたか?」


「いえ、楽しかったです。……とても。」


 少し沈黙が落ちた。


 レベッカはアベルの方を見る。先ほどまで怖がっていた相手に対して、どこか申し訳なさそうな顔をしていた。

 やがて彼女はゆっくり手を伸ばし、アベルの首へ触れる。馬は逃げなかった。大人しく鼻を鳴らし、彼女の手を受け入れる。


 レベッカは微笑みながら小さく息を吐いた。


「少しだけ、分かりました。」


「何がですか?」


「……馬は、嘘を吐かないのですね。」


 ヴィルヘルムは思わず彼女を見た。


 一年前、自分が言った言葉だった。レベッカはそれを覚えていた。彼女はこちらを見て、少し困ったように小さく笑った。


「……はい。」


 ヴィルヘルムは、なんとかそれだけ答えて、侍女に髪を直され、王妃教育に向かう彼女を見送った。


 その日以降も、レベッカが厩舎へ来ることは殆どなかった。彼女は将来の王妃であり、ヴィルヘルムは王宮という檻に閉じ込められた質子だった。あの日のように馬場を一周する機会も、もう訪れることはなかった。


 それでも、馬場を一周した時の風の音、背中越しに聞こえた彼女の呼吸、美しく自由に舞っていた髪だけは、ヴィルヘルムの中にはっきりと残り続けた。


 少女を乗せ、手綱を握っていたのは確かに自分だった。


 けれど、どこへも行けなかった。


 そのことだけが、ひどく静かに胸へ残っていた。

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