第一章 午前三時のメッセージ
午前二時を回っていた。
瀬戸康介は、居間のソファに浅く腰掛け、膝の上でスマートフォンを握っていた。画面の中では、ドル円のチャートが細かく明滅している。一分足。赤と青のローソク足が、彼の意思とは無関係に、上へ下へと震えていた。
FXルミナスの取引画面は、慣れると恐ろしいほど単純だった。ドル円のチャートを見て、「買い」か「売り」か。ボタンは二つしかない。レバレッジをかければ、元手の何倍もの金額が動く。相場が思惑どおりに動けば、数分で含み益が膨らむ。逆に動けば、含み損が証拠金を食い潰し、ロスカットで一気に決済される。カジノのルーレットよりも素っ気なく、パチンコの台よりも静かだった。音もなく、金だけが吸い込まれていく。
一万円分の売りポジションを持った。下がると読んだ。根拠らしい根拠はなかった。強いて言えば、この一時間ほど上がり続けているから、そろそろ下がるだろうという、それだけだった。
数分が過ぎた。相場は、ほんのわずか、上がっていた。膨らむ含み損から目をそらすことができず、彼は決済のボタンを押した。
残高が一万円減った。
康介は画面を閉じなかった。むしろ指は、もう一度注文の画面を叩いていた。次は二万円分のポジションだ。負けを取り戻すには、ロットを倍にするのがいちばん早い。――その理屈が破滅の入り口だということは、頭のどこかでは分かっていた。分かっていながら、指が止まらなかった。負けたまま眠ることが、どうしてもできなかったのだ。負けたまま眠れば、明日の自分が、今日の負けを引き受けなければならない気がした。
二万円も消えた。
台所の冷蔵庫が、低く唸るような音を立てた。寝室のほうでは、妻の直美と、高校二年の息子が眠っている。物音を立てないよう、康介は息を殺して画面を見つめ続けた。今日はもうやめよう。そう思ってから、もう三十分が過ぎていた。
今夜の負けは、四万八千円になっていた。
月の給料の、手取りの五分の一近く。それが、居間のソファの上で、音もなく消えた。康介はスマートフォンを伏せ、両手で顔を覆った。天井の隅に、買ったときから張り替えていないクロスの継ぎ目が見えた。この家も、今年で築九年になる。
四十一歳。せと信用金庫に勤めて、十九年。真面目に働いてきたつもりだった。遅刻もなく、ノルマに追われながらも顧客の信頼だけは裏切らないよう気をつけてきた。なのに、なぜ自分は深夜二時に、こんな画面とにらめっこをしているのか。
答えは、分かっていた。分かっているからこそ、目を逸らしたかった。
金が、足りないのだ。ずっと、足りていないのだ。
康介の給料は、地方の信用金庫の職員としては標準的なものだった。年収にすれば五百万円台。年齢を考えれば、決して悪くないはずだった。だが彼の家計には、他の家にはない「重り」がついていた。住宅ローンの返済は月々十一万円。ボーナス払いを併用して、ようやく組めた金額だった。それに、息子の塾代、車の維持費、固定資産税、親へのわずかな仕送り。計算すれば、彼の給料は、入ったその月の中に、ほとんど静かに消えていく構造になっていた。
貯金は、ほぼなかった。いや、正しくは、あった時期もあった。結婚した頃、子どもが生まれた頃、二人で少しずつ貯めた時期も確かにあった。それがいつからか、冠婚葬祭や車検や家電の故障のたびに削られ、やがて底が見え、そして――底を、割った。
朝になれば、康介は別人だった。
六時半に起き、シャツに袖を通し、七時四十分には自宅を出る。支店までは車で二十分。開店前の八時過ぎには、シャッターの前で顔なじみの商店主と天気の話をしている。せと信用金庫の彼の支店は、地域の人間にとって銀行以上に「顔の見える場所」だった。融資の相談、相続の手続き、孫の教育資金。窓口に座れば、人の一生の節目に立ち会うことになる。
康介は、その仕事が嫌いではなかった。むしろ、人に頼られることに、確かな誇りを持っていた。若い頃に支店長から言われた言葉を、今も覚えている。「金庫の職員はな、人の財布の中まで見せてもらう仕事じゃ。だからこそ、こっちの腹の中は、いつもきれいにしておかんといけん」
腹の中は、きれいではなかった。だが、仕事中の彼は、それを微塵も表に出さなかった。顧客の返済計画には何時間でも付き合い、無理のある借り換えには「やめておきましょう」と言える職員だった。同僚からの評価も悪くなかった。四十一歳、係長。このまま行けば、あと数年で支店長代理、ゆくゆくは支店長。地方の信用金庫マンとして、堅実で、順当な道が彼の前には敷かれていた。
その道の脇で、彼は毎晩、奈落のような画面を開いていた。
なぜなのか。給料が入っても月末には消える家計。終わりの見えないローン。「順当な道」を歩き続けた先にある老後への、静かな絶望。すべての理由は本物だった。だが理由が本物であることと、その先に選んだ手段が正しいこととは、別の話だった。彼はその区別を、深夜のソファの上だけで、いつも見失った。
すべては、思い出すのも苦い、あの数年間のことだった。
三十二歳のとき、康介は家を買った。
岡山市の郊外、田畑の残る新興住宅地だった。土地と建物で三千八百万円。本来なら、彼の給料では身の丈に合わない買い物だったかもしれない。だが、その頃の康介は信金の窓口で住宅ローンの相談を受ける側の人間であり、「頭金なしでも組めますよ」と顧客に笑顔で勧める仕事をしていた。自分の順番が来たとき、彼はプロであるはずの自分に、甘い審査を下した。金利は今が底だ。家賃を払い続けるより、資産になる。子どもには庭のある家を。――どれも、間違った言葉ではなかった。ただ、そのすべてが、「今の自分に都合のいい言葉」だった。
ローンは組めた。審査は通った。新しい家の玄関に息子がランドセルを置く姿を見た日、康介は本当に幸せだった。あの幸せは嘘ではなかったと思う。問題は、そのあとに来た日々のほうだった。
家を持つと、金が出ていく場所が増える。固定資産税。火災保険。町内会費。外構が、給湯器が、エアコンが、時期をずらして順番に壊れていく。直美がパートに出る時間を増やしても、追いつかなかった。教育費は年々増えた。息子が中学に上がり、塾に通い始めた頃には、月末の残高が三万円を切ることが珍しくなくなっていた。
最初に手を付けたのは、クレジットカードのリボ払いだった。二万円の買い物を、月々五千円で払う。罪の意識は薄かった。給料が入れば、どうにかなる。だが「どうにかなる」は、どうにもならなかった月の言い訳として使い回されるうちに、効力を失っていった。リボの残高は雪だるま式に増えた。次に、銀行のカードローン。そして、消費者金融の看板を、初めて正面から見上げる日が来た。
請求書は、直美の目に触れないよう、帰宅前に郵便受けから抜き取るのが習慣になった。自分の給料明細さえ、まともに見せられなくなっていた。金庫の人間が、自分の家の金に嘘をついている。その事実は、彼の中で静かに腐敗していった。仕事中、窓口で老夫婦に「無理のない返済計画を立てましょう」と穏やかに告げる自分の声を聞きながら、康介は内心で、自分の月末の支払い表を思い浮かべていた。利息だけを払い、元金の減らない支払い。最低金額だけを入金して、今月も延命したことに安堵する夜。
延命。それがあの頃の家計の、正しい呼び名だった。
あの頃のことは、今も断片的にしか思い出せない。コンビニのATMで残高を確認し、思わず目を逸らしたこと。直美に通帳を見せられないまま、給料日のたびに各社の返済へ走ったこと。自転車操業という言葉を、自分のこととして理解した夜のこと。
借金の総額が、六百万円を超えた頃だったと思う。康介は、岡山市内の司法書士事務所のドアを叩いた。
「自己破産、ですか」
相談室で、康介はまずそう聞いた。金融機関に勤める人間が破産をすれば、まず職を失う。いや、失う以前に、勤め先に知られた時点で終わりだ。
司法書士は、静かに首を振った。
「あなたの場合、給与所得者等の民事再生が使えます。安定した収入がある。住宅ローンは、住宅資金特別条項で家を残しながら支払いを続けられる。借金は、法律で定められた最低弁済額まで圧縮されます」
再生計画では、六百万円超の借金が、百五十万円ほどまで圧縮された。それを三年間、毎月きちんと支払っていく。認可決定が出た日、康介は帰りの車の中で、ハンドルを握ったまましばらく動けなかった。情けなさと、安堵とが、同じ涙腺を刺激した。
あの三年間は、長かった。
月々の再生の支払いは四万二千円。それに住宅ローンの十一万円。この二つだけで、給料の半分近くが月初に消えた。追い打ちをかけるように、支出は待ってくれなかった。三年目の冬には給湯器が壊れ、修理代に十四万円かかった。その月、康介は自分の昼食を抜く日を作って帳尻を合わせた。誰にも言わなかった。言えば、家族に心配をかける。それが彼の流儀であり、同時に、彼がのちに繰り返すことになる過ちの型でもあった。抱え込む。隠す。一人でなんとかしようとする。――善意と自尊心の裏側で、それはいつも静かに腐っていった。
ボーナスは全額、再生の支払いと住宅ローンに消えた。直美は何も文句を言わなかった。「言わなかった」のであって、「思わなかった」のではない、と康介は分かっている。息子の部活の遠征費を捻出するために、彼女が自分の服を三年間、一着も買わなかったことを、彼は後から知った。家族旅行は一度もなかった。外食は、回転寿司が年に数回。それでも彼は、一度も支払いを遅らせなかった。それだけが、転落した男の、最後の意地だった。
完済したのは、二年前の春だった。
申立代理人から完済の知らせを受け取った日、康介は四十歳になっていた。免責――いや、再生手続きの終結。書類の上では、彼は「終わった人」になった。六百万円の闇から、三年かけて這い上がった。それは間違いなく、彼と家族の努力の成果だった。
――なのに。
完済した日の夕食は、直美が奮発して、ささやかな刺身の盛り合わせが食卓に並んだ。
「終わったね」と直美が言った。
「終わった」と康介は答えた。
それ以上の言葉は、二人とも持ち合わせていなかった。祝うというより、長い病気の看病を終えた家族のような、静かな疲労が食卓にはあった。息子は事情をよく知らないまま、「今日、なんか豪華じゃな」と無邪気に箸を伸ばした。その笑顔を見て、康介は決めたはずだった。二度と、家族にこんな思いはさせない。借金という言葉を、この家に二度と持ち込まない。
決めた、はずだったのだ。
完済してからの生活が、再生前より楽になったかといえば、そうでもなかったのである。住宅ローンはあと二十六年残っていた。息子は高校に上がり、大学進学を口にするようになった。直美のパートの収入は、物価の上昇に食われていった。完済とは、スタートラインに戻ったということでしかなかったのだ。そして、そのスタートラインは、四十一歳の男にとって、残りの人生の距離を思うと、あまりに遠くに感じられた。
このままでは、老後が持たない。
漠然とした不安は、やがて具体的な数字への渇望に変わっていった。月三万円でもいい。いや、五万円。副収入があれば、息子の進学も、老後の備えも、霧が晴れるように見通しが立つはずだ。だが信用金庫の職員に、副業の自由はない。投資信託や株式は、職場への届け出やら何やらで面倒が多い。
ちょうどその頃、職場で奇妙な相談を受けたことがある。
窓口に来た七十代の常連客が、息子に勧められたという「必ず儲かる海外の投資」の話を持ち込んできたのだ。元本保証で、月利三パーセント。知人の紹介でしか入れない特別な枠。康介は即座に答えた。
「それは、やめておいたほうがいいです。『必ず』と『元本保証』。この二つが並んだ儲け話で、本物だった例は、私は知りません」
客は納得して帰っていった。その後ろ姿を見送りながら、康介はふと苦い気持ちになった。金融機関の職員として、言うべきことを言った。間違っていない。間違っていないはずなのに、自分の言葉が、どこか遠い場所で反響して、自分の胸に返ってくるような気がしたのである。
その夜、深夜の布団の中で、彼はある広告を見つけてしまった。
「スマホで簡単」「レバレッジで大きく稼げる」「初心者でも勝てる」。
広告の言葉は、どれも安っぽかった。安っぽいと分かっていた。それでも康介は登録し、まず一万円を入金した。一万円なら、負けても生活には響かない。そう思える金額から、人は堕ちていく。
最初の数週間は、勝っていた。
いや、「勝っていた」と記憶している、と言うほうが正確だろう。人間は、自分の都合のいい部分だけを、鮮やかに覚えておく生き物だ。レバレッジをかけた小さな元手が、一万九千円に膨らんだ夜のことは、今でも手の感触まで思い出せる。布団の中で小さくガッツポーズをした。誰にも見せられない、四十男の、惨めで切実な喜びだった。
二か月で、入金額は累計三十万円を超えた。勝ち負けを繰り返しながら、残高は水面を出たり入ったりしていた。だが四か月目に入った頃から、潮目が変わった。連敗が続いた。取り戻そうとしてポジションが大きくなり、大きくなった分だけ、負けの速度も上がった。トータルで見れば、彼は確実に負けていた。だが、その「トータル」を、康介は一度も直視しなかった。見るのが怖かったのではない。見てしまえば、やめるしかなくなる。やめるということは、「一発逆転」の可能性を、自らの手で葬るということだった。借金地獄から這い上がった男が、また同じ坂道を転がり落ちていく姿を、彼はどうしても認めたくなかったのだ。
入金には、直美に内緒の金を使った。月々の小遣いを削り、昼食をコンビニのおにぎり一つにし、それでも足りない分は、完済したはずのカードのキャッシング枠に、再びそっと手を伸ばした。枠は生きていた。民事再生を終えた男にも、機械は無言で金を貸した。その無言さが、康介には優しさのようにすら思えた。恐ろしいことだった。
その晩、夕食の卓で、直美が何気なく言った。
「あんた、最近、顔色悪いよ。寝てる?」
「寝てるよ」と康介は笑った。「ちょっと仕事が立て込んでてな」
嘘ではなかった。仕事も立て込んでいた。だが顔色の悪さの正体は、別のところにあった。
「無理せんように。あんたが倒れたら、この家はそれこそ回らんのじゃけえ」
直美は、味噌汁の碗を置いて、テレビのニュースに目を移した。責めるでもなく、詮索するでもない、ただの日常の言葉。だが康介の胸には、その言葉が重くのしかかった。彼女は知らない。夫が深夜、家族の寝息のそばで、画面の中に小遣いを溶かし続けていることを。知らないまま、「あんたが倒れたら回らない」と言えるほどに、この家の家計が夫一人の給料にぶら下がっていることを、彼女のほうが彼より正確に理解しているのだった。
「息子な、進学、どうするんかね」直美が言った。
「本人が行きた言うなら、行かせてやらんとな」
「お金、大丈夫なん?」
「……なんとかなる」
なんとかなる。あの頃、自転車操業の只中で何度も口にした言葉だった。また同じ言葉を、彼は妻に言っていた。味噌汁の湯気の向こうで、直美は小さく頷いただけだった。彼女はそれ以上聞かなかった。聞かないことが、この家の夫婦の、長年の約束事のようになっていた。再生手続きの三年間を、文句ひとつ言わずに耐えた女は、夫の「なんとかなる」を、信じたふりをして受け取る術を覚えてしまったのだ。
康介は箸を置いて、ふと窓の外を見た。住宅地の夜は静かだった。どの家にも、それぞれのローンがあり、それぞれの事情があるのだろう。みんな、どうやって回しているのだろうか。みんな、ちゃんと眠れているのだろうか。
食卓を離れるとき、康介の目に、冷蔵庫の扉に貼られた一枚の紙が留まった。息子の通う塾の、夏期講習の案内だった。受講料、八万四千円。小さな文字で「兄弟割引あり」と書かれていたが、この家に兄弟はいない。
息子の部屋のドアは閉まっていた。中からは、イヤホンで聞いているのだろう動画の音漏れが、かすかに聞こえた。来年の今頃は受験生になる。志望校は県内の私立大学だと言っていた。国公立なら、と康介は言いかけたことがある。学費の差を思ってのことだったが、息子の曇った顔を見て、それ以上は言えなかった。子どもに金の心配をさせる親には、なりたくなかった。なりたくなかったからこそ、彼は金のことで頭がいっぱいだった。矛盾していた。だが、その矛盾こそが、彼という人間の正体だったのかもしれない。
塾の夏期講習代、八万四千円。それを捻出する算段を考えながら、康介は自室代わりの和室で着替えた。ボーナスで払えばいい。ボーナスは、住宅ローンの夏季分で半分消える。残りで、固定資産税と車の保険。計算は、いつも紙の上では合った。合わないのは、紙の上に載らない支出のほうだった。
その夜も、康介は眠り損ねた。
日付が変わる頃には布団に入ったのに、天井の木目を数えているうちに一時間が過ぎていた。頭の中で、家計の数字がぐるぐると回っていた。ローン残高、息子の進学費用、車検、税金。考えれば考えるほど、眠りは遠ざかった。
結局、彼は起き上がった。寝室を出て、居間のソファに座り、習慣のようにFXルミナスのアプリを開いた。開けば何かが変わるわけではない。むしろ悪くなるほうが多い夜だった。それでも、開かずにいられなかった。為替のチャートは、彼の人生の不確定要素の中で、唯一「数分で結果が動く」ものだった。買いか、売りか。含み益か、含み損か。人生のほうは、そうはいかない。ローンの終わりは二十六年先で、老後の答えはまだ霧の中にあった。だからこそ彼は、数分単位の短期売買に、吸い寄せられるように戻ってきてしまうのだった。
この夜の負けは、早かった。
一万円、負けた。取り戻そうと持った一万円分のポジションも、負けた。三度目は三万円に増やして、負けた。指が震えていた。残高は、この二か月で溶かした金額を合わせれば、もう四十万円に近づいていた。四十万円。息子の一年分の塾代に近い金が、深夜のソファの上で、少しずつ、しかし確実に、どこか遠い国のサーバーの中に吸い込まれていった。
もう、やめよう。
今日は、もう、本当にやめよう。そう思って、康介はアプリを閉じた。画面が暗くなり、居間に静けさが戻った。冷蔵庫の唸り。遠くで国道を走るトラックの音。彼は伏せたスマートフォンに手を置いたまま、しばらく目を閉じた。
午前三時を、少し回った頃だった。
伏せたスマートフォンが、テーブルの上で、小さく震えた。
画面が、暗い居間の中で、ぼんやりと光った。
通知だった。
誰からとも知れない、その一条の光を、康介はしばらく見つめていた。




