第三章 最初の三十万
「三十万あれば、回せる」
その一文を、康介は何度読み返したか分からない。
送信ボタンに触れた指は、止まったままだった。「いくらあればいいの」。自分の送った言葉が、画面の中で妙に軽く見えた。深夜の三時を回っている。隣の寝室では直美が眠っているはずだった。台所の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
返事はすぐに来た。まるで、最初から金額を用意して待っていたかのように。
「三十万あれば、回せる」
三十万。康介の頭の中で、その数字がいろいろな姿に変わっていった。住宅ローンのボーナス払い二回分。息子の塾の月謝、半年分以上。民事再生の支払いをしていた頃なら、一年近くかけて積み上げるような額だった。再生計画を完済した今、家計に余裕があるわけでは決してない。むしろ彼は、三十万円という金を「自由に使える金」として持ったことなど、ここ何年もなかった。
「少し考えさせて」
そう打って、送信した。逃げ道を作ったつもりだった。だが美咲からの返信は、彼の逃げ道を塞ぐようなものではなかった。むしろ逆だった。
「うん、無理しないで。私も、誰かに頼るの本当は嫌だったから」
短い文だった。だが、その短さの中に、長く借金と向き合ってきた人間にしか分からない諦めと、それでも誰かに頼らなければならない悔しさとが、にじんでいるように康介には読めた。金を借りる側の人間の気持ちを、彼は骨身に染みて知っている。頭を下げる苦さも、断られたあとの夜の長さも。その記憶が、この一文を「信用できる人間の言葉」へと変えていった。
この一文が、かえって康介の胸に残った。押しつけてこない。条件を吊り上げもしない。借金の返済に追われている人間が、深夜に元手を求める。それは彼自身が何年も味わってきた立場そのものだった。金に困っている人間ほど、金の話を持ちかけられたときの痛みを知っている。だからこそ彼は思った。騙す側の人間が、こんなふうに言葉を選ぶだろうか、と。
民事再生の手続きのことを、康介は今でもよく覚えている。裁判所に通い、家計の収支を一円単位で報告し、債権者集会で頭を下げた。給料から毎月決まった額が引かれ、残りの中で家族三人が生きていく。あの三年間、彼は何度も思った。なぜ自分は、こんなふうになってしまったのか。住宅ローンを組んだあの日の自分は、まさかこんな未来を想像していなかった。善良に働き、真面目に返してきたはずなのに、数字だけは裏切り続けた。
完済した日、彼は誰にも言わず、一人で車の中で泣いた。やっと人の並みに戻れた。その安堵は本物だった。だが同時に、彼は知ってしまったのだ。人並みの生活というのは、戻るだけでは何も変わらない。給料は上がらず、出ていく金だけが増えていく坂道の途中で、彼は今も立っている。立ち止まれば、後ろへ滑るだけだ。
だから彼は、取引に手を出した。深夜、チャートを見つめる時間は、坂道を登るための自分なりの戦いだった。少なくとも、そのつもりだった。
その夜は、結局、決められなかった。
翌朝、康介はいつもどおりネクタイを締め、信用金庫の窓口に立った。窓口の向こうでは、年金を受け取りに来た老人たちが、通帳を差し出しながら他愛のない話をしていく。一万円、二万円。預かって、数えて、印を押す。彼は金に触れる仕事をしながら、自分の三十万円のことを考え続けていた。金は金だ。だが三十万という金額は、窓口で扱う数字の軽さとはまるで違って、生活の底のほうに重く沈んでいた。
昼休み、彼はスマホを開いた。美咲からの新しいメッセージはなかった。昨夜のやり取りが、最後の行で止まっている。彼はその沈黙を、好意的に解釈した。急かさないのは、信用できる証拠だ。そう自分に言い聞かせた。しかし同時に、別の声も聞こえていた。沈黙は、ただの沈黙かもしれない。相手が本当に困っているなら、もう少し何か言ってくるのではないか。その二つの声が、昼休みの終わるまで頭の中で言い争っていた。
帰宅してからも、決断は先送りされた。夕食の席で、直美が言った。
「来月、車検だよ。あと、お父さんの法事のことも、そろそろ」
「ああ、分かっとる」
康介は箸を置かずに答えた。出費の話が出るたびに、彼は心の中で通帳の残高を数えた。三十万を出せば、車検はなんとかなる。だが法事の包みは薄くなる。万が一、返ってこなければ――。その先を、彼は考えないようにした。考えれば、動けなくなる。動けなければ、今の生活がこの先もずっと続くだけだということも、彼は知っていた。
その晩も、彼は眠れなかった。正確には、眠ろうとして、目を閉じて、やがてスマホを手に取ってしまった。午前三時を少し回った頃だった。画面を開くと、既読のつかない自分の言葉が、まだそこにあった。
彼はため息をついて、別の画面を開いた。自分の銀行口座のアプリだった。残高を確認する。数字は昨日と変わらない。当たり前のことに、彼はほっとした。まだ、ある。まだ選べる。
そのときだった。通知が、画面の上端に滑り込んできた。
「起きてる?」
「ごめん、夜しか時間が取れなくて」
美咲だった。昼間は仕事、夜は返済の手続きと家族のことで、落ち着いてスマホを見られるのはこの時間だけだという。康介は以前も同じ説明を聞いていた。深夜にしか連絡が来ないことへの、ささやかな引っかかり。それが、この説明でするりと解けていくのを感じた。彼自身、家族が寝静まったあとの時間にしか、自分の金のことを考えられなかったのだから。
「三十万の話、考えた?」
「うん。……康介くんが無理なら、本当にいいんだよ。私、昔みたいに笑って話せる相手が減ってくのが嫌で、声かけただけだから」
彼はしばらく、画面を見つめていた。この女は、高圧的でも、甘えてくるのでもなかった。引くときは引き、置いていく。まるで彼の迷いを、ずっと前から見てきたかのように。
「分かった。出すよ」
打ったのは、それだけだった。指が震えていることに、彼は送信ボタンを押したあとで気づいた。
「本当に? ありがとう。絶対、無駄にしないから」
「振込先、送るね」
口座情報が送られてきた。県外の銀行の、個人名義の口座だった。一瞬、喉の奥がつかえた。知らない名義ではない。美咲本人の名義だ。だったら大丈夫だ。彼はそう思うことにした。会社名義でも、屋号でもない。人に金を預けるなら、個人の名義がいちばん責任の所在がはっきりしている。そんな理屈を、頭の中で何度も組み立てた。組み立てれば組み立てるほど、その理屈は彼自身を説得するためにあるのだと、分かってもいた。
「明日、振り込む」
「うん。私も、明日から本気で回す」
最後に、彼女から短い文が来た。
「誰にも言わないでね。この話、恥ずかしいから」
康介は「分かってる」と返した。その約束が、自分を守るためのものでもあると、このとき彼はまだ理解していなかった。
翌朝、食卓で息子が進路のことなど話し出した。高校二年になる息子の口から出る言葉には、塾の合宿だ、模試の受験料だ、とかかる金の話が自然と混じっていた。康介は頷きながら味噌汁をすすった。直美が横から「あんた、聞いとる?」と言った。
「聞いとるよ。金はなんとかする」
なんとかする。その言葉を口にするとき、彼はいつも少しだけ胸が痛んだ。なんとかしてきた結果が、民事再生だった。そして今、彼の頭の片隅では、深夜のあのやり取りがまだ燃え続けていた。勝ち分を返済に回している女。元手さえあれば回せるという女。もし彼女の言うことが本当なら、「なんとかする」は、ただの強がりではなくなるかもしれない。
その日、康介は昼休みに、もう一度だけ通帳記入をした。残高は変わらない。三十万という数字が、自分の生活の輪郭を静かに削っていくのが見えるようだった。出せば苦しい。だが、出さなければ何も変わらない。民事再生の支払いを終えたあとも変わらなかった生活が、この先もずっと続く。息子の進学、老いた親のこと、家の修繕。待っているのは、静かに膨らんでいく出費と、決して膨らまない給料だった。
彼は、自分の迷いを恥じていた。信用金庫の職員として、彼は何百という顧客に「うまい話には気をつけてください」と言ってきた。その自分が、深夜のメッセージひとつに心を動かされている。だが、その恥ずかしさこそが、逆に彼を納得させもした。これだけ慎重に、これだけ迷った末の決断なら、間違いであるはずがない。迷いの深さが、そのまま判断の確かさの証拠のように思えてくるのだった。
振り込んだのは、翌日の昼休みだった。
職場の近くのATMではなく、わざわざ駅前の、普段使わない銀行のATMを選んだ。理由は自分でも曖昧だった。職場の近くだと誰かに見られる気がしたのだ。金を振り込む。それだけの行為に、なぜ後ろめたさが伴うのか。画面の前で暗証番号を押し、金額を入力し、確認ボタンを押す。三十万。手数料の表示。確定。
「お取り引きありがとうございました」
機械の無機質な音声が、やけに事務的に響いた。明細票が出てきた。彼はそれを財布の奥にしまった。振込の記録は、万が一のときに必要になる。そう思ったからだった。だが財布の奥にしまうという行為そのものが、どこか証拠を隠すようで、彼の胸に小さな棘を残した。店を出ると、昼の光が眩しかった。これで、終わった。いや、始まってしまった。どちらの感覚も正しくて、どちらも彼を落ち着かなくさせた。
その日から、眠れない一週間が始まった。
一日目。帰宅すると、彼はまずスマホを確認した。何も来ていない。取引は数日かかるものだ。分かっている。だが夜、布団に入ってからも、彼は三十分おきに目を覚ました。
二日目。直美が、夕食のあとに言った。
「最近、眠れてないの。顔に出てるよ」
「仕事が立て込んどるだけ」
嘘は、驚くほど簡単につけた。三十万円の出どころを、彼は家計の貯蓄から出したのではない。再生計画が終わったあと、少しずつ別にしていた、自分名義の口座の金だった。直美には、その口座の存在自体を詳しく話していなかった。投資に回していたことも、そして大半を失ったことも。秘密は、ひとつ持つと、次から次へと増えていく。言えない。言うなら全部言わなければならない。全部言う勇気は、彼にはなかった。
二日目の夜も、同じだった。風呂上がりにテレビを見ても、内容は頭に入らなかった。ニュースの経済指標の数字が流れるたびに、彼は自分の三十万円の行方を重ねてしまった。就寝前、彼は歯磨きをしながらスマホを確認し、布団に入ってからも一度、枕元の画面を光らせた。直美が寝返りを打つ気配に、彼は慌てて画面を伏せた。何もやましいことはしていない、はずだった。ただの投資だ。そう言い聞かせるほどに、胸の奥がざわついた。本当にただの投資なら、なぜ妻に話せないのか。その問いから逃げるように、彼は目を閉じた。
三日目。仕事中、ふとした瞬間に手が止まるようになった。昼前、古くからの顧客である田村が窓口に来た。退職金をどうしたものかと、いつもの相談だった。康介はいつものように、リスクのない商品の話をした。元本が守られることの大切さを、穏やかな口調で説いた。説きながら、胸の底が冷たくなった。自分は口先では安全を説き、夜になれば自分の金を得体の知れない取引に委ねようとしている。その二重の顔を、窓口の向こうの老人は知らない。知らないからこそ、「瀬戸さんに任せとけば安心だ」と笑うのだ。その笑顔が、その日はいつもより重かった。
窓口で顧客の通帳を預かりながら、考える。もしこのまま返ってこなかったら、自分はどうする。三十万円の穴は、生活のどこに現れるか。車検。法事。息子の進学が近づけば、塾の増額の話も出る。そのたびに自分は、帳尻を合わせるために何をするのか。また借りるのか。それだけは、絶対に嫌だった。民事再生までして、ようやく人並みの信用を取り戻しつつあるのだ。あの頃に戻ることだけは、死んでも嫌だった。
四日目の夜、彼は初めて、ネットで検索をした。深夜の台所で、スマホの明かりだけを頼りに。投資話。元本保証。知人に金を預けた。その手の記事は、思ったよりずっと多かった。いくつもの事件。いくつもの裁判。どの記事の中の「被害者」も、最初はみな、相手を信用していたのだと書いてあった。彼は画面を閉じた。自分は違う。根拠のない確信ほど危ういものはないと、頭では分かっていた。それでも彼は、その確信にすがらなければ、この夜を越えられそうになかった。
五日目。美咲から、一度だけメッセージが来た。
「回してるよ。調子いい」
たったそれだけだった。報告とも言えない短さに、彼は腹が立つよりも、安堵した。連絡がある。それだけで、相手が消えていない証拠になった。だが安堵は長く続かなかった。調子がいいというのは、本当なのか。なぜ明細を見せないのか。六万円だか何万円だか知らないが、利益が出ているなら、その数字を見せてくれてもいいはずだった。
六日目。彼は聞く決心をした。深夜、メッセージを打った。何度も書き直した。
「ごめん、ひとつだけ。途中経過の画面って、見せてもらえる? こっちも安心したいから」
送信してから、後悔した。疑っていると思われるだろうか。信用して金を預けた立場で、疑いの言葉を口にすることは、自分自身の判断を疑うことと同義だった。彼は、美咲の人間性を疑っているのではない。疑っているのは、金を出した自分の決断のはずだった。その決断が間違っていたとしたら、彼は何を失うのか。三十万円だけではない。民事再生を乗り越え、ようやく取り戻しかけた「まともな自分」という感覚そのものが、足元から崩れ落ちる気がした。だからこそ彼は、確かめたかったのだ。彼女の正しさを。そして自分の、正しさを。
返信は来なかった。夜が明けても、来なかった。昼休み、彼は何度も画面を確認した。出先の駐車場。職場の給湯室。確認するたびに、変化のない画面が彼を静かに追い詰めた。もしかしたら、気を悪くしたのかもしれない。もしかしたら、それどころではない何かが起きているのかもしれない。夜、彼は謝罪の文面まで考えた。疑うようなことを言って、ごめん。だが、その謝罪を送ることは、彼のプライドが許さなかった。謝れば、こちらが下手に出たことになる。金を預けた側が、なぜ謝らなければならないのか。そんな意地と、不安とが、彼の胸の中で夜通しぶつかり合った。
七日目。康介は、もう一度口座のアプリを開いた。昼休み、職場の更衣室の隅だった。何か変わっているはずはない。それでも開く。残高の数字が読み込まれる。一瞬の間。
数字が、増えていた。
三十六万円。前日までそこになかった入金が、彼の口座に記録されていた。送金人の名義は、林美咲。三十六万円。元本の三十万円に、六万円が乗っている。彼は息を呑んだ。更衣室の壁にもたれ、スマホを握る手に力が入った。
そのとき、美咲からメッセージが届いた。
「康介くん、見て。これ、こないだの分」
取引履歴のスクリーンショットだった。FXルミナスの画面。日時の並び。利益確定、利益確定、利益確定。ときどき損切りを挟みながらも、残高のグラフは右肩上がりに伸びていた。通貨ペア。ロット数。実現損益の数字。彼自身が毎晩見つめていた、あの画面だった。負け続けた自分とは違う、鮮やかな勝ち方の記録。
彼は何度も画像を見返した。日付は、この一週間のものだった。金額の推移も、三十万円の元手と矛盾しない。嘘をつくなら、もっと手間がかかるはずだ。本物だ。彼女は本当に、勝ち方を知っているのだ。
昼休みが終わる前に、彼は暗算をしていた。一週間で六万円。単純に四倍すれば、ひと月で二十四万円になる。もちろん毎週この調子とは限らない。だが、もし月に十万円でも安定して入ってくるなら。車検などという言葉に怯える必要はなくなる。息子の進学費用も、重たい話ではなくなる。直美に言えない秘密を持っていることの後ろめたさも、金が増えれば、いずれ「実はな」と笑って話せる日のための伏線になる。その日になれば、秘密は秘密ではなく、家族を思っての賭けとして、笑い話にできるのだ。
無論、美咲からは「勝ち分は返済に回すから、私の取り分はない」と聞いていた。戻ってきた三十六万円は、あくまで彼の元本と、彼への利益分だ。彼女の言葉通りなら、彼女はこの取引で一円も得ていないことになる。自分の取り分もなしに、他人の金を回し続ける人間がいるだろうか。その疑問は確かにあった。だが康介は、そこにも美しい理由を見つけた。彼女は、恩返しをしているのだ。元手を用意できない自分への、せめてもの誠意。そう考えると、すべての辻褄が合った。合ってしまった。
安堵は、津波のように押し寄せた。疑った自分が恥ずかしかった。疑いながら金を預けた自分の小ささが。そしてその次に来たのは、高揚だった。六万円。一週間で六万円。銀行に預けて何十年かかっても得られない利益が、眠れない一週間の果てに、彼の手元へ届いたのだ。民事再生を経て、慎ましく、堅実に生きてきた自分。その堅実さが報われたことなど、ほとんどなかった。だが今、報われている。彼の選んだ道は、正しかったのだ。
疑う理由を探すことを、彼はこの日、やめた。いや、正確に言えば、疑う理由のほうをひとつずつ潰していった。個人名義の口座だったから大丈夫。金は実際に増えて返ってきた。取引の画面もある。深夜にしか連絡が取れないのは、彼女にも事情があるからだ。何ひとつ、おかしなことはない。あるのは、借金に追われる女と、その女を信じて救われた男の、静かな連帯だけだった。
その夜、久しぶりに彼はぐっすり眠れた。布団の中で、直美の寝息を聞きながら、彼は漠然と思っていた。この金がもう少し増えたら、家のことも、息子のことも、もう少しだけ楽になるかもしれない。秘密は重いままだった。だが今夜の秘密は、昨夜までの秘密とは色が違っていた。希望の色をしていた。
金が戻ってきた日の夕食は、久しぶりに穏やかだった。直美が「今日は顔色がいいね」と言った。康介は笑って、仕事が一段落したのだと答えた。三十六万円の入金のことなど、当然、言わなかった。言うつもりもなかった。だが今夜の彼は、その秘密を苦いものとしてではなく、甘いものとして抱えていた。いずれ増えた分を家計に入れればいい。「臨時収入があった」と言えば、直美は深くは聞かないだろう。息子が受験の話をし、直美が頷き、康介は相槌を打った。何の変哲もない食卓。だが彼の目には、この食卓の風景が、少しだけ明るく見えた。六万円の利益が、暮らしの空気まで変えてしまったのだ。
翌日の深夜、美咲からメッセージが来た。
「この調子なら、もっと回せる。でも私の分は全部返済だから、手元には残せないんだ」
「だから、また元手を貸してくれると助かる」




