7.尾を引く
翌朝、アルノーが稽古場へ出ると、若い連中はほとんど集まっていた。それぞれが勝手に支度を進めている。
とりわけ年少の騎士が、腕当ての革紐をねじったまま締めようとしているのをリュカが見つけた。
「そうじゃない。昨日も言っただろ」
ぶつぶつ言いながらも、最後まで直してやっている。
背後から近づいてきたアルノーに気づくと、リュカは振り返って姿勢を正した。
「おはようございます、隊長」
「おはよう。さっそく始めようか」
今日は、型通りに切り返す稽古だった。
初手で正面へ打ち込み、そこから剣を返して右、左と続ける。受け手も決められた順に受ける。大事なのは、途中で動きを止めないことだ。
だが、若い騎士のうち一人が、一つ打つごとに手応えを確かめるように止まってしまうようだった。
「ニコラ。相手は待ってくれないぞ。ゆっくりでいいから、通しでやってみろ」
アルノーが声を掛けると、木剣を構えていた若い騎士――ニコラが、「はい」と返した。
「こいつ、速さはいいんですけどねえ」
横からガスパールが口を挟む。
「おまえは人の欠点を見つけるのも速いからな」
「俺は足も動きますよ」
「じゃあ今から持久走に変えるか?」
周りから笑い声が上がる。アルノーも笑いながら、ニコラに向き直った。
「じゃあ俺が受けよう。止まらず続けて来い」と言うと、ニコラはあからさまにたじろぐ。
「なんだ。俺が相手じゃ嫌か?」
「と、とんでもない!」
ニコラは慌てて木剣を構えた。
「右、左と続けて来い。途中で止めるなよ」
アルノーは木剣を右手に構えた。
ニコラが踏み込み、まずアルノーの右側へ打ち込んでくる。アルノーは木剣を右肩の前へ立てて受けた。
一打目を受けた木剣を頭上へ返し、そのまま左へ持っていけば――よかったのだが。
右手から、ふっと力が抜けた。
咄嗟に握り直すも、腕がうまく上がらない。
「止まれ!」
背中から制止の声が飛ぶ。
ニコラは身体を強張らせたが、勢いを殺しきれない。
木剣が、アルノーの右肩に強く当たった。鈍い衝撃に息を詰める。よろめくほどではないし、痛みも大したことはない。だが、ニコラの顔はもう真っ青だった。
悪いことをした。止まらず続けろと言ったのは自分だ。それをきちんと守っただけなのにな。
「いいぞ。止まらずできたじゃないか」
ニコラの肩を叩いてやってから、声のしたほうを振り返る。
リュカだった。木剣を片手に、不安そうな顔で立っていた。
アルノーは木剣を左手へ持ち替え、右手を開いた。掌にはじわりと痺れが残っている。
「悪いが、俺はここまでにしよう。ティボー、すまない。見てやってくれ」
「承知しました」
「俺は医務室に行く」
あれが真剣だったら、右腕が飛んだだろう。
ましてや敵や魔物が、制止の声一つで止まってくれるわけもない。
アルノーは稽古場を出て、まっすぐ医務室へ向かった。幸い、騎士団付きの医師は在室していた。事情を話すと、医師はすぐに診察台の脇の丸椅子を指した。言われるまま腰を下ろし、右手を開いて見せる。
医師はアルノーに自分の指を握らせた。次に、右腕を前へ横へと動かすよう言った。頭上まで上がるのを確かめてから肩へ手を移し、鎖骨から肩、二の腕と順に指を押しては、「ここは?」と訊く。
医師が肩と二の腕との境目を押したとき、奥のほうで針を刺したような痛みが走った。
「……少し痛いですね」
「ここですか。前と同じあたりですね」
この医師もずいぶん長く騎士団を診ているから、アルノーの古傷も覚えているのだろう。
昔、右肩をやった。三年か、四年前になるだろうか。
魔獣の一撃を受け損ね、剣を持った腕ごと後ろへ持っていかれて、肩を外された。だが、その場で肩を戻している余裕はなかった。まだ魔獣に襲われている最中で、すでに重傷者もいた。
どうにか危険を脱してから肩を戻したが、帰還までは動ける者が動かなければならない。アルノーはいちばんの年長だった。
あのときは、リュカの初陣でもあった。あいつは剣も抜けずに動けなくなっていたから、アルノーが連れ戻した覚えがある。そのあとも近くにいたから、アルノーが右腕を庇いながら帰ったことを覚えているのかもしれない。
帰還してからは医師にさんざん叱られ、しばらく腕を吊ったが、やがて剣が振れるようになった。
だから、治ったものだと思っていたのだ。
「しばらく剣は控えてください。団長には私からお伝えしましょう。右腕に強い負荷をかけないように。十分に休ませたら、もう一度診ますからね」
「わかった」
アルノーはそれだけ言った。
*
白樫へ戻った頃には、昼食もほとんど終わっていた。いつもならそのまま顔を出すところだったが、今日はなんとなく足が向かない。
裏手の離れへ回る。
何をどこから話すべきなのか、自分でもまだよくわかっていなかった。ただ、これからバルタ家へ婿に入ろうというのだから、モーリス・バルタには知らせておくべきだろうと思った。
一階の居間で、モーリスが一人で茶を飲んでいた。
「アルノーくん? どうしました。そんなところに立って」
呼ばれて、そちらに顔を向ける。そこでアルノーは、自分が戸口に立ったまま、しばらく何も言わなかったらしいと気づいた。
「あ、すみません」
アルノーはようやく部屋へ入った。
勧められて、アルノーは向かいへ腰を下ろした。
「今朝、稽古中に右腕が動かなくなったんです。昔に壊してから、たまに違和感はあったんですが」
「ああ……あのときの」
モーリスも覚えていたらしい。記憶を吟味するように、緩慢に俯く。
「思っていたより早く、現役を離れることになるかもしれません。……婚約も、一度白紙に戻したほうがいいんじゃないかとは、思っています」
そこで初めて、モーリスがわずかに首を傾けた。
「俺からお願いした話ですし、バルタ家へ入る話でもありますから。条件が変わったなら、まずお話ししておくべきかと思って」
モーリスは茶器を置いた。
「私どもからお願いした条件でしたら、バルタ家へ婿に入っていただくことでしたな」
「ええ」
「他に、こちらからお願いしたことがございましたかな?」
「……いえ。何も」
モーリスは、しばらくアルノーを見ていた。
「では、それはアルノーくんが、ご自分でそう思ったということだね」
「事情が変わったのは確かですから。一度、考え直してもらったほうがいいとは思うんです。……俺は、そう思っていて」
モーリスはしばらくアルノーを見ていた。
「そうですか。それは、アルノーくんがお考えになることですな」
「……ええ」
「私から申し上げられるのは、こちらからお願いした条件が変わったわけではない、ということだけですよ」
モーリスはそれ以上何も言わなかった。アルノーも、返す言葉をすぐには見つけられなかった。
「……そうですね。少し、考えます」
そう言って、アルノーは立ち上がった。居間を出て、廊下へ出たところで一度足を止める。
モーリスから何を言われたのかは理解していた。彼は、現役を続けることは結婚の条件ではないと言ったのだ。
しかし、だからといって、そのまま話を進めていいものだろうか。
今まで当たり前にできていたことが、できなくなるかもしれないというのに。
そうなって困るのはバルタ家であり、なによりマーガレットではないのか。
考えながら、アルノーはそのまま事務室へ向かった。
「どうぞ」
扉を開けると、マーガレットは机に向かっていた。アルノーを見るなり、少し驚いたように顔を上げる。
「今日はお早いのですね」
「ああ。追い出されちゃってね」
冗談半分にアルノーは言って、扉を閉めた。
「まあ。いったい何をなさったのです?」
「何もしてないよ。だからかな?」
マーガレットが首を傾げる。アルノーは少し笑ったが、その笑みは長く続かなかった。
「……稽古中に、右腕が動かなくなってね。しばらく剣は使うなってさ。当面は外されるだろうな」
マーガレットがアルノーの右腕を見る。
「痛みはございますか?」
「ひどくはないよ」
マーガレットはしばらくアルノーの顔を見ていたが、それ以上は尋ねなかった。
「まだ当分は、騎士を続けるつもりだったんだけど……ちょっと話が違ってきたから。その……君も、もう一度考えていいんだよ」
ああ、これじゃあ駄目だ。《《考えていいんだよ》》だって? こちらが許可でも出しているようじゃないか。
アルノーは顔をしかめ、前髪を乱暴にかき上げた。
マーガレットは、きょとんとした顔でこちらを見ていた。
「それは、わたしと結婚する気がなくなった、ということですか?」
「そうじゃない」
思ったより強い声が出て、アルノーは片手で口元を覆う。
「……あの。では、どういうことなのでしょう?」
「君のほうから止めたいとは言いにくいだろうし。だったら、一度こちらから取り下げて、そのうえでもう一度考えてもらったほうがいいのかなって。そのほうが……」
マーガレットは、困ったような顔でこちらを見ていた。
「……君と、結婚したくなくなったわけじゃないんだよ。ただ、少し、考えたくて」
「何を、とお聞きしても?」
アルノーは言葉に詰まった。
「わからない。……腕が、このまま駄目になったらとか。剣を持てなくなったら、今の仕事も続けられないだろうし。そうなったら、その……俺は、今までできたこともできなくなるわけだから。だから、それでこのままっていうのも……なんか違う気がして。えっと……」
口にしながら、自分でも何を説明しているのかわからなくなってきた。
「……ごめん。やっぱりよくわからないや」
マーガレットは小さく首を傾げた。 少し考えるようにアルノーを見てから、口を開く。
「それでしたら、今は心に留めるだけでよろしいのではありませんか」
「……うん」
アルノーは立ち上がった。そろそろ昼食の時間だ。マーガレットにはまだ仕事がある。
扉へ向かい、取っ手に手をかける。
「アルノーさま」
「うん?」
「お昼は皆さまと召し上がりますか? お出かけされるのでしたら、取り置きますが」
アルノーは、呼び戻されでもしたように、ゆっくりとマーガレットを見つめた。
「ああ……いや、外出の予定はないよ」
「では、いつもどおりご用意いたしますね」
「ありがとう。よろしくね」
今度はすんなり言葉が出る。アルノーは小さく息を吐いて、扉を開けた。




