第89話 エンドロールと、対等な隣の席(2)
息を切らして映画館の前に辿り着くと、すでに日は落ち、入り口の古びたネオンサインが最後の夜を惜しむようにチカチカと瞬いていた。
「……間に合った」
分厚い防音扉を押し開けると、あの懐かしい古い紙とコーヒーの匂いがふわりと僕を包み込んだ。
どうやら最後の上映が終わった直後だったようで、数人の常連らしき客たちが、名残惜しそうに千歳さんに挨拶をしてロビーを後にするところだった。
客の波が引き、静まり返ったロビー。
チケットカウンターの奥で、千歳さんが壁に貼られた手書きの上映スケジュールを、一つ一つ静かに剥がしていた。
ザッ、と僕が不用意に足音を立ててしまうと、彼女はハッとして振り返った。
「……冬也、くん?」
数ヶ月ぶりに見る彼女は、やっぱり凛としていて、少しだけ寂しそうで。僕がずっと焦がれていた、あの千歳さんのままだった。
驚きに目を丸くする彼女の視線が、僕の服装に向けられる。
無理して自分を偽るために着ていた、あの窮屈なリクルートスーツではない。洗いざらしのシャツとチノパン。自分に一番しっくりくる、等身大のありのままの僕の姿だ。
「久しぶりです、千歳さん。……今日で閉館だって聞いて、走ってきました」
僕が息を整えながら真っ直ぐに見つめると、千歳さんは少しだけ戸惑ったように目を伏せ、手元のポスターをぎゅっと握りしめた。
「……ええ。建物の老朽化もあって、とうとう限界が来ちゃったの。でも、もう就活はいいの? こんなところに寄り道してたら……」
「寄り道じゃありません」
僕は彼女の言葉を遮り、一歩だけ前に出た。
あの日、彼女から突きつけられた「大人と子供」の境界線を、今度は自分の足でしっかりと越えるために。
「俺、内定をもらいました。小さな独立系の映画配給会社です」
千歳さんの目が、わずかに見開かれた。
「千歳さんが一人で守り抜いてきた、この映画館みたいな場所。暗闇の中で、誰かの心に直接届く光を繋ぐ仕事を……俺は、一生の仕事にしたいって、心からそう思えたんです」
「冬也くん……それ、じゃあ……」
「真っ白だった履歴書に、俺の意思で、俺の色を塗りました。だからもう、あの時みたいに、雨宿りをするためにここへ逃げ込んできたわけじゃない」
僕はチケットカウンターの前に立ち、カウンター越しに彼女の目を真っ直ぐに射抜いた。
そこにはもう、将来に怯えてうつむいていた「迷子の学生」の面影はないはずだ。
「誰かのためでも、現実からの逃げでもない。俺は俺の意思で……自立した一人の男として、千歳さんに会いに来ました」
静まり返ったロビーに、僕の言葉が力強く響く。
千歳さんは剥がしたポスターを抱えたまま、完全に言葉を失っていた。彼女が被っていた「大人の余裕」という仮面に、少しずつ、けれど確かなヒビが入り始めていた。




