その手は、悪意を持っていなかった
ヴィルヘルムが一番古い記憶として覚えているのは、母が長兄へ、もうすぐ戦争が始まるかもしれないと説明している場面だ。
母の声は静かだった。取り乱してはいなかった。王妃として、王太子である長兄へ伝えるべきことを伝えている声だった。けれど、その手は椅子の背を少しだけ強く握っていたし、長兄の顔はいつもより硬かった。
幼いヴィルヘルムは、その会話の意味を正確に理解していたわけではない。ただ、部屋の空気がいつもと違うことだけは分かった。窓の外の光も、母の衣擦れの音も、長兄の息遣いも、すべてが少し薄く冷えているように感じた。
物心ついた頃には、王宮はすでに戦時下の緊張の中にあった。廊下を急ぐ事務官たちは日々の戦況を抱え、兵士たちは時に声を荒げ、父王の執務室には昼夜を問わず人の出入りがあった。
王宮の外へ出ることには制限が多く、次兄はよく不満を漏らしていた。長兄はそれを宥め、時には叱り、王太子らしくあろうと背筋を伸ばしていた。
ヴィルヘルムは、その二人を横目に、黙々と与えられた課題をこなした。課題が終われば、自室の本を読む。自室の本を読み終えれば、図書室へ行く。剣技と乗馬の時間以外、彼はほとんど自室か図書室で過ごしていた。五歳にして本の虫か、と次兄にはからかわれた。ヴィルヘルムは特に気にしなかった。
教師たちが事あるごとに父王のもとへ向かっていることにも気づいていたが、それも同じだった。自分の学習進度や理解力について何か報告しているのだろうと思っただけで、それ以上の感情は湧かなかった。
ヴィルヘルムは本を読むのが好きだった。
文字を追っていると、書かれた言葉がただの文章ではなく、点のように浮かび上がる。そして、記憶の中にある無数の点と結びつき、線になり、形になっていく。地理の本で読んだ港の位置が、歴史書の戦役と繋がる。税制の記述が、農村の収穫量や商人の動きと繋がる。建築の本に出てくる石材の話が、鉱山と輸送路と冬の凍結に繋がる。その瞬間が面白かった。誰も声を荒げない。誰も嘘をつかない。紙の上の文字は、時に間違っていても、少なくともこちらを試す目で見てくることはなかった。
文字以外の外界は、ヴィルヘルムにとって非常に情報の多い場所だった。
音。温度。匂い。光の差し方。椅子の軋み。床に落ちる影の向き。誰かの足音の速さ。呼吸の乱れ。手袋の擦れる音。ほんの僅かな違いが頭に入ってくる。
とくに情報が多いのは、人間だった。声の調子、肌の色、目線のズレ、口元の歪み、眉の動き、瞼の開き具合、指先の強張り。言葉より先に、それらが頭へ流れ込む。相手が何を考えているのか、何を隠しているのか、何を恐れているのか、何を欲しがっているのか。分かりたいわけではないものまで、分かろうとしてしまう。
だからヴィルヘルムは、感情を抑えることでそれを制御していた。入ってくる情報にいちいち感情を伴わせると、頭の中がすぐに満ちてしまう。喜びも、怒りも、恐怖も、悲しみも、流れ込む情報へ色をつけてしまう。色がつくと、重くなる。重くなると、処理しきれなくなる。だから、できるだけ感情を乗せない。ただの情報として置いておく。声が硬い。視線が逸れた。手が震えた。そう記録するだけなら、まだ耐えられた。
そのためか、周囲からは感情の起伏が少ない、静かな子供だと思われていたようだった。
間違いではなかった。けれど、正確でもなかった。
何も感じていなかったのではない。感じすぎるから、外へ出さないようにしていただけだった。
刻一刻と変わる戦況の中、父王と同じ食卓を囲む機会は少なかった。それでも時々、父王はヴィルヘルムのもとへ来て、いくつか質問をしていった。今日は何を読んだのか。港を失えば、最初に飢えるのはどこか。税を上げずに兵を維持する方法はあるか。戦時下で商人を締めつけすぎると何が起こるか。
父がただ幼い息子との交流を目的としているわけではないことは、ヴィルヘルムにも分かっていた。けれど、不快ではなかった。父の問いは本物だった。子供に合わせて甘く薄めたものではなく、国の形そのものへ触れる問いだったからだ。
ある日、いつものように図書室で本を読んでいると、父王が来た。
重い扉が開く音で顔を上げる前に、ヴィルヘルムは何かが違うと気づいた。
足音がいつもより遅い。従者の気配が遠い。父の衣擦れの音が、奇妙に静かだった。
「ヴィルヘルム。」
「はい、父上。」
「戦時下における王族の、最も大きな役目は何だと思う。」
ヴィルヘルムは本を閉じ、父を見た。問いそのものよりも、父の目の奥にある色が気になった。
いつもはもっと硬い。もっと澄んでいる。王としての目だった。
だが、その日の父の目には、悔恨と悲哀のようなものが混じっていた。
「決断をし、そのすべての結果の責任を負うこと、と考えます。」
そう答えると、父はしばらくヴィルヘルムを見つめた。
沈黙は長かった。怒っているのではない。試しているのでもない。父は、言葉を選んでいるようだった。
「責任を負うとは、どういうことだ。」
「必要であれば、名誉、財産、自由、時間、命を差し出すことです。」
「……王族個人が他に捧げるべきものがあるとすれば、何だと思う。」
ヴィルヘルムは少し考えた。
「心、でしょうか。」
父の目が、わずかに揺れた。それがなぜか痛みの色に見え、ヴィルヘルムは一瞬見間違いかと、目を瞬かせた。
「なぜ、そう思う。」
「国民は国へ、税、兵役、労働を差し出すと同時に、祈りや期待、明日も同じ国が続くはずだという安心も、差し出しているのだと思います。王族はそれを受け取っている。ならば、王族の心だけが王族個人のものとして守られるとは限りません。」
父は何も言わなかった。
ヴィルヘルムはその沈黙の中で、やはり自分が何かを間違えたのではないかと少し考えた。
けれど、問いの後静かにヴィルヘルムを見詰める父の表情はどう見ても間違いを咎めるものではなかった。ただ、とても深く疲れて見えた。
ヴィルヘルムは賢かった。自分が王族であり、自分の暮らしが国民によって支えられていること、だからこそ国民を守り導く義務があることを理解していた。
王族とは、選ばれた者ではなく、先に受け取った者だ。受け取った以上、返さなければならない。幼い彼の中では、それはとても単純な理屈だった。
だから数日後、自分が質子として隣国エルセリアへ送られると聞いた時、少なくとも長兄や次兄ほどには驚かなかった。
母である王妃は、最後まで反対した。ヴィルヘルムを庇うように腕に抱きしめ、王や諸侯たちの前に立ちはだかった。いつも端正で、凛としていて、誰よりも王妃らしい母が、その時だけはただ母だった。
「なぜ王の子を差し出さねばならぬのです!」
父王の顔は硬かった。
「あちらは第二王子を差し出すことを、すでに決めた。」
「側妃の子ではありませんか! 我が国の国力を考えても、妥当な取引ではありません。そもそも、国際法の理解さえ危うい国に、まともな待遇が期待できるはずがありません!」
「口を慎め。」
「慎めません!」
母の腕に力が入る。ヴィルヘルムの肩が少し痛んだ。けれど、その痛みは嫌ではなかった。
父は何かを堪えるように一旦目を閉じ、そしてまたゆっくりと開いた。
「もう覆らぬ条件だ。もうすぐ、開戦から五度目の冬が来る。今夏の干ばつに、北方からの疫病。もしあと数か月でも戦が長引けば、国民の飢えは限界に近づく。王室への信が消えれば、内戦が起きかねないところまで来ているのだ。」
「だからといって、この子を。」
「……ヴィルヘルムも王族だ。」
父の視線が、母の腕の中にいるヴィルヘルムへ向いた。
「覚悟は、できているな。」
母が息を呑んだ。
長兄が何かを言おうとして、言えなかった。次兄の拳が震えていた。
部屋の中にいる大人たちは皆、何かしらの感情を隠していた。安堵、罪悪感、恐れ、計算、諦め。あまりに多くの情報が流れ込んでくる。
ヴィルヘルムはそれらを感情から切り離し、ただの記録として頭の端へ置いた。
「はい。」
正確にすべて分かっていたわけではない。けれど、王族として差し出すべきものがあるのなら、自分も差し出すのだろう。それが、自分に与えられた役目なのだろうと思った。
それに、場所が変わったところで、限られた空間を行き来するこの箱庭のような生活が、それほど大きく変わるとは思えなかった。
父は、母を見詰め、少しだけ声を低くした。
「……ヴィルヘルムはまだ幼い。兄たちに比べれば、容赦もあろう。」
母の顔が歪んだ。
ヴィルヘルムは、その言葉がただの慰めではないことを理解していた。父は、そう言わなければこの決定を口にできなかったのだ。幼いから容赦されるかもしれない。幼いから監視も緩むかもしれない。幼いから、十年後にまだ戻れるかもしれない。
そういう可能性を積み上げなければ、自分の子を差し出す決定を王として立てていられなかったのだろう。
そうしてヴィルヘルムは、隣国エルセリアへ送られた。
八歳の春だった。
王との接見の日、ヴィルヘルムは初めて、自分の覚悟が甘かったことに気づいた。
エルセリアの王は、彼をほとんど見なかった。形式的な言葉はあった。和平と友好を重んじるという、どこかで何度も使われたような言葉もあった。
けれど、その目はヴィルヘルムを見ていなかった。見るべきものとして扱っていなかった。
その代わり、王の周囲にいた四つの大貴族家の者たちが、こちらを見ていた。
値踏みする目。
媚びる目。
探る目。
獲物を前にした獣のような目。
ハイエナのようだ、とヴィルヘルムは思った。王が自分を保護する気がないことを、その目が教えていた。
この質子取引は、王室が何らかの条件の代わりに自分を彼らへ引き渡す目的で行われたのだ。自分は王宮の庇護下に置かれる客人ではなく、諸侯たちの手元へ落とされた駒なのだと、その場で理解した。
最初は、単純な誘いから始まった。
祖国の話を聞かせてほしい。
港の様子はどうか。
父王はどの臣下を重んじているのか。
兄君方はどのような方か。
最近、北部の街道整備は進んでいるのか。
どれも柔らかい言葉だった。菓子や本や馬の話に紛れて、少しずつ差し込まれる質問だった。
ヴィルヘルムが答えないと分かると、次は軽い脅しになった。
友好を拒むのか。こちらの厚意を疑うのか。この国で過ごす年月を、少しでも穏やかにしたいとは思わないのか。
それでも折れないと分かると、やがて警告になり、陰湿な脅迫になった。
国内には、五年に及ぶ戦争で家族を失った者も多かった。エルセリアの王室に庇われることもなく、四つの大貴族にあの手この手で翻弄される少年は、貴賓として扱われるどころか、侍従や侍女からも正式な扱いを受けることが難しくなっていった。
鈴を鳴らしても侍女は来ない。
食事が冷めたまま置かれる。
茶に妙な匂いが混じる。
部屋の暖炉に火が入らない日がある。
廊下ですれ違う使用人が、聞こえるように家族を失った話をする。
剣術の稽古と称して、必要以上に打ち込まれる。
親切そうな貴族が近づいてきて、祖国の情報を引き出そうとする。
別の貴族は、何も言わずに彼の沈黙を試す。
手を変え、品を変え、彼らはヴィルヘルムを揺らそうとした。
母国へ訴えることはできた。手紙に書けば、父も母も兄たちも動くだろう。
けれど、それではここまで耐えた意味がなくなる。何かを差し出さなければならなくなるかもしれない。あるいは、再び戦の火種になるかもしれない。
自分一人の苦痛を理由に、ようやく止まった戦をまた動かすわけにはいかない。自分が耐え忍ぶのが最善策だと、ヴィルヘルムはすぐに悟った。
元々、感情表現が得意な方ではなかった。
それでも笑うこともあった。怒ることもあった。兄たちと話せば、年相応にむくれることも、母の前で少しだけ甘えることもあった。
けれど、エルセリアではそれすら無闇にできなくなった。怒れば喜ばれる。怯えれば踏み込まれる。笑えば利用される。悲しめば弱みにされる。
だから、出さない。
何も出さない。
そうしているうちに、次第にヴィルヘルムは、自分が何を感じているのかも分からなくなっていった。
十年。
十年、この監獄から出られない。
まだ八年しか生きていないヴィルヘルムにとって、それは果てしない年月だった。
一年目は、ただ耐えた。
二年目は、抵抗を試みた。
三年目に、諦めた。
国のことも、家族のことも、自分の名前も、何もかも忘れて、このまま静かに消えてしまえればどれほど楽だろうか。そう考えることが増えていった。
もちろん、実際に消えることはできない。自分には役目がある。生きているだけで、和平の形を保つための駒になる。それを理解しているからこそ、なおさら苦しかった。
そんな三年目の春だった。
ヴィルヘルムに立ち入りを許されている場所は多くない。自室、図書室、庭園。王宮の中にいながら、彼の世界はひどく狭かった。
その日は図書室に人の姿があったため、許可を取り、本を持ち出して庭園で読もうと足を進めていた。
庭園の奥へ向かう途中、思わぬ人影があった。
令嬢だった。
年頃は、ヴィルヘルムと同じくらいだろうか。上質なドレスを着ている。髪も整えられている。立ち姿には教育を受けた貴族の子女らしい形があった。
立ち去ろう。
そう判断した時だった。
「あのガキ、どこ行ったのよ。」
低く唸るような声が聞こえた。
ヴィルヘルムは思わず足を止めた。
――なんだ。
一瞬、聞き間違いかと思った。貴族の令嬢に見えたが、もしかすると宮廷に出入りする庭師か料理人の子供だろうか。
念のため確かめた方がよいかもしれない。そう思い、少しだけ近づいた。
足元に落ちていた小枝を踏んだ。
ぱきり、と軽い音が鳴る。
瞬間、少女が振り向いた。
「カイエンッ――」
でんか、と続けようとしたのだろう。
だが、彼女の声はそこで止まった。
驚きに見開かれた目。
亜麻色の瞳。
そこには、ヴィルヘルムがこの国へ来てから見慣れてしまった値踏みも、探りも、媚びも、憐れみもなかった。
代わりにあったのは、眩しいほどの生命力だった。
太陽のようだと思った。
薔薇のようだとも思った。
とにかく、美しいと思った。
少女は一度咳払いをした。それから、ヴィルヘルムの姿をきちんと見て、誰か分かったらしい。先ほどの声が嘘のように、貴族令嬢らしい完璧な礼をした。
「お見苦しいところをお見せいたしました。エルヴェシア公爵家のレベッカと申します。ヴィルヘルム殿下、以後お見知りおきを。」
ヴィルヘルムも礼を返した。
「ヴィルヘルム・レオンハルトです。」
「存じております。」
少女はそう言ってから、少し困ったように眉を寄せた。
「わたくし、カイエン殿下を探している途中でして。」
カイエン殿下。
たしか、先日、第一王子カイエンが一つ年上の公爵令嬢と婚約したと聞いた。彼女だったのか。
なぜか、小さく胸が痛んだ。
「申し訳ありませんが、私は見ておりません。」
「そうですか。」
レベッカは難しい顔で考え込んだ。
ヴィルヘルムは静かに礼をし、立ち去ろうとした。
彼女が誰であれ、関わらない方がよい。この国で誰かと関わることは、ほとんどの場合、面倒か危険を伴う。ましてや第一王子の婚約者なら、なおさらだ。
そう思ったのに。
「ヴィルヘルム殿下。この後、ご予定はございますか?」
声に振り返る。
「……いえ。」
「では、ぜひ、わたくしにお力をお貸しいただけないでしょうか。」
「はい?」
返事を待つ間もほとんどなかった。
レベッカはヴィルヘルムの手を掴み、力強く歩き出した。
あまりにも自然に。
あまりにも当然のように。
ヴィルヘルムは一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
この国に来てから、誰かにこんなふうに手を握られたことはなかった。
脅すためでも、引き留めるためでも、所有を示すためでもない。利用しようとする手でも、探ろうとする手でもない。
ただ、急いでいるから掴んだ手。
そこには何の思惑もなかった。
「レベッカ嬢。」
「はい。」
「どちらへ。」
「教室です。カイエン殿下が見つからないので、代わりに討論相手が必要なのです。」
「私は承諾していませんが。」
「歩きながら承諾していただければ問題ありません。」
「問題があります。」
「広義ではございません。」
「かなり危険な広義ですね。」
レベッカは振り返らず、きっぱりと言った。
「大丈夫です。わたくしにお任せください。」
何一つ大丈夫ではなかった。
けれど、ヴィルヘルムは手を振り払わなかった。
なぜか、振り払えなかった。
彼女の手は温かかった。
春の庭園の光のように、まっすぐで、少し強引で、こちらの事情など知らないまま近づいてくる手だった。
その手は、悪意を持っていなかった。
ただそれだけのことが、ヴィルヘルムには分からなくなるほど珍しかった。
この日から十年以上に及ぶ恋慕と執着が始まることになるとは、この時のヴィルヘルムはまだ気づいていなかった。
ただ、握られた手の温度だけを、なぜか長く忘れられない気がした。




