第二章 画面の中の女
最初のメッセージに返信を送ったのは、午前三時十七分だった。
「久しぶり。元気?」
「私もFXやってるよ。勝ち方、知ってるんだ」
たった二行の文章だった。康介は布団の中で身を起こし、薄暗い寝室でスマホの光を見つめた。隣では直美が寝息を立てている。階下では、高校生の息子がもう何時間も前に電気を消したはずだった。
「美咲さん? 久しぶりだね」
打ち込んで、送る前に指が止まった。林美咲。最後に会ったのはいつのことだったろう。共通の知人の結婚式の二次会か、そのまた次の飲み会か。短い髪と、笑うと少しだけ八重歯が見える顔。会話らしい会話はほとんどしていない。それが、なぜ今夜、自分にこんなメッセージを送ってくるのか。
送信ボタンを押したのは、結局、好奇心のほうが勝ったからだった。いや、好奇心ではない。「勝ち方、知っている」という一文が、その夜FXルミナスで負けたばかりの康介の胸の、いちばん痛い場所を正確に突いていたのだ。
返信はすぐに来た。
「起きてたんだ。夜型?」
「まあ、こんな時間までチャート見てた」
「あ、やっぱりやってるんだ。今夜はどうだった?」
「……負けた」
「だろうね」
だろうね、と彼女は言った。その言い方が妙に引っかかった。慰めるでも、驚くでもない。まるで最初から分かっていたかのような、静かな断定だった。
「康介くん、FXって、九割の人が負けるの知ってる?」
「知ってるよ」
「じゃあ、なんで続けてるの?」
返事に窮した。なんで、と聞かれれば答えは一つしかない。やめるわけにはいかないからだ。負けた分を取り返さない限り、あの民事再生の年月が、ただの遠回りで終わってしまう。いや、それ以上に――負けたまま終わる自分を、直美にも息子にも、見せるわけにはいかなかった。
だが、そんなことは打ち明けられなかった。画面の向こうの女は、まだ「顔見知り程度の他人」だったからだ。
「なんとなくだよ」
「ふうん」
「私と一緒だね」
私と一緒。その四文字が、また胸を突いた。
「美咲さんも、負けてるの?」
「私は負けないよ。負けられないの」
「どういうこと?」
「借金があるから」
そこから先のやり取りは、断片的だった。彼女の返信は速いときは速いが、ふっと三十分、四十分と途切れることがある。職場の休憩中なのか、誰かに呼ばれたのか。康介は聞かなかった。聞けば、自分のことも聞かれる気がしたからだ。
彼女の父親は、岡山市の郊外で小さな金属加工の工場を営んでいたという。受注が減り、設備投資の借入が残り、父親が倒れたあと、借金は彼女の肩に移った。金額は言わなかった。ただ「毎月、決まった日に、決まった額を返してる。それだけは一度も遅れたことがない」と言った。
「勝ち分はね、全部そっちに回してる。だから増えないの。増やせないの」
「増やせない?」
「返済に回さずに残しておけば、次はもっと大きなポジションを張れる。でも、それをやると返済が止まる。返済が止まったら、お父さんの工場は終わる。だから私は、いつも元手ゼロから始めるの」
康介はスマホを握る手に、汗がにじむのを感じた。
返済が止まったら終わる。その感覚を、彼は骨の髄まで知っていた。
民事再生の再生計画は、三年にわたる支払いだった。毎月、給料日に近い日に、決まった額を引き落とされる。ボーナス月には上乗せがある。支払いの遅れは、計画の取消しにつながりかねない。一度でもつまずけば、免除されるはずだった債務が全部戻ってくる。三年間、彼はカレンダーの支払い日を、家族の誕生日より正確に覚えていた。
完済した日の夜、彼は一人でコンビニの缶ビールを買って、駐車場で飲んだ。祝う相手はいなかった。直美には「借金は片づいた」とだけ言った。どの借金が、どう片づいたのか、妻は最後まで詳しくは聞かなかった。聞かれたら答えられないことを、妻もどこかで分かっていたのだと思う。
それなのに、生活は楽にならなかった。住宅ローンは残っている。息子の塾代、車の維持費、親の介護の話も出始めた。給料は上がらない。再生手続きを取った人間の名前は、信用情報に長く残る。新しい借入も、カードも、簡単には作れない。
「一発」が欲しかったのだ。人生を、もう一度だけ、自分の手に取り戻すための一発が。
その欲望の形を、画面の向こうの女は、まるで自分のことのように語っていた。
「美咲さんは、なんで俺にこんな話をするの?」
送信してから、少し後悔した。疑っているように聞こえるかもしれない。だが、返ってきた答えはあっさりしたものだった。
「康介くんも、返してる側の人間だと思ったから」
「……なんで分かるの」
「二次会のとき、端っこの席で、支払いの電話をしてたでしょ。あの頃から大変そうだった。私、そういうの見ちゃうんだよね。自分と似た匂いがする人」
覚えていない。いや、覚えていないはずなのに、否定もできなかった。あの頃の自分は確かに、いつも何かに追われて、笑いながら席を立っては廊下で電話をしていた。
人は、自分の傷を言い当てられると、相手を身内だと思い込む。康介はその夜、美咲に対して抱いていた「他人」という感覚が、一段、音を立てて崩れるのを感じた。
彼女の話は、その後少しずつ、具体的な輪郭を持ち始めた。
父親の工場は、プレス機が三台と、従業員が四人。自動車部品の下請けで、最盛期には二交代で機械を回していたという。リーマンショックのあと受注が細り、銀行から勧められるままに新しい機械を入れ、その返済が始まった頃に父親が脳梗塞で倒れた。工場は畳んだが、借金は残った。母親はパートに出て、彼女は昼の仕事と掛け持ちで返済を続けてきた――はずだった。いまの「夜の仕事」が何なのか、そこだけは靄がかかったように曖昧だったが、返済の話になると、彼女の言葉は急に細部を持った。
「返済日は毎月二十七日。前倒しになったことは一度もない」
「額は?」
「……言わない。言ったら引くでしょ」
「引かないよ」
「じゃあ、言わない理由は、私の最後の意地。康介くんにも、あるでしょ、そういうの」
最後の意地。その言葉に、康介は何も返せなかった。
彼にもあった。民事再生の申立てを決めた夜、司法書士の事務所からの帰り道、彼は車の中で一人、ハンドルに額をつけて長いこと動けなかった。情けなさと、情けなさの裏側にある妙な安堵とで、頭の中がぐちゃぐちゃだった。家族には「商売の知人の連帯保証で、少し揉めている」と嘘をついた。本当のことを言えば、妻の目に映る自分が、夫でも父でもない、ただの「借金を踏み倒した男」になる気がしたのだ。
その嘘は、結局、家計の数字の合わなさという形で少しずつ綻び、直美は多くを悟ったのだろうと思う。だが妻は責めなかった。責めない代わりに、家計簿は妻が握るようになり、康介の小遣いは、再生計画の支払いが終わった今も、同僚よりずっと少ない額のままだった。四十一歳の男の財布の中身など、誰も知らない。知らないからこそ、彼は外では「真面目な信金の瀬戸さん」でいられた。
彼女が借金の額を言わないのは、たぶん同じことなのだと思った。言わないのではなく、言えば自分の全部が、その金額に還元されてしまう気がするのだろう。借金というものは、額の問題であると同時に、尊厳の問題でもある。康介はそう信じていたし、だからこそ彼女の沈黙を、嘘ではなく意地として受け取ることができた。
「お父さんは、今は?」
「施設。たまに会いに行く。私の顔は分かるみたい。借金のことは、もう覚えてないと思う。それでいいの」
「……そうだな」
「康介くんは優しいね。でも、優しい人ほど、こういう話は聞いちゃだめなんだよ。本当は」
その言葉は、警告のようにも、甘えのようにも聞こえた。康介は「大丈夫だよ」とだけ返した。大丈夫の根拠など、どこにもなかったのに。
それから、夜が変わった。
彼女からの連絡は、決まって深夜だった。早い日で午前一時過ぎ、遅い日は四時近く。康介は寝室ではなく、リビングのソファでスマホを握るようになった。直美には「最近、眠りが浅くて」と言った。嘘ではなかった。だが、眠れないのではない。眠る前に、彼女からの通知を確認するのが習慣になっていたのだ。
「今夜は三勝一敗。プラス一万八千」
「すごいな」
「運じゃないよ。入る場所を決めてる。感情で入らない。それだけ」
「教えてくれよ、その入り方」
「だめ。私の生活がかかってるもん」
彼女は時折、その日の取引の結果だけを短く送ってきた。勝ちが続く日もあれば、「今日は手出しなし。こういう日が大事」とだけ言う夜もあった。その抑制の効いた言葉遣いが、康介にはかえって信用できた。画面の中の人間が本当に相場で食っているのだとしたら、きっとこういう人間なのだろう、と思った。
一方で、奇妙なことも増えていった。
ある日曜の昼過ぎ、康介は買い物帰りの車の中で、何気なくメッセージを送ってみた。
「今日は休み? 天気いいね」
既読はつかなかった。夕方になっても、夜になっても、返事はなかった。返信が来たのは、その日の午前二時五十分だった。
「ごめん、昼は寝てた。夜の仕事なの」
夜の仕事。彼女はそう言った。何の仕事かは言わなかった。康介も聞かなかった。聞かないことが、この関係の暗黙の礼儀のような気がしていた。深夜しか起きていない人間。昼の顔を持たない人間。それは不自然なはずなのに、康介はその不自然さに、目を逸らす理由をいくつも用意していた。水商売かもしれない。介護の夜勤かもしれない。聞けば彼女を追い詰める。詮索は野暮だ――。
本当の理由は、もっと自分勝手なものだったかもしれない。彼女の素性を深く知れば、こちらも自分の素性を話さなければならなくなる。民事再生のこと。完済してもなお続く苦しさのこと。負けを取り返したくて、夜な夜な画面を見つめている惨めな自分のこと。それらを言葉にしたくなかった。だから彼は、彼女の「昼の不在」を、自分の「夜の顔」と引き換えに、そっと棚に上げ続けた。
彼女のFacebookのページも、あらためて見返すと、奇妙なほど薄かった。プロフィール写真は数年前のものらしい一枚だけ。投稿は、数か月に一度、どこかの空や、店先の花の写真が上がるだけだった。友達リストは非公開。出身地の欄は空欄。かつて共通の知人の投稿に写っていたはずの彼女の姿を、康介はどうしても思い出せなかった。八重歯が見える笑顔だけが、記憶の中でやけに鮮明だった。
ある夜、彼はふと尋ねた。
「美咲さんって、今どこに住んでるの?」
「岡山だよ」
「市内?」
「うん。……ねえ、詮索はなしにしよう。お互い」
その一文で、会話はそこで終わった。翌日――いや、翌日の深夜、彼女は何事もなかったように、その日の勝敗を送ってきた。康介はほっとして、同時に、自分がほっとしたことに気づかないふりをした。
気づかないふりは、うまくなっていった。
昼の職場では、何も変わらなかった。窓口の向こうで、康介は年金の受取口座の変更手続きを手伝い、定期預金の満期を迎えた老夫婦に利率の説明をした。若い頃から変わらない、落ち着いた口調。支店の人間で、彼の夜を知る者は一人もいなかった。二年前に課長代理に上がったとき、上司は言った。「瀬戸は、客の信頼が厚い。それが何よりの実績だ」。信頼。その言葉を聞くたびに、彼は小さく誇らしく、同時に小さく後ろめたかった。信頼されている人間の内側に、どれほどの借金と焦燥が渦巻いているかを、顧客たちは知らない。知らないからこそ、信頼は保たれるのだ。
だからこそ、夜の彼女とのやり取りは、彼にとって「素顔でいられる唯一の場所」になっていった。直美の前では「片づいた借金」の夫であり、職場では信頼厚い職員であり、息子の前では余裕のある父親のふりをしなければならなかった。演じていない自分でいられるのは、顔の見えない、昼の存在しない、あの画面の中だけだった。
ある夜、小さな綻びがあった。
「この前言ってた、お父さんの施設、市内の南のほうだっけ」
「うん、そう。……あれ、そんなこと言ったっけ」
「言ったよ」
「そっか。私、最近ボケてきたかな」
彼女は笑う絵文字で流した。だが康介の記憶では、彼女は施設の場所どころか、施設に入っていること自体、その夜初めて口にしたはずだった。事実、スクロールして遡ってみても、「施設」という言葉は過去のやり取りのどこにもなかった。
心臓が、ひとつ大きく打った。
なぜ彼女は、言っていないはずの話を「言ったっけ」と受けたのか。単に話を合わせただけかもしれない。深夜の会話だ、記憶違いなどいくらでもある。だが別の可能性もあった。似たような話を、彼女が「別の誰か」とも交わしている可能性。その誰かとの会話と混同した可能性。
康介はしばらく画面を見つめ、そして通話履歴でも開くように、自分の疑いをそっと閉じた。彼女の言葉を疑えば、この場所は失われる。借金と戦う同志は消え、残るのは負け続ける自分一人だ。それが、耐えられなかったのだ。
疑惑を葬った夜更け、彼は自分に言い聞かせた。人は誰だって、多少の嘘や取り違えはある。完璧な人間などいない。大事なのは、彼女が返済のために必死で戦っているという、その一点だ。その一点だけは、嘘であるはずがない。
――なぜなら、それは自分の姿そのものだったから。
直美に変化が現れたのは、その頃だった。朝、食卓で味噌汁をよそいながら、妻は何気なく言った。
「最近、あんた寝不足だね。顔に出てる」
「仕事が立て込んでて」
「ふうん。……体だけは大事にしなよ。受験、来年だし」
それだけだった。妻はそれ以上何も聞かなかった。責めも、詮索もない。それがかえって、康介の胸に重くのしかかった。民事再生のときもそうだった。この人は、いつも肝心なことは聞かない。聞かないことで、家族を守っている。自分は、その沈黙に甘えてばかりいる。
返信の文体が、日によって微妙に違うこともあった。ある夜は句読点が多く、ある夜はほとんどない。絵文字を使う夜と、使わない夜。別人なのではないか、という考えが一瞬だけ頭をよぎったこともある。だが彼はその考えを、すぐに笑って打ち消した。寝不足の頭が考えることだ。女の気分は日によって変わるものだ。それに何より――彼女を疑うことは、彼女の話に救われている自分を疑うことだった。
同類だと思っていた。同類でいてほしかった。借金を返しながら、それでも諦めずに相場と向き合う人間が、この街のどこかにもう一人いる。その想いが、民事再生を終えたあとも報われない毎日に耐える、ささやかな支えになっていた。
一度だけ、康介は自分のことを話そうとしたことがある。
「俺もさ、実は――」
打ちかけて、止めた。画面の向こうで、彼女の入力を示す表示が点滅している。
「なに?」
「いや、なんでもない」
「言いかけてやめるの、ずるい」
「……俺も、返してた側なんだよ。数年前まで。三年かけて、やっと終わった」
それは、家族にすら正確には話していないことだった。妻にも、親にも、職場の誰にも言っていない「民事再生」という言葉の輪郭を、彼は初めて、他人の前に差し出した。
返信は、しばらく来なかった。やがて、一文だけが届いた。
「終わったんだ。それって、すごいことだよ。ほとんどの人は逃げるのに」
逃げる。その言葉の選び方に、彼はどきりとした。まるで彼女が、逃げた人間を間近で見てきたかのような言い方だった。父親のことだろうか。彼女の借金の、もう一つの顔のことだろうか。聞き返そうとして、やめた。今度は彼のほうが「詮索はなし」の約束を守る番だった。
「美咲さんは、終わりが見えてるの? その借金」
「見えてはいる。遠いけどね。だから勝ち続けるしかないの」
「もし、勝てなくなったら」
「そのときは、そのとき。……ねえ、人の弱いところ、掘るのやめよう。お互い、ね」
彼女はいつも、核心に近づくと、こうして軽く笑って話を逸らした。その軽さが、傷の深さの証しのように思えて、康介はますます彼女を放っておけなくなっていった。救われたい人間が、救いたいと思う相手を見つけたとき、それは優しさではなく、一種の共依存なのだと、のちに彼は思い知ることになる。だが当時の彼にとって、彼女の存在は、夜ごと自分を肯定してくれる唯一の証人だった。同志であり、鏡であり、そして何より、「この苦しみは自分だけではない」と教えてくれる人だった。
十一月の終わり、夜の冷え込みが強くなった頃だった。息子の大学受験の話が食卓に上り、塾の冬期講習の費用のことで、直美と短い口論になった。康介はその夜、ソファで長いこと天井を見ていた。スマホが震えたのは、午前三時を少し回った頃だった。
「起きてる?」
「起きてる」
「今日ね、三連勝だった。……でもね、康介くん」
入力中を示す表示が、点いては消え、点いては消えた。長い沈黙のあと、短い一文が届いた。
「私、今月ピンチなの」
「どうしたの」
「返済の額、今月だけ大きい月なの。ボーナス払いの月。でも元手がゼロだから、今月の私は、ただ指をくわえて相場を見てるだけ。勝てる場所が目の前にあっても、入れないの」
康介は画面を見つめた。彼女がここまで弱さを見せたことはなかった。
「……いくら必要なの」
送信するまで、長い時間がかかった気がした。実際には十秒ほどだったろう。返信は、意外なほど早く来た。
「三十万」
「三十万あれば、回せる。今月を乗り切れば、私はまた元に戻れる」
三十万。
その数字を見た瞬間、康介の頭の中では、別の数字が次々と浮かんでは消えた。定期預金の残高。今年はまだ崩していない、数少ない貯え。息子の受験費用として、直美が別に分けて管理している口座。使ってはいけない金の輪郭を、彼は痛いほど正確に思い描くことができた。
返済のために戦う人間が、元手がないばかりに戦えない。それは、かつての自分だった。あの三年間、給料が入るたびに、増やすどころか減らすことしかできなかった自分。誰か一人でも、あのとき自分に「回す金」を貸してくれる人間がいたら――。
「貸す」のか、「託す」のか。自分は何をしようとしているのか。言葉にすればするほど、答えは遠ざかった。
「少し、考えさせて」
「うん。無理はしないで。……ごめんね、変なこと言って」
画面が暗くなった。リビングの時計は、午前三時四十分を指していた。康介はソファに座ったまま、窓の外の、まだ星の見える夜明け前の空を眺めていた。三十万。その金額は、彼の人生にとって、大きいのか小さいのか。失ってはいけない金であることだけは、分かっていた。
分かっていたのに、眠りにつくまでのあいだ、彼の指は、暗くなった画面を何度もなぞっていた。まるで、もう一度あの数字を見れば、違う答えが書いてあるかのように。




