9.望むもの
右腕を休ませるよう言われてから、三週間が経った。
アルノーは医務室で、医師に言われるまま右手を握ったり開いたりしていた。
「腕を上げてください」
手を頭上まで上げても、痛みや痺れはない。そう伝えると、医者はほっとしたように笑った。
「これならば、剣を持ってもよろしいでしょう。長時間の稽古は避けていただきたいですが」
「ありがとうございます」
「それから……先日のようなことが二度とないとは言えません。握力が弱くなったり、いきなり腕が上がらなくなったりすることもあるでしょうな」
「困るなぁ」
「そうでしょうとも。だからといって無茶をなさらないでくださいよ」
「そういう意味じゃないさ」
アルノーは苦笑した。
困った話だ。動かないのであれば、まだ諦めもつくのだが。
今は異常を感じない。今朝など、うっかり右手で重い水差しを持ったのをマーガレットにたしなめられたほどだ。
医者の言うとおり、剣を握ることくらいはできるのだろう。だが、一撃を受け流してなお握っていられるかまではわからない。
診察室を出ると、廊下の壁に背を預けていたオーギュスト騎士団長が顔を上げた。再診の結果が今後の勤務を決めることになるからと、わざわざ待っていたらしい。
オーギュストに何か言われる前に、こちらから口を開いた。
「剣は持ってもいい、ただ腕が壊れない保証はないそうです」
「そうか」
オーギュストはそれだけ言うと、アルノーに背を向けて歩き出した。医務室のある棟を出て、訓練場へ面した外廊下へ出る。
アルノーは二歩後ろを歩きながら、軽口の調子で話しかけた。
「少しくらい残念そうにしてくれたっていいんじゃないですかね、団長?」
「お前の腕が動くことをかね?」
「『惜しい奴をなくした』くらい言ってくれてもいいじゃないですか」
「それはお前を埋めた後のとっておきだからな」
「俺より長生きするおつもりで? 若い奴らが気の毒だ」
「誰が気の毒だ」
オーギュストはくつくつ笑っていたが、やがて足を止めた。
「お前は戻りたいのか?」
そう尋ねられて、アルノーは後ろ髪を掻いた。
戻れるなら戻りたい、とでも言えばいいのか。だが、それは無責任だ。やりたいという意思だけで隊長が務まるわけではないのだから。
「軽く稽古くらいならできそうですがね。……隊を率いるとなれば別です」
「そうだな。私も、お前の右腕の耐久力を確かめる気はない」
「騎士を辞めろって話でもないんですよね。若い連中の稽古を見たり、次の隊長候補の相談に乗ったり?」
「うむ」
「都合のいいところだけおれを使おうとしてません?」
「今頃気づいたのかね?」
「ひどいなあ。ま、できるところまではやってみますよ。やってみて、やっぱり退役するかもしれませんけどね」
しばらく、オーギュストは黙っていた。訓練場が近い。木剣の打ち合う乾いた音や、指示を飛ばすような声がわずかに聞こえてくる。
やがて、オーギュストはアルノーを一瞥した。
「それはお前が決めることだ」
また歩き出したオーギュストの後を、アルノーはついていった。
*
遅い昼食を済ませて事務室に入ると、マーガレットは窓際の机に向かっていた。机の上には、指二本ほどの幅に切った布見本が何枚も並べられている。
「あら、お帰りなさいませ。診察はいかがでしたか?」
「いい感じ」
にこやかに右腕を上げてみせると、マーガレットは眉を寄せた。
「試していただかなくとも結構です」
素直に腕を下ろす。
「無理しない範囲で使っていいってさ」
「まあ。それはよろしゅうございました。あまり無理はなさらないでくださいませ」
「そうするよ」
アルノーは、マーガレットの隣にある椅子を引き、腰を下ろした。目の前には色とりどりの布が並んでいる。臙脂、赤支子、紺青――色が違うことくらいはわかる。
「ところで、これは何?」
「婚礼衣装の色見本です。アルノーさまもこちらから選ぶようにと、母が」
そういってマーガレットは色見本を何枚か差し出した。
「俺のも? 礼服はうちから届けさせるけど」
「シャツと襟締は新婦側で仕立てるものですから。こちらは、襟締のお色です」
アルノーは椅子の背にもたれたまま、両手に持った色見本をじっと見下ろした。なかなか一枚を選ばないので、マーガレットが横から顔を覗き込む。
「お気に召す色がございませんか?」
「いや……」
アルノーは二枚の色見本を重ね、机の上にそっと戻した。
「その……団長とも話したんだ。隊長には戻らない。というか、戻してもらえそうにない。騎士は続けるつもりで……だから、」
そこで言葉を切ったアルノーに、マーガレットが小さく首を傾げる。
――だから、君は考え直していい。
違う。それは、自分の望んでいることではない。
アルノーは椅子の背から、ゆっくりと身体を起こした。
「白樫に残りたいのは、本当なんだ。一人で暮らすのが想像できないのも。ここで暮らしたい。でも、それだけじゃないんだ」
そこでまた言葉に詰まる。マーガレットがじっとこちらを見ている。
アルノーは、小さく息を吐いた。
「君と結婚したいんだ、俺は」
言ってしまえば、それだけのことだ。
「隊長には戻れない。騎士を続けられるかさえわからない。この先どうなるかわからないってのに、君との結婚を取り下げたくないって思ってる。……これは、わがままだ」
「アルノーさま」
マーガレットが、ようやく口を開いた。
「バルタ家には、持参金を用意する余裕がございません」
アルノーは、きょとんとマーガレットを見た。
「うん。それは聞いてるよ」
「そのうえ、アルノーさまには、バルタ家に婿入りしていただかなければなりません。そんな方がそう都合よく見つかるとは、正直思っておりませんでした」
「そうかな……」
「以前、アルノーさまから、何か望むものはないのかと聞かれましたでしょう。あのときは、うまくお答えできませんでしたが」
「ああ。椅子が欲しいって?」
「今は別にございます。アルノーさまに、わたしの夫になっていただきたい」
アルノーはしばらく瞬きをした。
「……それ、俺が言うはずだったんだけど」
「先ほど仰いましたでしょう。求婚でしたら、以前に済んでおりますし」
「あれ、そうか」
「それで、襟締のお色ですが」
「じゃあ、君がいいと思うほうで」
「アルノーさまがお召しになるものですよ」
「だから困ってるんだって。どれがいいかわからないよ。今決めないと駄目か?」
「母が待っております。今日にでも布を裁ちそうな勢いですよ」
そう笑ってマーガレットは、別の色見本を取り上げた。
婚礼までの一ヶ月は、思っていたよりもずっと忙しかった。
グランヴェル家から礼服が届き、マーガレットの母からも仕立て上がったシャツと襟締が送られてきた。
白樫には、連日何かが届いた。新しい食器、寝台布、薪を一冬分寄越そうとする者まで現れた。
テレーザは何日も前から厨房を歩き回っては試作を拵え、ミランに「そんなに食べきれませんよ」と止められていた。
食堂には、見慣れない燭台が増えていた。モーリスは「せっかくいただいたものだからね」ともう一台を隣に並べ、それから、すでにまっすぐ置かれていたほうの位置を直していた。
ガスパールは騎士を集めて騎士団旗まで掲げる花婿行列を企てていたのがバレて、オーギュストにこっぴどく叱られていた。
白樫の食堂で執り行われた婚礼は、大がかりなものではなかったが、本人たちが考えていたほど静かなものにもならなかった。
それからアルノーは、バルタと名乗るようになった。




