2.発表
翌朝、わたしは厨房へ届いた食材を確認するため、食堂へ向かいました。
ここは白樫騎士寮の寮生だけでなく、騎士団に所属する方々にも開かれた公認食堂です。寮とは渡り廊下でつながっており、厨房ともども、バルタ家が運営を任されています。
食堂の中央にある長卓では、アルノーさまと隊の騎士さまたちが朝食を召し上がっていました。ほかの卓にも、次々と人が集まり始めています。
アルノーさまはわたしに気づくと、手を上げて呼び止められました。
「バルタ嬢。ちょっと、こちらへ来てくれるかな」
皆さまの前ですので、いつもの呼び方です。
部下の方々へ、婚約を知らせるおつもりなのでしょう。必要なこととはいえ、いざ直面すると緊張するものですね。
若い騎士さまたちが、「何だろう」とでも言いたげにわたしを見つめる中を進み、促されるまま、アルノーさまの隣へ立ちます。
「食事中にすまない。隊の皆には、先に伝えておこうと思ってね」
アルノーさまがそう切り出すと、長卓にいた隊員の方々が手を止めました。
「俺とマーガレット・バルタ嬢との結婚が決まった。バルタ家へ婿入りする予定だ」
しん、と食堂が静まり返りました。
いつの間にか、食堂中の視線がわたしたちへ集まっていたのです。
かちゃん、と皿の上に匙を落としたような音がして、それが合図になったかのように、食堂全体が一斉に騒ぎ出してしまわれました。
そこからはてんやわんやでした。
真っ先に飛んできたのは、「おめでとうございます!」という祝辞でした。
ここまでは予想通りだったのですが、その後の展開はわたしにも理解しがたい、奇妙なものでした。
まず、若い騎士の一人が、ほとんど抗議するように声を上げました。
「そんな、急すぎます!」
アルノーさまは、不思議そうにその若い騎士を見返しました。わたしも隣で首を傾げてしまいました。
「そうか? 俺はもう三十五だ。遅いくらいじゃないか」
その方は口を開いたまま、答えに詰まってしまいました。
今度は別の方が、心配そうに尋ねました。
「もしかして、隊長はご退役を考えておられますか」
「当分はこれまでどおりだ」
「バルタ姓になるのですか?」
「ああ。婿入りだからな」
質問した騎士は、なぜか消沈したようにうつむいてしまいました。
アルノーさまの生家であるグランヴェル家は、代々騎士を出してきた名門です。それがアルノー・バルタになりますと、いささか地味になるのは否めません。そこについては、申し訳ないですね。
騒ぎが収まりそうにないなか、卓へ茶器を置く小さな音がしました。
「静かに」
厳かな声に、食堂はたちまち静まり返ります。
声を上げたのは、騎士団長のオーギュストさまでした。団長になられる前は白樫に住んでいらっしゃった方です。昇進され、公邸をあてがわれてからも、時おり食堂に顔を見せてくださいます。
五十代に差し掛かろうかというオーギュストさまは、灰色の髪をきれいに撫でつけ、口髭は短く整えて、騎士服には一糸の乱れもなく、いかにも隙のないお姿です。これまで妻を迎えず、今も独り身でいらっしゃいますが、身の回りのことで不自由しているようには見えません。
朝食どきにお顔を見せることは滅多にありませんが、アルノーさまからはすでにご報告が済んでいたのでしょう。
騎士さまたちは皆、姿勢を正してオーギュストさまのほうへ身体を向けました。
「祝い話に取り乱す奴があるか。――アルノー、バルタ嬢。改めて、おめでとう」
「ありがとうございます、団長」
「祝辞は食事のあとだ。述べたい者は疾く済ませろ。せっかくの料理を冷ますものではない」
そう言われて、皆さまはひとまず席へ戻られました。けれども食堂には、まだ落ち着かない空気が残っています。それほどアルノーさまが白樫騎士寮に残るかどうか、気がかりだったのでしょう。わたしは皆さまを安心させようと、口を開きました。
「ご心配には及びません。アルノーさまは、これまでどおり寮でお暮らしになりますもの」
けれども、何人かはなぜかますます顔を曇らせてしまいました。まだ食事の残った皿を置いて席を立つ方もいました。声をかける間もなく、食堂を出ていってしまわれます。
アルノーさまが出て行かれないとわかれば、安心していただけると思ったのですが……。
「それで安心すると思ったのかね、お嬢さん」
オーギュストさまが、茶器を持ち上げながら、少々呆れたようにおっしゃいました。
「では、何が気がかりなのでしょう?」
「何が、ねえ」オーギュストさまはそう呟かれ、騒ぎの残る食堂を見渡しました。
「君が七つの頃の話だ。私が舞踏会で令嬢と踊ったと聞くや、三日は口をきいてくれなかった」
「まあ! まだ覚えておいででしたか」
「可愛らしい娘さんに、さんざん袖にされてしまってはね」
「お恥ずかしい。あの時はどうしてか混乱してしまったんです」
「彼らもまた混乱しておるのだろう」
「混乱、ですか」
わたしの場合は、幼いながらもオーギュストさまに恋をしていたのだと思います。けれども、アルノーさまと皆さまでは、事情が違います。色恋があり得るにしても、それで一括りにするのはいささか無理がありそうです。
そもそも、先ほどの皆さまのご様子は、恋する者のそれとは違って見えました。むしろ、何か大切なものを取り上げられたような……。
「ですが、皆さまとうに一人前の騎士でいらっしゃいますのに」
「身体はな」
オーギュストさまはそれだけおっしゃって、席を立たれました。
アルノーさまの斜め向かいにいらした騎士さまが、ぽつりと仰いました。
「おめでとう。婚礼の日取りが決まったら早めに知らせてくれ。勤務を組み替える」
アルノーさまと同じく、一隊を預かっていらっしゃるロベールさまです。年の頃は四十を少し過ぎているでしょうか。町にご自宅をお持ちで、週に二、三度ほど、こちらの食堂へいらっしゃいます。
「ああ、助かる」
ロベールさまは視線をパンへ落とし、すでに黙々と食事を進めていらっしゃいました。ロベールさまはいつもどこかお疲れのようで、目の下には薄いくまがあります。騎士服をかっちりお召しになりますが、短く刈った髪はいつも少し乱れておいでです。
ロベールさまが何事もなかったように食事を続けていらっしゃるうちに、ほかの皆さまも少しずつ匙を取り直されました。
わたしも本来の用事を思い出し、アルノーさまへ一礼してから、食堂をあとにしました。
厨房で食材を確かめてから中庭へ出ると、わたしに声をかける方がいました。
「バルタ嬢」
振り返ると、先ほど食事をそのままに食堂を出て行かれた騎士さまでした。
まだ年若く――といっても、わたしの二つ下ですが――頬にまだそばかすの残るリュカさまです。
「リュカさま。よろしければ、何か召し上がりますか」
「いえ。お気遣いありがとうございます」
そう言って、リュカさまは黙り込んでしまいました。
「その……。本当に、隊長と結婚なさるんですか」
「ええ、そのつもりです」
そう答えると、リュカさまはうつむいてしまわれました。どうにも納得がいった様子ではありません。
「何か、ご心配がおありですか?」
そう尋ねると、リュカさまはうつむいたまま、ぽつりぽつりと話し出しました。
「……おれ、初めて戦場に出たとき、何もできなかったんです。剣を抜くことさえできなくて。隊長はおれを連れ戻してくれて、皆の前では何も言いませんでした。最初は誰でも怖いものだと言って」
「アルノーさまに、助けていただいたのですね」
「はい。あとになって、おれだけじゃなかったってわかりました。隊長は、初陣で動けなかった者を笑いません。恐怖を乗り越えるまで、何度でも稽古の相手をしてくれるんです」
リュカさまはそこで言葉を切り、唇を引き結びました。
「隊長は、誰にだってそうなんです。あなたにだけ、特別優しいわけではなくて……」
「ええ、存じておりますよ」
「なら、どうして……」
そこまで口にすると、リュカさまは黙り込んでしまわれました。
バルタ家へ婿入りなさる方が、妻にだけ特別に優しかったら困ります。アルノーさまには、これまでどおり使用人や寮生の騎士さまたちにも、分け隔てなく接していただきたいものです。
リュカさまは意を決したように顔を上げ、わたしへ笑いかけました。それは口元だけで作った笑みで、その目は今にも泣き出しそうでした。
「申し訳ありません。自分でも、わからなくて。……隊長を、よろしくお願いいたします」
「……? はい」
ずいぶんと慕われているのですね、アルノーさまは。
*
午後、薪を積んだ荷車が届きました。空模様が怪しかったため、雨が降り出す前に倉庫へ運び込んでおりますと、任務から戻ったばかりのアルノーさまの隊が、鎧を脱ぐ間も惜しんで、荷車に残った薪束を次々と抱えてくださいました。
途中、やはり大粒の雨が降り始めたので、わたしたちは慌てて軒下へ駆け込みました。皆さまが迅速に運んでくださったおかげで薪はほとんど濡れず、わたしたちはほっと息を吐いて雨雲を見上げました。
アルノーさまが、濡れた髪紐をほどきながら、こうおっしゃいました。
「鎧ってさぁ、雨具として数えてもいいと思う?」
「鎧は濡れると錆びますよ、隊長」
そう言ったのは、リュカさまでした。先日は少し思い詰めたご様子でしたが、今日はいつもどおりの調子で、呆れたようにアルノーさまを見ています。
「中は濡れてないし。兜があればもっとマシだったか?」
「兜が雨具だったら、たまったもんじゃないですよ。蒸し暑いったら」
そうぼやいたのは、同じ隊のガスパールさまでした。濡れた兜を小脇に抱えていらっしゃいます。
乾いた布と温かいお茶を人数分お持ちすると、アルノーさまは布を一枚受け取られて、気安い調子でおっしゃいました。
「ありがとう。マーガレット」
わたしは思わず、アルノーさまのお顔を見つめました。
皆さまの前では、いつもどおりバルタ嬢とお呼びになるものと思っていたのです。
アルノーさまはわたしの視線には気づかず、布で髪を拭きはじめました。
「おやおや、隊長。今、何と?」
含み笑いでそうおっしゃったのは、ガスパールさまです。
「仲がよろしいようで」
その隣では、ティボーさまが湯気の立つ茶を片手に、静かに肯いていらっしゃいました。普段はあまり軽口に加わらない方ですが、今回はガスパールさまと同意見のようです。
リュカさまは一度アルノーさまを見たあと、少し遅れて笑われました。
気づけば、ほかの皆さまも口元をゆるめて、アルノーさまの反応を待っていらっしゃいます。
アルノーさまは髪を拭く手を止め、皆さまのお顔を怪訝そうに見回しました。それから、ようやく気付いたように、
「……あ」
「おや、お気づきではなかった?」
ガスパールさまの言葉に、アルノーさまは急にしどろもどろになられました。
「その、これは……。いや、待てよ。名前で呼んでも別におかしくないだろ?」
「ええ。誰もおかしいとは申しておりません」
ティボーさまはそうおっしゃって、澄ました顔で茶をすすられました。
「昨日までは、バルタ嬢とお呼びでしたのにねえ。ずいぶん自然に出たものだなぁと」
ガスパールさまが楽しそうに続けられます。
「君たち、随分と元気が余っているようじゃないか」
アルノーさまが少しばかり不機嫌そうにおっしゃると、笑いが広がりました。
「もう呼び慣れてくださったようで、安心いたしました」
そう申し上げますと、アルノーさまは困ったような、何とも言いがたいお顔をなさいました。
*
翌朝、わたしたちは離れの裏庭におりました。先日、いざというときに動けるよう、護身の動きを見せてほしいとアルノーさまに頼まれ、稽古をつけていただく約束をしていたのです。
昼になると、裏庭には洗濯物を干すので、朝のうちにお願いしました。
アルノーさまは騎士服の上着を脱ぎ、シャツの袖を肘までまくっていらっしゃいました。
わたしは普段どおりの服装で、腰には護身用の短剣を提げています。
「お父上から、少し習ったんだったね。動きを見せてくれるかな。もし、よければ」
アルノーさまは、少し遠慮がちにおっしゃいました。
そのためにお越しいただいたはずですが、今さら都合を確かめるような言葉選びがおかしくて、わたしはつい笑ってしまいました。
「もちろんですよ。そのためにお願いしたのですから」
まずは、父から教わったとおりに、相手の手を避けて横へ退く動きと、腰の短剣へ手を伸ばすところまでをお見せしました。
アルノーさまはわたしの動きを見ながら、何度か小さく頷かれておりました。
「次は、捕まった場合をやってみようか」
「はい」
「少し力を入れるよ。痛かったら、すぐに言って」
アルノーさまが近づいてきて、わたしの両の手首を掴みました。腕を引いてみますが、びくともしません。さすが騎士さまと言うべきでしょうか。
「本気で抵抗してもいいよ? マーガレット」
「してますよ!」
「そ、そっか……」
アルノーさまは少々困惑したように、わたしの腕と顔を見比べられました。手首も何気なく握っているように見えるのに、どうしてこんなに力が強いのでしょう。
「でも、腕を引いてるだけだろう。それじゃあ無理だ。そもそも掴まれないようにしないと。……知り合いが相手でも、油断しちゃいけないよ」
アルノーさまは、そこで一度わたしから手を離されました。
「じゃあ、俺が捕まえようとするから、逃げてみて」
わたしはその場に立ったまま、短剣を抜こうとして――上着越しに柄を押さえられました。鍔が鞘口へ押しつけられ、短剣が抜けなくなります。
「えっ――」
「抜くことばかり考えないほうがいい。武器に気を取られると、却って動きが鈍るよ。足を使って」
「えっと、蹴るんですか?」
「必要ならね。でも、まずは距離を取るんだ。真後ろへ下がると掴まれやすいから、横か、斜めに。相手の視界から外れるようにね。まずは、それをやってみよう」
アルノーさまは、わたしの短剣から手を離し、二歩ほど下がられました。
「もう一度いくよ」
再び伸びてきた左手を避けようと、今度は右足を斜め後ろへ引きました。身体も一緒に横へ向けます。アルノーさまの指先が上着の袖を掠めましたが、手首を掴まれる前に、その脇を抜けることができました。
「そうそう。もっと離れて」
言われるままに数歩下がり、ようやくアルノーさまへ向き直ります。
「もし掴まれたら、足の甲を踏んでもいい。脛を蹴るのもいいね」
「容赦ありませんね」
「いきなり掴みかかってくる奴なんだ。遠慮する必要はないさ」
距離を取ったわたしを、アルノーさまは満足げに見つめられました。
「まず、逃げることを考えるんだよ。勝とうとしないで」
「父もそのように申しておりました」
そうお伝えすると、アルノーさまはなぜか嬉しそうに顔をほころばせました。
そのとき、離れの角から、大きな籠を抱えた女たちが三人現れました。洗濯係です。いつもより早い到着でした。
先頭からきびきびと歩いてくるのは、洗濯係を取りまとめるアニェスです。日に焼けた顔とよく通る声の、気風のいい女性です。
「朝から精が出ますねえ、お嬢さま!」
「まあ、アニェス。今日はお早いのですね」
「午後から風が強くなりそうでね、寝台布だけでも早いうちに干しちまおうと思いまして。――おやっ、アルノーさまも。おはようございます」
そういって、アニェスは、わたしとアルノーさまを見比べました。後ろの二人も、麻のシャツや寝台布を詰め込んだ大籠を置きながら、顔を見合わせて笑っています。
「いやはや、お嬢様のおそばにアルノーさまのようなお方がいてくださるなら、わたしどもも安心ってもんですよ」
「安心ですか。何か心配事がおありかな」
アルノーさまが尋ねられますと、アニェスはシャツを仕分けながら口を開きました。
「いえね、お嬢さまはまだお若いでしょう。夜の対応までなさらなくてもいいじゃないですか。旦那さまもまだお元気でいらっしゃるのに。ねえ?」
「お元気だからこそですわ」
白樫騎士寮の管理権は、血筋だけで自動的に引き継げるものではありません。先代の管理人が健在なうちに実務を任され、騎士団から次代の管理人として承認を受ける必要があるのです。お父さまが早くからわたしへ実務を任されたのは、そのためです。
ただでさえ、騎士団の方々は火急の用に駆り出されます。そのうえ生活拠点まで誰が継ぐのかといちいち揉めるようでは困るのです。
とはいえ、もしわたしが男でしたら、騎士団も、わたしを次代の管理人として認めることに、これほど慎重にはならなかったでしょう。お父さまも、まだ二十歳の娘へこれほど早く実務を任せようとはなさらなかったでしょうに。
こればかりは、嘆いても仕方のないことですね。
「では、夜の対応については、俺にも教えてもらわないとな」
アルノーさまが、何でもないことのようにおっしゃいました。
「婚礼を済ませてからでも遅くはありませんよ」
「覚えることは多いんだろう? 今から聞いておいたほうがいいじゃないか」
それを聞いたアニェスは、にやりと笑いました。
「こう言ってくださるんですから、任せちまいましょうよ、お嬢さま。アルノーさまなら、夜中に叩き起こしたって文句はいいませんよ。もっとも、わたしらが言わせませんがね」
アルノーさまは何もおっしゃらず、苦笑だけに留められました。
「さあさあ、お二人とも、朝食が冷めちまいますよ。ここはわたしどもに任せてくださいな」
後ろの二人はすでに大籠の中身を仕分け、井戸端へ運び始めています。わたしたちがいては、かえって仕事の邪魔になりそうです。
「では、参りましょうか」
「ああ。さすがに腹が減ったよ」
わたしたちは洗濯係の方々に場所を譲り、並んで食堂へ向かいました。




