【ちくわ探偵】深淵の空洞と冷徹なる凱旋
「ちくわ。お前のような魔力も戦意もない最弱の幹部は、我が魔王軍には不要だ」
黒き玉座の間。天井から吊られた黒曜石の燭台が、血のように赤い炎を揺らしていた。壁には征服予定の人間領が描かれ、武闘派の幹部たちは地図の上へ剣を突き立て、勝利を先取りするように笑っていた。だが、その地図には井戸も倉庫も、収穫期も記されていなかった。
新魔王となった傲慢な若き魔族が、私に向かって漆黒の魔力を放った。
他の武闘派の幹部たちも、私の煤けた外套と胸の空洞を嘲笑う。
「こいつはいつも、前線に出るわけでもなく、人間たちの街の『流通経路』や『穀物の収穫量』ばかりを地味な書類で調べているだけだ。魔王軍に必要なのは圧倒的な恐怖と略奪! 貴様のような日陰者は、今日限りで追放だ!」
私は何も答えず、ただ外套の襟を立て、静かに自らの胸の空洞に右手を当てた。
この空洞は、世界の命脈を握る深淵。だが、力に溺れた若き魔族には、それがただの弱者の空虚に見えるのだろう。
「分かった。……お前たちの掲げる恐怖が、飢えに勝てることを祈るよ」
私は静かに魔界を去った。背後で、ゆで卵刑事が無言で私の後に続いた。
「数万の兵を、気合いだけで動かすつもりらしいな」
「恐怖は腹を満たさない、刑事。略奪は補給計画の代わりにもならない」
背後で開戦の角笛が鳴った。勇壮な音だった。だからこそ、その下で荷車の車輪が一台も回っていないことが、ひどく滑稽に思えた。
魔界の関門では、ナルトが補給地図の前に立っていた。奴は何も言わない。地図から消された井戸の印と、荷車の車輪に付いた乾いた茸の欠片を見比べていた。出陣の鐘が三度鳴っても、その視線だけは古い補給路を離れなかった。
それから、わずか三日後のことだった。
人間界へ侵攻を開始したはずの魔王軍の数万の軍勢は、戦う前に全員が極度の栄養失調と行軍エラーを起こし、武器を握る力すら失って道端に倒れ伏していた。新魔王もまた、飢えと乾きで馬から転げ落ちていた。先鋒は道を誤り、後続は同じ乾いた野営地へ殺到し、兵糧車は遥か後方のぬかるみで立ち往生している。敵兵の姿すら見えないうちに、魔王軍は自らの胃袋に敗北していた。
「な、なぜだ……! 我が精鋭たちが、なぜ戦う前にこれほど衰弱している……! 人間の呪いか!?」
這いつくばる新魔王の前に、私は静かに歩み寄った。
「答えは単純だ、新魔王。お前たちが軍を動かした、その路線の『道端の植生』を見な」
私は一歩近付き、干からびた雑草の「わずかな噛み跡」を指差した。
「魔王軍の数万の胃袋を支えていたのは、略奪した財宝ではない。私が書類の数字を積み上げ、人間たちの穀物の収穫量と、行軍ルートに生える『隠れ食用キノコ』の分布を完全に計算し、兵糧の補給線を裏で完璧に管理していたからだ。お前たちが私を追い出し、ただ突撃した結果、数万の軍勢は何も無い荒野で勝手に飢え死にしたのさ。お前たちが『無能の書類仕事』として切り捨てた誰にも顧みられなかった日々の保全、それこそが、魔王軍を維持する唯一の盾だったのだよ」
新魔王は愕然とし、自らの無知が招いた壊滅に絶叫した。さらに軍需倉庫の横流しと兵糧台帳の改竄まで明らかとなり、ゆで卵刑事は魔王軍兵站法に基づく黒鉄の手錠を取り出した。世界征服を掲げた両腕は、わずか二つの金属環に収まった。
すべてが終わった荒野の片隅で、ナルトが一人、無言で佇んでいた。奴は何も言わない。ただ、この冷徹なる世界の支配に、ゆっくりと、深い敬意を込めた拍手を送っていた。倒れた兵の向こう、地図から消された井戸の方角へ、奴の渦だけが静かに向いていた。
「行くのか、ちくわ」と、刑事が静かに問いかけてきた。
「ああ。世界を征服する前に、まず夕食を征服するべきだったな」
私は背を向け、倒れた軍旗の間を歩き出した。王も魔王も、腹が減れば膝をつく。兵站は英雄譚に名を残さない。ただ、英雄譚が始まる場所まで全員を連れていく。
私の名は、ちくわ探偵。
恐怖の軍勢を胸の空洞に受け流し、真実を追い続ける、孤独なハードボイルドだ。
(魔王軍幹部追放編・完)




