4.言伝
わたしどもが朝の支度をしていますと、玄関のほうから呼ぶ声がいたしました。料理人のテレーザが様子を見に行き、ほどなくして戻ってきます。
「お嬢さま、お客さまです」
エプロンをつけたまま駆け込んできた方は中年の女性で、マルコヴィッチ家の掃除婦だと名乗られました。
マルコヴィッチというと、ロベールさまの家名です。
「言伝をお願いできませんでしょうか」
お話を聞きますと、ロベールさまのお宅の庭木が、少々困ったことになっているようでした。根が塀の下へ入り込み、石積みを押し上げているのだとか。今にも塀が崩れそうなので、その前にどうにかしてほしい、と隣家から言われたそうです。
掃除婦の方も、初めはロベールさまがお戻りになるまで待つつもりだったそうですが、このまま放っておいて本当に塀が崩れてしまえば、隣家にも迷惑がかかります。
掃除婦をここまでお通しくださった門番の方が、口を開かれました。
「なぜわざわざお嬢さまに言いなさるんです。そんなの、根っこをほじくっちまえばいいじゃないですか」
「とんでもない! できやしません!」
思いのほか大きく鋭い声でしたので、わたしも門番も、ぽかんと彼女を見つめました。掃除婦は、ばつが悪そうに口をつぐみました。
「ですが、わたしは部外者ですわ」
わたしがそうお伝えすると、掃除婦は「まあ!」と声を上げました。先ほど気まずそうにしていたのもすっかり忘れたように、ぶんぶんと手を振ります。
「白樫のお嬢さまが部外者だなんて、そんなことあるものですか! 旦那さまもずいぶんお世話になったんですから! それに、お留守のあいだ、手に負えないことがあれば白樫に知らせるように、と言われているんです」
それならば、話は変わってきますね。
根をどうするかまではさすがに決めかねますが、留守の間に事情をお伺いして、ロベールさまへお伝えすることくらいはできましょう。ただ伝えるにしても、塀がどの程度傷んでいるのかくらいは見ておいたほうがよろしいですね。
「かしこまりました。一度お宅を見せていただけますか。急を要するようでしたら、遠征先へ知らせを送りましょう」
わたしは掃除婦を伴い、玄関を出ることにいたしました。すると玄関先には、厨房から様子を見に出てきたらしい料理人のテレーザが、クリーム色の薄いシルク布を手にして立っていました。
「お嬢さま、今日は日が強いですよ! こちらを被ってお行きなさいな」
そう言って、返事を待つより先に薄布をわたしの頭へ掛けました。
玄関を出ると、テレーザの言うとおり、薄布越しにも日差しはずいぶん強く感じられます。
前庭にある大きな樫の木陰を抜けたところで、門番がわたしたちの前を走って、正面の門扉を開けてくださいました。
「では、お気をつけて行ってらっしゃいませ、お嬢さま!」
いつも大仰に送り出されるのですが、仕方ないかもしれません。なにせわたしは、外出することのほうが珍しいのです。
不思議そうになさる掃除婦――お名前をダニツァさんというそうです――にそう説明いたしますと、ダニツァさんは呆れかえってしまわれました。
「あらまあ! それじゃあお嬢さま、この辺りの店もろくにご存じでない?」
「必要なものは、たいてい届けていただいておりまして。お恥ずかしいですわ」
「恥じることはないと思いますけどねえ、便利すぎるのも考えものですよ」
白樫騎士寮の外に出ると、すぐ近くの鍛冶場から金槌の音が聞こえてきます。
「あれはベルコの鍛冶場ですね。朝からよく働くこと」
「まあ。お知り合いですか?」
「あたしゃただの掃除婦ですが、騎士さまのお宅に出入りしてるもんですからね。名前くらい嫌でも覚えちまいますよ」
少し歩いたところで、ダニツァさんが馬具屋を指差されました。
「あそこは偏屈ですが、腕がよくてねえ。旦那さまもよく頼んでおいでです。二階が新しいでしょう? 息子夫婦が住むようになって、上を継ぎ足したってわけで」
馬具屋を見上げると、確かに一階と二階では壁の造りが違います。一階は厚い石壁ですが、その上は木組みに漆喰を塗っていました。
そうやって見れば、隣も、そのまた隣も同じでした。二階が通りへ少し張り出した家もあれば、片側だけ上階を足した家もあります。
「この辺りはそんな家ばっかりですよ。ほら、下は商売に使いますでしょう。繁盛すると上に足すんですよ」
知りませんでした。いえ、見てはいたのです。ただ、どうしてそうなっているのかをちっとも知らなかったのでした。
「ダニツァさん。この辺りに、家の修繕をなさる方はいらっしゃいません?」
「そりゃあおりますが。どうしてです?」
「ロベールさまのお宅へ伺う前に、一度お願いしてみてはいかがでしょう。わたしたちだけでは、どれほど急ぐものなのかもわかりませんもの」
塀の石積みについては、わたしたちが見たところで判断しかねます。せっかく職人の多いところを通っているのですから、どなたかに診ていただいたほうがよいのではないでしょうか。
「ああ、それもそうですねえ」
少し進むと、石敷きの広い道路に出ました。道の両側には店が並び、軒下や張り出した日除け布の下では、荷を下ろした人夫や客待ちの御者が腰を下ろしています。日の当たる道の中央は、皆さま足早に通り過ぎていました。
「あそこですよ」
ダニツァさんが指したのは、通りに面した間口の広い家でした。戸口の脇には木材が立てかけられ、軒下には鋸や槌が吊るされています。
声を掛けて出てきたのは、年嵩の女性でした。
「あいにく主人は仕事に出てるよ」
「何時ごろ戻りますかね?」
「さあねえ。昼を過ぎるかもしれないね」
ダニツァさんが困ったようにわたしを見ました。
「でしたら、戻られましたらマルコヴィッチさまのお宅へ来ていただけないか、お伝え願えますか。石塀に傷みが出ているそうなのです」
「床もですよ、お嬢さま! 裏のほうの床板が持ち上がってきてるんです!」
それは初耳でした。
わたしが目を瞬かせているのを見て、ダニツァさんは額をぱちりと叩きました。
「わたしったら申し上げてませんでしたっけ? すみませんねえ」
「なんだ、床までかい。それなら、帰ったらすぐ行くよう旦那に言っておくよ」
「お願いしますよ」
わたしたちは、再び通りへ戻りました。
通りをしばらく進んだところで、ダニツァさんは細い横道へ入りました。道幅が狭くなり、石敷きの道はそのまま、ゆるやかな上り坂が続いています。店らしい看板は一気に減り、石壁に替わって漆喰が増えてきました。壁際に鉢植えを置いている家もちらほらあります。どうやら、住宅街に差し掛かったようです。
ずいぶん登ってから振り返ると、家々の屋根が下のほうに見えました。
建物の間から、汗をさらうような心地よい風が吹き抜けてきます。そちらを見ますと、二軒の家の細長い隙間から、海が見えました。
やがて石塀や漆喰塀に囲まれた家々が並ぶ道に出ました。ここまで来ると人通りはほとんどなく、ときおり家の前を掃く人や、窓から布をはたく人を見かけるくらいです。ある家の軒下では、老人が日陰に腰掛けて、籠らしきものを編んでいました。
「あちらです、お嬢さま」
ダニツァさんが示した先で、最初に目に入ったのは大きな庭木でした。幹もずいぶん太く、長く育った木だとわかりました。
近づいてみると、その根元に近い石積みが歪んでいます。いくつかの石が持ち上がり、継ぎ目には指が入りそうなほどの隙間ができていました。問題になっているのは、ロベールさまのお宅と隣家を隔てる塀のようです。
「それだけなら、旦那さまがお帰りになるまで待とうと思ったんですけどね。こっちも見てくださいな」
ダニツァさんは門扉を開けると、問題の木の脇を通って家の裏手へ回りました。わたしもその後についていきます。裏口の扉は、開ける途中で一度ひっかかってしまいます。ダニツァさんが少し力を込めると、ようやく内側へ開きました。
「ここですよ」
示された足元を見ると、壁際の床板が二、三枚、山なりに持ち上がっていました。板と板の継ぎ目も揃っていません。
「前はこんなじゃなかったんですが、だんだんひどくなってきましてね」
いきなり石積みが崩れたり床板が外れたりすることはないでしょうが、放置してよい問題でもなさそうですね。
そんなことを考えていると、ダニツァさんが言いました。
「こちらへどうぞ、お嬢さま」
「まあ。どうぞお構いなく。すぐお暇いたししますから」
「白樫のお嬢さまにはるばる来ていただいて、立たせたままお帰ししたとあったら、わたしが旦那さまに叱られます。さあさ、せめて職人さんが来るまでは、こちらで休んでいってくださいな」
そこまで言われては、断るのもかえってご迷惑になりましょう。わたしは促されるまま居間へ通していただきました。
ほどなくして、ダニツァさんが二人分の珈琲と水差しを銅盆に載せて戻ってこられました。
「あの木はですね、この家にもとから生えていたんです。奥様が気に入られて、大事になさっておいででした」
「奥様、ですか」
ロベールさまは結婚していらっしゃったのですね。ご自宅を持っていらっしゃることは知っていましたが、その経緯までは存じませんでした。
しかし、大事になさっておいで《《でした》》、とはどういうことでしょう。今は?
「失礼ですが、奥さまは……」
「ずいぶん前に亡くなられましたよ。旦那さまも、あの木にはずっと手を入れておいでだったんです。ほかのことなら案外どうでもよさそうなんですけどねえ……」
そのとき、表のほうから、ドアノッカーを打ちつける金属音が響きました。
「職人さんがいらしてくださったみたいですよ」
そう言ってダニツァさんは立ち上がると、急いで玄関へ向かわれました。
戻ってくると、その後ろには日に焼けた中年の男性が立っています。職人は居間の入口で帽子を取り、わたしに頭を下げました。わたしも立ち上がって一礼しました。
「急にお呼び立てしてすみません。お塀と床を見ていただきたいのです」
職人はすぐに取りかかってくださいました。ダニツァさんの案内で庭へ出ると、持ち上がった石積みを確かめます。それから木の根元を一周し、地面へ出ている太い根をたどっていきました。
続いて家の中へ入ると、浮いた床板の上を何度か踏み、壁際の一枚を持ち上げて床下を覗きました。
「どうやら、どちらも木の根が原因ですね。根がこっちまで回って、床を支えている石を下から持ち上げちまってる。このまま太くなれば、もっと動くでしょうな」
わたしとダニツァさんは顔を見合わせて、それから揃って庭の木を振り返りました。




