森のピクニック
それは、王妃陛下からの褒美だった。
日頃の勉学に励んでいること、そして何より、カイエンを机に座らせるために私とヴィルヘルムがそれなりに尽力していることを、王妃陛下はよくご存じだったらしい。
ある日の茶席で、王妃陛下は穏やかに微笑みながら、王宮近くの森で半日ほど過ごしてはどうかと提案なさった。
王宮近くの森、と言っても、王家の管理下にある安全な場所である。整えられた小道があり、見晴らしのよい草地があり、近くには騎士が控え、侍女たちも必要なものを用意する。世に言う冒険とはかなり違う。
だが、王宮の中で授業と茶会と礼法に囲まれて過ごす私たちにとっては、それでも十分に特別だった。
今思えば、王妃陛下はカイエンの気晴らしだけではなく、私とヴィルヘルムが時折、子供らしく休むことを忘れていることまで、恐らく見抜いていらしたのだろう。
私は王妃教育に、ヴィルヘルムは隣国の王子という立場に、そしてカイエンはカイエンなりに王族の退屈な日常に、それぞれ押し込められていた。
だから半日だけでも、壁と天井のない場所に連れ出そうとしてくださったのかもしれない。
もっとも、カイエンは王妃陛下の提案を聞いた瞬間から、そういった細かな思惑など一切気にしない顔で目を輝かせた。
「森か! 冒険だな!」
「王宮管理地ですので、冒険という程の危険はございません。」
「つまんない言い方するなよ、レベッカ。」
「正確な言い方です。」
カイエンは不満そうにしたが、それでも楽しみな様子は隠しきれていなかった。翌日には、剣を持っていってよいか、馬で行けるか、森の奥まで入れるか、川はあるか、大きな虫はいるかと従者相手に次々に質問をしていた。
虫、という言葉に私は少しだけ嫌な顔をしたが、カイエンは気づいていない様子だった。
当日、森は春の光に満ちていた。
まだ空気にはわずかに冷たさが残っていたが、もう冬の鋭さではない。木々の枝先には柔らかな若葉が開き始め、足元には小さな花が散っている。風が吹くと、草の匂いと湿った土の匂いが混ざって届いた。王宮の庭園とは違う、少し荒く、けれどずっと生きている匂いだった。
用意された草地には、厚手の敷物と小さな卓、軽食の入った籠、温かい茶の入った器が並べられていた。少し離れたところには騎士が控え、侍女たちは木陰で待機している。完全に子供たちだけというわけではない。
けれど、王宮の室内よりずっと空が広く、視線も声も遠かった。
「よし、行くぞ!」
カイエンは到着してすぐ、騎士を数人連れて森の奥へ向かってしまった。
「殿下、遠くへ行きすぎないようにしてください。」
「分かってるって!」
「分かっている方の返事ではございません。」
「はいはい!」
返事だけは良かった。
私はその背を見送り、早々に追いかけることを諦めた。騎士もついている。王宮管理地でもある。何かあればすぐ戻されるだろう。何より、今日は王妃陛下からの褒美である。カイエン捕獲任務を全面的に遂行する日ではない。
私はそう自分に言い聞かせ、持ってきていた本を膝の上に広げた。
隣を見ると、ヴィルヘルムは少し離れた木に手を着いて、カイエンの向かった森の奥の方を見るともなしに眺めていた。
いつも通り静かな顔をしている。けれど、よく見ると顔色が少し悪い。目の下にも、ほんのわずかに疲れが滲んでいた。
「ヴィルヘルム殿下。お疲れですか?」
「いえ。」
返事がやけに早かった。私はじっと探るように少年を見詰める。
ヴィルヘルムの目が少しだけ伏せられた。
「……少し眠いだけです。」
「珍しいですね。寝不足ですか?」
「……少しだけ。」
少しだけ、という言葉は信用できなかった。
ヴィルヘルムは、体調の悪さや疲れをあまり表へ出さない。疲れていないのではなく、疲れていることを見せるのが得意ではないのだと思う。あるいは、見せるべきではないと身に染みているのかもしれない。
「少し横になられては?」
「問題ありません。」
「そうは見えませんが。」
「お気遣いなく。」
静かな反撃だった。
私は少しだけ眉を上げたが、反論はしなかった。こちらにも覚えがある。体調が悪い時ほど、心配されると余計に意地を張ってしまうことがある。弱っていると認めた瞬間に、本当に弱ってしまうような気がするのだ。
ヴィルヘルムは、やがて木の根元に腰を下ろした。背を幹へ預け、本を開く。けれど、頁はほとんど進んでいないように見えた。
私は少し気になったが、疲れているところに無理に話しかけて気を遣わせるのも悪いかと思い、また自分の本へ視線を落とした。
今日持ってきたのは、北部三大民族の古代語に関する書物だった。最近、王妃教育の課題で、本国と北部民族の関係について調べる機会があり、どうにも二次資料だけでは物足りなくなってきていた。ならばいっそ、一次資料を読めるようになればよい。そう思って、基礎語彙と文字体系から手をつけ始めたところである。
文字は面白い。
人は土地を離れても、言葉の中に土地を残す。支配されても、同化しても、交易で変わっても、古い文字や言い回しの中に、その民族が何を大切にしていたかが残る。私はそういうものが好きだった。
頁をめくる。
春先の風が静かに草を撫でる。ざわりと波のように緑が陰影を刻みながら揺れた。手元の本に、木々の葉の間から漏れる光が、模様を描きながら影を躍らせる。
遠くでカイエンが騎士を呼ぶ声が微かに聞こえた。どうやらまた何かを見つけたらしい。騎士がそれを止める声も聞こえる。元気で何よりである。
ふと視線を上げると、ヴィルヘルムが目を閉じていた。
木にもたれたまま、静かに眠っている。
珍しい。
いや、珍しいどころではない。ヴィルヘルムが人前で眠るところなど、初めて見たかもしれない。
彼は、眠っていても綺麗だった。淡い金色の髪が木漏れ日を受け、白銀に近い色を帯びている。伏せられた睫毛は長く、頬には疲労の白さが残っていた。けれど、眉間の緊張が少しだけ緩んでいる。
いつも何かを警戒し、見て、聞いて、考えている彼が、ほんの短い間だけ外界から離れているように見えた。
眠っている彼は、いつもより少し幼く見えた。隣国の王子でも、質子でも、カイエンのお目付け役でもなく、ただ昨夜よく眠れなかった十二歳の少年に見えた。
そう思うと、起こすのが少し可哀想になった。
私は本へ視線を戻そうとして、少し迷った。
木にもたれた姿勢のまま眠るのは、首が痛くなりそうだ。
しかも、だんだん頭が横へ傾いている。
これは倒れる。
たぶん倒れる。
私は本を閉じ、そっと立ち上がった。
声をかけて起こすべきかとも思ったが、あまりに眠そうだった。せっかく眠れたのに、起こすのは気の毒である。かといって、このまま横へ倒れて地面に頭をぶつけるのも困る。
ならば、先に倒しておけばよい。
私はそう判断した。
慎重に近づき、ヴィルヘルムの肩が完全に傾く前に受け止める。思ったより軽い。いや、同年代の少年としては普通なのかもしれないが、普段の彼の落ち着きから考えると、体の線がまだ細いことに少し驚いた。
私は敷物の上へ腰を下ろし、彼の頭を膝の上へそっと誘導した。
よし。
これで倒れない。
私は満足し、本を再び開いた。
◇
ヴィルヘルムは、全く頭に入ってこない本の文字を何となしに眺めながら、溜息をかみ殺した。
その前夜、久しぶりに部屋に手を加えられた。
レベッカやカイエンと共に一日の履修を終えて部屋に戻ってみれば、寝具が水浸しになっていた。こういう少しばかり幼稚で陰湿な嫌がらせの場合、大体人を呼んでも来ないことは、もう理解している。
暖炉の方を見ると、やはりそちらにも水を掛けられていた。
部屋の中をざっと確認すると、長座椅子は無事だった。
明日はカイエンとレベッカと共に森へ出なければならない。少しでも休んだ方がいいことは分かっていた。
長椅子に体を横たえ、衣類棚から取り出した大きめの外套を被る。しかし春先と言っても、まだ夜は冷える。暖炉に火も入れられない状態では寒さもあり、なかなか寝付けなかった。
何度も寝返りを打ち、眠ったのか眠っていないのかよく分からない浅い意識の切れ目を繰り返し、いつの間にか窓の外がぼんやりと白み始めたところで、諦めて体を起こした。
眠る場所があることと、眠ってよい場所があることは違う。
この王宮に来てから、ヴィルヘルムは何度もそう思った。寝台があれば眠れるわけではない。部屋に鍵があれば安心できるわけでもない。目を閉じた瞬間に何かが起こるのではないかと考える場所では、体は横たわっていても、意識のどこかがずっと起きたままになる。
そうして迎えた翌日の外出だった。
春の温かい光を帯びた森は、否応なく眠気を誘ってくる。風は冷たすぎず、日差しも強すぎない。遠くではカイエンの小さく叫ぶような声が聞こえていた。
そっと視線を上げると、子供たちの休息を邪魔しないように離れたところで待機する騎士と侍女たちの姿が見える。
それから、向かいの木の袂に座り、静かに本を捲る少女に目を遣る。
レベッカは本に集中していた。周囲への注意を完全に解いているわけではないが、それでも彼女のそばには奇妙な静けさがある。
少なくとも彼女の近くにいる限り、自分に悪意を持って近づいてくる者はいない。それに、事情を知る彼女が、勝手にこの場を離れることもないだろう。
王室の清掃担当は日によって変わる。さすがに今日は濡れた寝具が片付けてあることを願いたいが、もしもの可能性もある。可能な時に少しだけでも体を休ませておいた方がいい。
少しだけ。
そう思って、目を閉じた。
しばらくして、ヴィルヘルムは花の香りで目を覚ました。
いや、正確には、目を覚ましかけた。
甘い花の匂いがした。草の匂いと、紙の匂いと、ほんの少しだけ人の体温の匂いが混じっている。頭の左下には柔らかいものがあった。
寝ぼけたまま少し動くと、鼻先にまた何か柔らかなものが触れた。
おかしい。
体が横になっている。
何かあったのか。
ヴィルヘルムは目を開けた。
目の前に、濃い緑の生地があった。視線を少しずらすと、布の向こうに緩やかな起伏があり、その上に分厚い本の背表紙が見えた。
『北部三大民族古代語の発展と衰退』
静かに頁をめくる手。
ヴィルヘルムは数秒、状況を理解できなかった。
そして、理解した瞬間、全身の血が一気に動いた。
自分は、レベッカの膝の上に頭を乗せている。
身じろぎに気づいたのか、本が少し持ち上げられた。
「起きましたか?」
レベッカの亜麻色の瞳が、上からこちらを見下ろしていた。
春の光を受けて、その瞳はいつもより柔らかく見えた。近い。近すぎる。なぜこれほど近いのかは、もう分かっている。分かっているからこそ、処理が追いつかない。
「あれ。顔が赤いですね。もしかして熱がありますか?」
そう言って、彼女は何のためらいもなく額へ手を伸ばした。
温かな指先が肌に触れる。
ヴィルヘルムは、反射的に体を起こした。
起こしたというより、跳ね起きたに近い。距離を取る。しかし、慌てすぎたせいで一瞬だけ姿勢が崩れた。何とか整える。呼吸を落ち着ける。表情には何も出さない。出ていないはずだ。たぶん。そうでなければ困る。
「すみません、倒れそうだったので、先に倒しておきました。」
レベッカは、何でもないことのように言った。
先に倒しておきました。
意味は分かる。
分かるが、言い方がおかしい。
「……いえ。こちらこそ、ご迷惑をお掛けいたしました。」
この時ばかりは、自分の表情筋に心から感謝した。
内側では、言葉にならないものがかなり動いていた。驚き、羞恥、安堵、混乱、そしてそれらとは別の、まだ名前をつけるべきではないもの。だが、顔はたぶん動いていない。たぶん。
「体調は大丈夫ですか? 侍従を呼びましょうか。」
「いえ。寝不足なだけです。」
「そうですか。」
レベッカは、それ以上深く聞かなかった。
聞こうと思えば聞けたはずだ。なぜ寝不足なのか。何かあったのか。彼女はそういうことに気づく人だ。けれど、ヴィルヘルムが自分から言わないことに、深くは踏み込まない。
彼女は少し首を傾げた後、小さく頷き、本を開き直した。
その距離の取り方が、少しありがたかった。
ヴィルヘルムは、まだ胸のあたりが落ち着かないまま、彼女を見た。
外出用に一つにまとめられた髪。白いうなじ。膝の上で開かれた分厚い本。さっきまで自分の頭が乗っていた柔らかな場所。
見てはいけない。
そう思うほど、視線が引っかかる。
「どうしました?」
レベッカがふとこちらを見た。
ヴィルヘルムは一瞬、言葉を失った。
何も言えないでいると、レベッカは「ああ」と合点がいったように本の表紙を見せた。
「これですか? 今、北部民族に対する本国の対応について課題が出ておりまして。こちらは直接領土を接しているわけではないので、二次資料が少ないのです。もういっそ言語を習得して、直接一次資料に当たろうかと。」
そちらだと思われた。
助かったような、助からなかったような気持ちになった。
「……良い判断だと思います。」
「良いとは?」
レベッカの目が、すぐに学問の方へ向いた。
切り替えが早い。
ヴィルヘルムは少しだけ息を整えた。こういう話ならできる。こちらの方がずっと扱いやすい。
「北部では現在、輸出入の拡大に備え公的書類から旧字体や古語の字体を減らす議論が出ています。今後街道と港の整備が進めば、交易を優先する動きがさらに強くなるでしょう。」
レベッカの瞳が輝いた。
「では、古典の二次資料は今後ますます少なくなりそうですね。」
「はい。その分、古い文献を読める者の価値は上がると思います。」
「需要そのものは限られるので、学者か実務者のみが残るでしょうね。」
「恐らく。」
「では、習得できれば私の王妃としての価値がますます上がりそうですね。」
当然のように言う。
自分がその言語を習得し、一次資料を読み、北部民族との交渉や文化政策に役立てる未来を、彼女はもう見ている。努力すれば届くと信じている。届くまでやるつもりでいる。
その強さに、ヴィルヘルムは一瞬だけ眩しさを感じた。
「……ご理解の通りで正しいと思います。」
「では、このまま続けてみます。」
「ただ、文法体系が南部語とはかなり異なります。最初は音韻変化の規則から入った方がよいかもしれません。」
「なるほど。では、次にそれを探します。」
「王宮図書室に、比較音韻の薄い冊子があったはずです。」
「殿下、なぜご存じなのですか。」
レベッカが不思議そうに瞬きをして、微かに首を傾ける。
「見かけました。」
「見かけただけで覚えているのですか。」
「棚の位置は。」
「さすがです。」
レベッカが笑った。
その笑みを見て、ヴィルヘルムはまた少しだけ胸の奥が熱くなるのを感じた。だが今度は、さきほどのような混乱ではなかった。もっと静かで、もっと深い場所に落ちていくようなものだった。
レベッカの隣では、言葉が速すぎると責められない。余計な知識だと笑われない。冷たいとも、可愛げがないとも言われない。ただ、話が進む。彼女は当然のように受け取り、考え、返してくる。
そのことが、ヴィルヘルムには少し不思議だった。
そして、不思議なほど心地よかった。
その時だった。
「なあ! ヴィル! レベッカ!」
森の奥から、カイエンの声が響いた。
かなり大きい声に、小鳥が数羽、枝から飛び立った。
「すんげえでっけえ蜘蛛いた!」
レベッカの肩が、びくりと揺れた。
「ひいっ。」
小さな悲鳴だった。
ヴィルヘルムは初めて聞く種類の声だったので、思わず彼女を見た。レベッカは本を抱えたまま固まっている。顔が青い。先ほどまで北部古代語と王妃としての価値について語っていた人と同じ人物とは思えない。
レベッカが怯える、という事態を、ヴィルヘルムはこれまで一度も想定したことがなかった。
カイエンが、木々の間から駆けてくる。
その手には、枝が握られていた。
そして、その枝の先に、確かに大きな蜘蛛がいた。
大きい。
かなり大きい。
ヴィルヘルムは虫に特段の恐怖はなかったが、レベッカの反応を見るに、これは相当まずいのだろうと判断した。
「カイエン、今すぐそれを捨ててください。」
「なんでだよ、すごいだろ!」
「レベッカが怯えています。」
「え、レベッカ、蜘蛛怖いのか?」
「こ、こちらへ、近づけないでください……!」
レベッカの声が震えていた。
珍しい。
いや、観察している場合ではない。
「カイエン、止まってください。」
ヴィルヘルムがそう言った瞬間、カイエンの足が木の根に引っかかった。
「あ。」
短い声。
次の瞬間、カイエンは前へつんのめった。
枝が手から離れる。
蜘蛛が宙を舞った。
妙にゆっくり見えた。
黒っぽい脚が広がり、春の光の中を弧を描いて飛んでいく。
向かう先は、レベッカだった。
「いやああああああああっ!」
森に、絶叫が響いた。
騎士たちが一斉に振り向き、侍女が悲鳴を上げ、カイエンが地面に転がったまま「ごめん!」と叫び、ヴィルヘルムは反射的にレベッカの前へ出ようとして、彼女が自分の後ろに隠れるより早く本を盾のように掲げているのを見た。
蜘蛛は、幸いにも彼女には届かなかった。
少し手前の草の上に落ち、何事もなかったかのように逃げていく。
だが、レベッカはしばらく固まっていた。
顔は青い。
目は潤んでいる。
手には『北部三大民族古代語の発展と衰退』が、盾のように握られている。
「カイエン殿下……。」
その声は低かった。
非常に低かった。
カイエンが、地面に座ったまま後ずさった。
「わざとじゃない!」
「当たり前です。わざとでしたら、今頃わたくしはあなたを本で殴っています。」
「それ痛いのか?」
「……体験なさいますか?」
「ごめん!」
カイエンは素直に謝った。
レベッカはまだ少し震えていたが、やがて深く息を吸い、ゆっくり吐いた。
「……蜘蛛は、今後、私の半径十歩以内へ持ち込まないでください。」
「分かった。」
「枝につけても駄目です。」
「分かった。」
「見せようとしないでください。」
「分かったって。」
レベッカが目を潤ませながら、眉を顰めカイエンをじっと見遣る。
「殿下の分かったは、大体分かっていません。」
「今回は本当に分かった。」
「その言葉も、過去に何度か聞いております。」
「本当に本当だって。」
「では、二度と蜘蛛を持ってこちらへ走らないでください。」
「分かった。蜘蛛は走って持ってこない。」
「歩いても駄目です。」
「……分かった。」
そのやり取りを聞きながら、ヴィルヘルムはそっと息を吐いた。
先ほどまでの静かな時間は、完全に終わっていた。
膝の柔らかさも、花の香りも、北部古代語の話も、すべてカイエンと蜘蛛によって吹き飛ばされた。
けれど、なぜか不快ではなかった。
レベッカは本を抱え、まだ少し青ざめた顔でカイエンを睨んでいる。カイエンは転んだ膝を払いつつ、申し訳なさそうにしながらも、どこかまだ蜘蛛の大きさを誰かに話したそうにしている。
騎士と侍女たちはようやく状況を理解し、安堵と困惑の入り混じった顔をしていた。
ひどく騒がしい。
ひどく落ち着かない。
それが、ヴィルヘルムには少し眩しかった。
春の森は、何事もなかったかのように明るかった。若葉の間を風が抜け、遠くで鳥が鳴き、草の上には先ほどの蜘蛛がもう見えなくなっていた。レベッカはまだ少しだけ涙目で、本を胸に抱えたまま、カイエンへ説教を続けている。
その横顔を見ながら、ヴィルヘルムは思った。
彼女にも、苦手なものがある。
怖いものがある。
完璧ではない。
そのことが失望ではなく、なぜか安堵として胸に落ちた。
レベッカは、何でもできる人間ではない。何も怖がらない人間でもない。完璧な王妃候補という言葉だけで片づけられる存在ではない。知識を求め、言葉を選び、カイエンを叱り、蜘蛛に怯え、本を盾にして震える少女だった。
その当たり前の事実が、なぜかとても大切なことのように思えた。
同時に、もう二度と彼女の前に蜘蛛を近づけてはならないと、ヴィルヘルムはかなり真剣に心へ刻んだ。




