8.頼る
お昼を過ぎますと、ロベールさまが白樫へいらっしゃいました。
ロベールさまは週に何度か食堂を利用されますから、それ自体は珍しいことではございません。ですが、食堂で、「バルタ嬢。悪いんだけど、明日から何日か、部屋を貸してもらえるかな」と話しかけられたときには、少し驚きました。
「もちろん構いませんが、何かございましたか?」
「明日から廊下のほうまで剥がすことになって、何日か寝室へ行けそうにないんだ」
なるほど、そういうことでしたか。
以前、ロベールさまの留守中に、庭木の根が隣家に迫っているとの相談を受け、代理で様子を見に伺ったことがございます。そのときにはもう床板まで押し上げていましたから、いずれ大がかりな修繕が必要になるだろうとは思っておりました。
「とうとう工事が始まったのですね」
「思っていたより広く開けることになってね。廊下の半分が床なしだ」
「まあ。それはお困りですね」
「椅子でも寝られると言ったら、ダニツァに追い出されてしまった」
「それはダニツァさんが正しいと思います」
「バルタ嬢までそう言うのかい」
「夜中に転ばれましては、職人も困るでしょう。もちろん、ロベールさまのお怪我も困りますよ」
ロベールさまが苦笑されました。
白樫には、今は誰も使っていない客室がいくつかあります。掃除は普段からしておりますから、寝具を替えたら今夜にでもお泊まりいただけるでしょう。
「では、客室をご用意いたしますね。お荷物はどちらに?」
「明日、ダニツァが寄越すそうだ。僕はこのまま仕事に戻るよ」
食堂を出かけたところで、ロベールさまは「そういえば」と足を止めました。
「改めて、この前はありがとう。あの一件があってから、ダニツァの裁量を増やしたんだ」
お宅で最初に問題が起きたとき、ダニツァさんは判断に困って、わざわざ白樫までわたしを訪ねてきました。そのことを、ロベールさまも気にしていらしたのでしょう。
「僕に尋ねずに済むことも多いからね。今回も、職人とのやり取りは任せてるんだ。どこまで剥がすかまでは聞いてなかったけどね……」
そこで少しおかしそうに笑われます。
「でも、剥がしたものを戻せとも言えないだろう?」
思わず、わたしも笑ってしまいました。
これまでお話ししたときには静かな方という印象でしたから、こんなふうに冗談めかしてお話しになるのは少し意外でした。
ロベールさまは軽く手を上げ、そのまま玄関へ向かわれました。
*
午後になるとロベールさまが戻っていらしたので、先にお部屋をご案内することにします。
二階の廊下を半ばまで進んだところで、一つの扉が開き、中から若い騎士さまが出てこられました。マルコヴィッチ隊の方です。
「あっ、隊長。お疲れさまです」
「お疲れさま。明日から何泊かお邪魔するよ」
「でしたら、この部屋をお使いになりますか?」
そう言って若い騎士さまは、自分の背後を振り返りました。そのお部屋は、ロベールさまが白樫に住んでいた頃に使っていたものなのだそうです。
「今は君の部屋だろう? どうして君が出るんだい。泊まるたび追い出すんじゃあ、落ち着いて遊びにも来られないよ」
ロベールさまは少々呆れたようにおっしゃいました。
東の客室を開けますと、ロベールさまは室内をひととおり見回しました。
「お湯は夕食のあとにご用意いたしますね」
「そこまでしてもらわなくてもいいよ。湯殿は使えるんだろう?」
「ですが今のロベールさまは、お客さまですから」
「ああ、そうか」ロベールさまは小さく笑いました。「いまは客か」
*
翌朝、ダニツァさんがいらっしゃいました。後ろからロベールさまも歩いて来られます。
「お嬢さま、旦那さまがお世話になります」
「どうぞお気遣いなく」
「最初は椅子で寝るなんて言ってたんですよ! 床板を端から端まで剥がしてるってのに」
「聞こえてるよ、ダニツァ」
後ろからロベールさまが声を掛けられました。
「そうおっしゃいますがね、旦那さま、本当のことでしょう? 便所へ行くにも困るでしょうに」
「そこまで僕の予定を決めないでほしいな」
「では朝まで、椅子から一歩も動かないとおっしゃる?」
「そこまでは約束できないね」
「ほうら、ごらんなさい」
ダニツァさんは勝ち誇った顔のまま、わたしへ革鞄を差し出しました。
受け取ろうと手を伸ばしたところへ、アルノーさまが歩いてこられました。今日は騎士服ではなく、ゆったりした服装をしていらっしゃいます。
ロベールさまはその格好を見て、首を傾げました。
「アルノーはずっとこっちにいるのか?」
「剣は持つなって言われてるからね。やることがなくなって暇なんだよ」
そう言いながら、アルノーさまは革鞄を左手で受け取られました。
「俺が連れていこう。ほかに何かいる?」
「洗面の水差しがまだです」
「じゃあ、見ておくよ」
アルノーさまが階段を上がっていくと、ロベールさまもそのあとをついていかれました。
ダニツァさんに呼ばれ、わたしはそちらへ向き直ります。
「あ、そうだお嬢さま。旦那さまに、床板はこっちで頼んでおきますからって伝えておいてくださいな」
「ダニツァ!」
階段の上から、ロベールさまが顔をのぞかせます。
「旦那さまのおっしゃるとおりにいたしますとも!」
「それならいい」
ロベールさまが顔を引っ込めると、ダニツァさんはすぐに鼻を鳴らしました。
「こういうところは細かいんですから、うちの旦那さまは」
「聞こえてるよ!」
「聞こえるように言ったんです!」
階段の上から、アルノーさまの笑い声まで聞こえてきました。
夕食時には、ロベールさまも皆さまと一緒に食堂へいらっしゃいました。アルノーさまもいつもの席にいらっしゃいます。
食事が終わりかけた頃、空いた皿を下げた若い騎士さまの一人が、アルノーさまのほうへ身を乗り出しました。
「隊長、明日の訓練なんですけど、午前は若い連中から始めたほうがいいですか?」
「それはガスパールに聞いて。今はあいつが組んでるから」
「あ……そうでした。すみません」
若い騎士さまは、ばつが悪そうに小さく項垂れました。そのようすに、アルノーさまが苦笑しています。
「そんな落ち込むなよ。別に怒ってないぞ」
「いや、そうじゃないんですけど」
困ったように頭を掻いてから、今度は少し考えるようにアルノーさまを見ました。
「……また、稽古を見てもらってもいいですか?」
「まあ、見るだけならいくらでも」
「本当は、隊長に相手してもらえるのが一番なんですけど……」
アルノーさまは笑いました。
「しばらくは口だけで我慢してくれ」
「はい」
若い騎士さまも笑って、立ち上がりました。
アルノーさまはその背中を見送ってから、左手で自分のカップを取り、今度は隣の席の騎士さまに何事か話しかけます。すぐに笑い声が返ってきました。
*
ロベールさまが白樫へ泊まられるようになって、三日が経ちました。
そのあいだも、アルノーさまは以前より長く白樫にいらっしゃいます。ご本人はいつもと変わらないように見えますが、左手をお使いになることが増えました。
朝食が終わって少し経つと、マルコヴィッチ家から使いの方がいらっしゃいました。
床は通れるようになったそうで、いつ戻っていただいても構わないとのことでした。使いの方から預かった短い言伝をそのままロベールさまへお伝えすると、「そう。じゃあ帰ろうかな」とおっしゃいました。
「では、荷物をまとめてくるよ」
そう言って、ロベールさまはいったん客室へ戻られました。
しばらくして、革鞄を手にもう一度降りてこられます。もう片方の手には、客室の鍵を持っていらっしゃいました。
「お世話になりました」
「とんでもございません」
鍵を受け取り、玄関までお見送りいたします。
ロベールさまは門を出て、そのままご自分のお宅へ戻っていかれました。
姿が見えなくなるまで見送ってから、わたしは門を閉めて白樫のほうへ向き直りました。玄関先には、アルノーさまがいらっしゃいました。
「ロベールのやつ、もう帰ったのか?」
「ええ」
「早いなあ。もう一晩二晩は居座るかと思ったのに。楽しそうだったし」
アルノーさまは門のほうをちらりと見てから、こちらへ向き直りました。
「そうだ。今日は昼から団に顔を出すけど、それまでに何か手伝うことある?」
わたしは少し考えました。
アルノーさまから伺ったところ、右手の痺れはまだ残っていて、日によっては以前より強く感じることもあるそうです。以前のように力仕事をお願いするわけにはまいりません。
まず、薪運びは駄目です。水桶をお持ちいただくのもよろしくないでしょう。窓の修繕も、しばらくはお任せしないほうがよさそうです。
「今日は、お願いすることはございません。ありがとうございます」
「うーん。そっか」
アルノーさまが、少々残念そうに頷きます。
「じゃあ食堂でも聞いてみるよ」
「そうしていただけると助かります。お昼はこちらで召し上がりますか?」
「うん。そのつもりだけど」
「そうですか」
それならよかった、と言いかけて、わたしは慌てて口を噤みました。どうしてそんなことを言おうとしたのでしょう。
「では、お昼もいつもどおりご用意いたしますね」
アルノーさまは「ありがとう」と笑って、いつものように食堂のほうへ歩いていかれました。




