第四章 増えて戻ってきた金
三十六万円が口座に戻ってきた日から、康介の世界の色が、ほんの少しだけ変わった。
正確に言えば、変わったのは世界ではなく、康介の目のほうだった。朝、支店の駐車場に車を停め、エンジンを切るまでの数秒間。これまでは、その数秒が一日でいちばん重かった。住宅ローンの引き落とし日が近づくたびに変わる通帳の残高、直美が黙って切り詰めているのが分かる食卓、息子の進学の話になると自然と声のトーンが落ちる自分。だがあの日から、朝の数秒間に差し込む光は、どこか違って見えた。
元本三十万円に、六万円の利益。たった六万円だ。けれど民事再生の支払いを終えてからというもの、康介の人生に「増える」という言葉は存在しなかった。給料は入った端から消え、残高は減ることはあっても、自分の意思で増えたことは一度もなかった。その六万円は、金額以上の意味を持って彼の胸に収まった。
「すごいだろ。でも私は取り分ゼロだからね。勝ち分は返済に回すって決めてるの」
深夜一時過ぎ、美咲からのメッセージ。彼女の連絡はいつも、世の中が寝静まった頃に届いた。
「だからお願い。もう一回、元手を貸してくれない? 次はもっと大きく回せる」
康介は布団の中でスマホの光を見つめていた。隣では直美が寝息を立てている。返信を打つ指が、わずかに迷った。
――いくらなら。
「五十万、用意できる?」
すぐに返事が来た。
「できるよ。私を信じて」
五十万円。家の貯金に手をつければ届く数字だった。直美には何と説明する。いや、説明する必要はない。増えて戻ってくるのだから。戻ってきた時点で、何もなかったことになる。自分はただ、一時的に金を「預ける」だけだ。危険なことは何もしていない。――そう考えることで、康介は自分の中の警報を、一つずつ消していった。
振り込みは、昼休みに支店の近くのATMで行った。自分の勤める信用金庫のATMではない。隣の銀行の、見慣れない機械の前で、康介は五十万円の送金ボタンを押した。職員として何千回も見てきたはずの画面が、その日は妙に遠く見えた。
その晩、美咲から取引のスクリーンショットが届いた。FXルミナスの画面。ユーロドルのチャートと、利益確定の記録が並んでいた。康介には、その数字が本物かどうかを確かめる術はなかった。だが彼は、確かめようとしなかった。疑うという行為は、せっかく手に入れた希望に水を差すことのように思えたのだ。
もっとも、その夜の彼は、一つだけ余計なことをした。
自分でも、まだ勝てるのではないか。そう思ってしまったのだ。五十万円を送ったあとの手持ちから、二万円だけをFXルミナスの口座に入れ、深夜のチャートに向かった。一分足のローソクが上下する。「上がる」と思った瞬間に買いポジションを持つ。含み益が出ては消え、やがて含み損が膨らんでいく。損切りができず、証拠金はみるみる削られていった。気づけば二万円は四十分で消えていた。
画面を閉じて、康介は薄く笑った。やはり自分には才能がない。だが今の彼には、負けの痛みより先に、別の感情が湧いていた。
――俺には、美咲がいる。
自分の無力さの確認が、そのまま彼女への依存を深めていく。そういう逆説に、彼は気づかなかった。いや、依存という言葉自体、彼の辞書にはなかった。あれは「信頼」だった。少なくとも、そう呼んでいる間は、穏やかに眠ることができた。
一週間が過ぎた。連絡はなかった。二週間目に入った夜、康介は三度、スマホを確認しては枕元に戻す自分に気づいた。民事再生の頃、督促の電話に怯えて眠れなかった夜の感覚が、薄く蘇ってくる。だが今回は違う。今回は、期待の側の眠れなさだった。
十五日目の深夜二時四十分。スマホが震えた。
「康介くん、ごめん、遅くなった。見て」
五十九万円。五十万円の元本に、九万円の利益が乗って、彼の口座に戻ってきた。
康介は暗い部屋で、小さく息を吐いた。勝ったのは美咲のはずなのに、胸の高鳴りは自分のものだった。やれる。この方法は、本物だ。二度続けて増えて戻ってきたという事実が、一度目とは比べものにならない重さで、彼の疑いを押し潰した。
その週の終わり、美咲から珍しく長いメッセージが届いた。
「私の親の話、したっけ。父が小さな運送会社をやっててね、リーマンショックのあと、借金を抱えたまま倒れたの。私、ずっとその返済をしてる。看護師の給料だけじゃ終わらなくて、それでFXを始めたんだ」
康介はその文章を何度も読み返した。昼の顔と、夜の顔。昼は病院で働き、夜はチャートの前で親の借金と闘う女。その姿は、民事再生の書類に判を押し続けた頃の自分と、静かに重なった。
「だから勝ち分には手をつけないって決めてるの。全部、返済。私の取り分はゼロ。それでも回し続けられるのは、康介くんみたいな人が元手を貸してくれるから」
感謝の言葉が、康介の胸のいちばん柔らかい場所に届いた。金を貸すことが、誰かの人生を支えている。そういう実感は、窓口で預金の出し入れを手伝う日々では、なかなか得られないものだった。
「無理はするなよ」
「ありがと。康介くんは優しいね」
優しい。その一言を、彼は布団の中で何度も反芻した。
二度目の利益が戻ってきた頃から、瀬戸家の暮らしに、小さな変化が現れ始めた。
滞っていた支払いの一つを、康介はまとめて片づけた。息子が「もう少し使えるから」と我慢していた部活動のシューズを、ある日、彼は何も言わずに買って帰った。息子は一瞬きょとんとして、それから「ありがとう」と言った。その一言が、康介の胸の奥を強く締めつけた。父親らしいことを、まともにしてやれたのはいつ以来だろう。
週末には、家族三人で外食をした。市内の、チェーンではない小さな洋食店。直美が「たまにはいいね」と言って笑い、息子は遠慮しながらデザートまで注文した。康介はその光景を、少し離れた場所から眺めるような気持ちで見ていた。幸せだ、と思う。同時に、この幸せの出どころを、妻にも息子にも言えないのだ、という事実が、静かに腹の底に沈んでいた。
「最近、少し余裕が出てきたね」
帰りの車の中で、直美が言った。責める調子ではない。むしろ、ほっとしたような声だった。
「……ああ。残業が続いてたからな。あと、前にやってた分の精算が、少し戻ってきて」
嘘ではない嘘を、康介は滑らかに口にした。民事再生のことも、解雇されかけた夜のような綱渡りの日々のことも、直美はすべて知っている。その直美に、これ以上心配をかけたくない。落ち着いたら話せばいい。増えた分だけ家計に入れて、あとは何もなかったことにすればいい。これは家族を守るための秘密だ。――そう決めることで、彼は罪悪感を「優しさ」の棚にしまい込んだ。
だが、人間は不思議なもので、秘密は持った側の内側で静かに発酵していく。直美と目を合わせる時間が、ほんの少し短くなった。家計の話になると、康介のほうから話題を逸らすようになった。直美が何か言いかけて、やめる瞬間も増えた。彼女は何も追及しなかった。それが妻の優しさなのか、それとも――。康介は考えないようにした。考えることは、せっかく上向き始めた日々に、影を落とすことだった。
ある夜、直美がふと言った。
「あんた、最近、夜中に起きてるでしょ」
康介の背中に、冷たいものが走った。洗い物を終えた直美は、こちらを見ていなかった。シンクの水滴を拭きながら、続ける。
「前はぐっすりだったのに。……仕事、大丈夫なの」
スマホの画面の向こうの女のことでも、託した金のことでもない。心配の矛先は、あくまで彼の体調と仕事だった。その健気さが、康介の胸を締めつけた。
「ああ、大丈夫だ。ちょっと調べものをしててな」
「無理しないでよ。あんたが倒れたら、元も子もないんだから」
元も子もない。その何気ない言葉の選び方に、康介は思わず苦笑した。本当の意味で「元も子もない」事態が、どれほど近くまで来ているかを、この人は知らない。知らないままでいてほしい。それが今の彼にできる、唯一の誠実さだった。
息子の存在も、彼の心を静かに縛っていた。高校二年の息子は、進学を控えていた。地元の大学か、県外か。塾の夏期講習の案内が届くたびに、直美と短い相談が交わされる。「本人の希望を聞いてあげたいね」という直美の言葉に、康介はいつも「そうだな」と答えた。だが内心では、県外の私立と聞くたびに、学費の数字が頭を駆け巡っていた。
あの子には、自分のような思いをさせたくない。金がないというだけで、選べるはずの道が細くなっていく、あの感覚を。
この思いが強ければ強いほど、深夜のスマホの光は、彼にとって「救い」の色を帯びていった。
その頃の美咲のメッセージは、以前にも増して饒舌になっていた。
「康介くん、私ね、最近ほんと調子いいの。この波、逃したくない」
「元手が大きければ、勝ちも大きくなる。当たり前だけど、これが一番大事」
「百万円あれば、月に二十万は固いと思う」
百万円。その数字を見たとき、康介の心臓が小さく跳ねた。怖さからではない。昂ぶりからだった。
手元には、二度の利益と、かき集めれば届く貯金があった。民事再生の支払いに追われていた頃の彼なら、百万円という金を動かすことなど想像もしなかっただろう。だが二度の成功が、彼の金銭感覚の目盛りを、静かに狂わせ始めていた。五十万円を動かして何ともなかった男にとって、百万円は「倍」でしかなかった。階段を一段ずつ上るように、数字への抵抗は薄れていく。
三度目の振り込みは、平日の昼、仕事の合間に行った。
百万円。送金画面の数字を確認する手は、今度は震えなかった。康介はむしろ、その落ち着きに満足していた。自分はもう、この取引の「素人」ではない。美咲を信じ、金を託し、増えて戻ってくる。その循環の中に、自分の居場所ができつつある気がしていた。
待つ日々も、以前とは違って流れていった。支店の窓口で顧客の定期預金の手続きをしながら、康介はふと思うことがあった。この人たちは、百万円を一年預けて、数百円の利息を受け取る。その一方で、自分の百万円は数週間で二割増える。世の中の金の動きは、知っている者と知らない者とで、こんなにも違うのか。――その感覚は、優越感に似ていた。長年、金融の現場にいながら「持たざる側」にいた男が、初めて「知る側」に回ったような、危うい酔いだった。
その週、河本が支店を訪れた。商店街で雑貨店を営む、六十代の店主だった。店の屋根の修繕費が想定より膨らみ、運転資金の相談だという。康介は応接の小さなテーブルで、いつものように電卓を叩き、返済計画の表を作った。河本は表を覗き込み、はあ、と息をつく。
「瀬戸さんはいつも親身でありがたい。……けどね、正直、この金利で借りて、店が回るかどうか。息子には継がせるつもりもないし、畳む時期を考えてるんですよ」
帰り際、河本は自動ドアの前で立ち止まり、情けないように笑った。
「宝くじでも当たらんかねえ」
康介は笑って送り出した。だがその日の残りの時間、その背中が目に焼きついて離れなかった。百万円あれば。百万円を、あの方法で回せば。屋根は直り、返済の目処も立ち、河本はあと何年か、店の灯りを守れるのではないか。
職員が、勤務先の顧客に投資の話を持ちかけること。それが規律に触れる行為だということは、康介にも分かっていた。だが、その夜の彼の頭の中では、規律の声より「助けられるかもしれない」という声のほうが、少しだけ大きく響いていた。
そして三度目の百万円が戻ってくる前から、彼の心の準備は、ほとんど整いつつあったのだ。
田村が来店したのは、その数日後だった。七十代半ばの、元公務員の老人である。退職金は二千万円あまり。康介の勧めもあって、その大部分は定期預金に入ったまま、もう何年も動いていなかった。
「瀬戸くん、通帳の更新に来たよ」
手続きそのものは五分で終わる。だが田村はいつも、そこからが本番だった。妻の通院のこと。離れて暮らす息子が、もう何年も帰ってこないこと。そして決まって最後に、笑いながら言うのだ。
「金はあるんだがね、増えも減りもしやせん。金庫に預けて、金庫に守ってもらってる。……まあ、それが一番安全なんだろうけどな」
その日、康介は初めて、その言葉の裏側を考えた。二千万円が、一年で生む利息は数千円に満たない。その一方で、田村の妻の通院にはタクシー代がかかり、家の段差をなくす工事の見積もりは、田村の財布の紐を固くしていた。「もったいない」と言って見積もりを引っ込めた話を、彼は聞いていた。
もし、この人の金の一部でも、自分のところで回っていれば。
危険な考えだという自覚はあった。だがその自覚は、「顧客を思う気持ち」という名札をつけると、驚くほど軽くなった。自分の利益のためではない。田村老人の、残りの人生のためなのだ。
「田村さん、また何かあったら、いつでも相談してくださいね」
そう言って見送る自分の声が、その日はやけに穏やかに響いた。
待つ間、康介は文房具店で小さな手帳を買った。銀行員らしい癖で、彼は三回分の取引を、日付と金額で几帳面に記録し始めた。
一回目 元本三〇〇、〇〇〇 戻り三六〇、〇〇〇 利益六〇、〇〇〇
二回目 元本五〇〇、〇〇〇 戻り五九〇、〇〇〇 利益九〇、〇〇〇
三回目 元本一、〇〇〇、〇〇〇 ――
三行目の「戻り」の欄は、まだ空白だった。だが不思議と、焦りはなかった。途中経過のメッセージが、その空白を埋めるように届いていたからだ。
「今のところ順調。大きく入ったから、出金の手続きに少し日数がかかるかも」
「待たせてごめんね。でも期待してて」
康介はその手帳を、机の引き出しの、いちばん奥にしまっていた。直美が手に取る場所ではなかった。秘密は、こうして少しずつ、彼の生活の中に「置き場所」を持っていく。手帳一冊分の物理的な重さが、彼の日常に加わった。
時々彼は考えることがあった。美咲の取引は本当に存在するのか、と。だが、その思考はいつも同じ場所で止まった。確かめる方法がない。いや、正確には、確かめたくない。戻ってきた金だけが事実で、それ以外のことは、彼にとって「考えても仕方のないこと」だった。金融機関に勤める男が、生涯でいちばん杜撰な与信判断をしている相手は、深夜のスマホの中の女だった。
十二日目の深夜三時五分。メッセージが届いた。
「やったよ康介くん。今回、大きかった」
百二十一万円。百万円は、二十一万円の利益を連れて戻ってきた。
康介はその夜、なかなか眠れなかった。三度の取引で得た利益の合計は、三十六万円。給料の手取りに近い額が、寝て待つ間に生まれていた計算になる。頭の中で、彼は静かに皮算用を始めた。このまま元手を大きくしていけば。あと何回繰り返せば、家のローンの繰り上げ返済が見えてくるか。息子の進学費用に、初めて「心配ない」と言える日が来るか。
民事再生をした男にとって、それは単なる欲ではなかった。失った信用を、取り戻すための道に見えた。
日曜日、直美と息子が出かけた留守に、康介は久しぶりに住宅ローンの返済予定表を押し入れから引っ張り出した。残りの返済期間、十九年。残高を見つめ、スマホの電卓で数字を打つ。利益がこのペースで続けば。元手を二百万円にできれば。数字は夢のように膨らみ、彼は途中で手を止めた。
そのとき、ふと、直美に話そうかという考えが頭をよぎった。増えた金のこと。深夜のやり取りのこと。全部話してしまえば、この胸の奥の重さは消えるのではないか。
だが、想像の中の直美の顔を見た瞬間、その考えは霧散した。あの人は、民事再生の間も、一度も彼を責めなかった。実家に頭を下げに行くときも、黙って隣に座っていた。そんな妻に、「また投資に金を託している」と、どうして言えるだろう。成功している今でさえ、言う勇気はない。ならば、結果だけを見せればいい。いずれローンを繰り上げ返済できた日に、「実は」と笑って話せばいい。その日まで、これは自分一人の秘密でいいのだ。
返済予定表を押し入れに戻し、康介は一人、昼下がりのリビングで小さく息をついた。
そしてその夜のやり取りの終わりに、美咲は初めて、その言葉を口にした。
「ねえ、康介くん」
「康介くんの周りにもさ、余裕資金のある人、いない?」
康介の指が止まった。
「私一人で回せる額には、限界があるの。でも紹介してくれたら、その人の分もちゃんと増やして返すよ。……もちろん、康介くんには内緒で上乗せする」
部屋の暗さが、少し濃くなった気がした。
「いや、それは」
打ちかけて、消した。
「考えてみる」
結局、そう返していた。
スマホを伏せて天井を見上げる。隣では直美が寝息を立てていた。康介の頭の中では、もう、名前が浮かび始めていた。
田村さん。支店の顧客で、退職金を定期預金に入れたまま、「増えも減りもしない」と笑っていた老人。面倒見のいい康介を、実の息子のように頼ってくれている。
河本さん。商店街で小さな店を営み、コロナ禍以降の売上の落ち込みと、店の修繕費の借り入れに頭を抱えていた。「瀬戸さん、どうにかなりますかね」と、窓口で情けない笑いを浮かべた人。
彼らなら。彼らだって、助かるはずだ。
自分だけが助かるのは、違うのではないか。この方法を知っていて、困っている人たちに黙っているのは、むしろ冷たいことではないか。第一、彼らは自分が信金で働き始めた頃から世話になってきた人たちだ。その人たちに恩を返す機会が、ようやく来たのではないか。
思考は、驚くほど滑らかに、一つの形に収束していった。金を集めるのではない。困っている人を、助けるのだ。
康介は暗闇の中でスマホを手に取り、連絡先の一覧を、ゆっくりとスクロールした。かつて融資の相談に乗った人、満期のたびに他行と比べて「瀬戸くんのところにするよ」と言ってくれた人。名前の一つひとつに、顔と、暮らしと、悩みが貼りついていた。指は田村の名前の上で止まり、河本の名前の上で止まった。かけるなら、昼の、正規の、自分が職員として信頼されている時間にかけよう。そう決めて、彼は画面を閉じた。その「職員としての信頼」を私的な話に使うことが何を意味するかは、考えないことにした。考える材料は、もう善意の側にすべて積み上げられていた。
康介はまだ知らなかった。その「善意の論理」こそが、美咲という女のいちばん深い罠であり、彼自身が自分の手で組み立てた、転落への階段だったことを。
深夜三時三十分。伏せたスマホが、もう一度短く震えた気がした。だが画面を開くと、通知はなかった。




