プロローグ 調書の中の女
雨の音が、窓を叩いていた。
岡山県警本部の捜査二課。佐伯刑事は、異動を前に自分のデスク周りの荷物を段ボールに詰めていた。溜まった書類の束を整理していると、奥から一冊のファイルが滑り落ちた。表紙のラベルには、事件番号と、こう書かれていた。
『詐欺事件 被疑者 林美咲ほか一名』
ほか一名。その三文字の向こうにいる男の顔を、佐伯は今もはっきりと思い出すことができた。
瀬戸康介。当時四十一歳。信用金庫の職員。給与所得者等の民事再生を経験し、その支払いをすべて終えたばかりの男だった。被害者であり、加害者だった。あの事件で逮捕された人間は二人いた。一人は康介。そして、もう一人――林美咲は、短い勾留ののちに姿を消し、今も行方が分かっていない。
佐伯は椅子に腰を戻し、ファイルを開いた。
供述調書。康介の署名のあるページに、赤鉛筆で線を引いた箇所がある。佐伯自身が引いた線だった。
『彼女からの連絡は、いつも午前三時ごろでした。昼間に電話をかけても、一度も出たことがありません』
なぜ、午前三時だったのか。
あの事件の捜査で、佐伯が最後まで解けなかった謎は三つあった。
一つ目は、その時刻だ。深夜の二時から四時。彼女のメッセージは、その時間帯にしか届かなかった。昼の彼女は、どこで何をしていたのか。捜査では、彼女が昼間に別の都市でアルバイトをしていた時期があることまでは掴んだ。だが、それが午前三時とどう結びつくのかは、分からなかった。人間は都合の悪い時間に連絡を寄こすものだ、と上司は笑った。だが佐伯には、そう単純なことには思えなかった。まるで彼女は、昼の世界に「別の誰か」の目があり、夜の数時間だけ、自分の意思で動いていた――そんな印象すらあった。
二つ目は、金の流れだ。康介を含む出資者たちに戻された「利益」は、取引の勝ち分などではなかった。後に参加した出資者の元本が、先の出資者への配当に回るだけの、自転車操業。その構造自体は単純だった。解けないのは、その配当の「さじ加減」だ。返す相手と、返さない相手。返す時期と、返さない時期。あの配当表は、破綻までの時間を最大限に延ばすよう、実によく計算されていた。林美咲という一人の女が、独力で設計したものだろうか。彼女の背後に、もう一人、頭の切れる人間がいたのではないか。その疑いは、今も佐伯の中で消えていない。
三つ目は、彼女が繰り返し口にした「親の借金」だ。
彼女は康介に、親の事業の借金を返済していると語っていた。捜査で調べた限り、彼女の親に事業の借金があった形跡は、ついに見つからなかった。だが、だからといって、それが完全な嘘だったと断定する材料もなかった。借金という言葉の裏に、何か別の、彼女でなければ背負えないものがあったのかもしれない。分からない。分からないままで、捜査は終わった。
ファイルの最後のほうに、康介の最後の調書があった。
『私が戻してもらった金は、私のあとに金を出した人たちのものだったと知りました。――刑事さん、私は被害者なんですか。それとも、加害者なんですか』
佐伯は当時、こう答えた。
「あんたも被害者だ。だが、あんたの紹介で金を出した人間にとって、あんたは加害者だ」
残酷な言い方だったと思う。だが、あの言葉に嘘はなかった。康介はその言葉を、黙って、しかし真っ直ぐに受け止めた。あの事件で佐伯が出会った人間の中で、康介ほど自分の愚かさを言い逃れしなかった男はいなかった。
その後の彼のことは、風の便りに聞いた。事情を知る昔の顧客に雇われたこと、その会社も長くは続かなかったこと、そして今は、大きな住宅メーカーで営業をしているということ。前歴のある身で、よくそこまで戻ってきたものだと思う。民事再生を完済した男の粘り強さか。あるいは、守るべき家族がいる人間の意地か。
佐伯はファイルの表紙を、指で一度だけ撫でた。
林美咲は、今もどこかで生きているはずだ。名前を変え、顔つきを変え、もしかすると今夜も、どこかの街の深夜に、誰かのスマホを震わせているのかもしれない。午前三時。人がいちばん無防備で、いちばん誰かの言葉を必要としている時刻に。
時計を見ると、二十三時を回ったところだった。まだ三時ではない。
佐伯はファイルを段ボールの一番下に沈め、蓋を閉じた。
この物語は、その「ほか一名」の男、瀬戸康介の記録である。午前三時のメッセージが、一人の真面目な男の人生をどう変えていったのか。そして最後に、彼が何を選び取ったのか。
――始まりは、彼がまだ信用金庫の職員で、借金という名の重い荷物を、ようやく半分ほど下ろしかけていた頃のことだった。




