第88話 エンドロールと、対等な隣の席(1)
凍てつくような木枯らしが吹き荒れていたあの夜から季節は巡り、街には柔らかな春の風が吹き始めていた。
あの日、千歳さんに決定的な境界線を引かれ、逃げるように古いミニシアターを飛び出してから数ヶ月。僕は一度も、あの映画館には足を向けていなかった。
クローゼットの奥には、着せられているようだった量販店のリクルートスーツが、もうずっと仕舞い込まれたままになっている。
今の僕は、襟付きのシャツにチノパンという、いつもの自分らしい私服姿で、春の陽射しが降り注ぐ大通りを歩いていた。
『あなたはこれから、自分の足で社会という広い世界に出ていく人』
あの薄暗い映写室で千歳さんが放った残酷なまでの正論は、僕の甘えを打ち砕き、同時に、僕の背中を強烈な力で押し出す原動力になっていた。
僕は、周りに流されるまま参加していた合同説明会に行くのをやめた。
何者かにならなければと焦って、企業が喜びそうな嘘の色を塗ろうとしていた筆を捨てた。そして、真っ白だった履歴書に、自分が本当に心から「好きだ」と思えることだけを、自分の言葉で書き込んだのだ。
あの映画館で、暗闇に一条の光を届ける千歳さんの背中を見て気づいたこと。
それは、どれだけ時代が便利になっても、誰かの心に直接届く「物語」や「空間」を繋ぐ仕事がしたい、という僕自身の本当の輪郭だった。
結果として、僕は大企業ではなく、小さな独立系の映画配給会社から内定をもらうことができた。
決して華やかな世界ではないし、最初は泥臭い下働きばかりだろう。それでも、そこは僕が初めて「自分の足で歩いていきたい」と心から思えた、確かな未来だった。
スマートフォンが短く震え、画面に一つの通知が灯る。
それは、僕がよくチェックしている地元の情報サイトからのニュースアラートだった。
『駅裏の老舗ミニシアター、建物の老朽化に伴い、本日をもって閉館』
その文字を見た瞬間、僕の足はピタリと止まった。
千歳さんが祖父から継ぎ、一人で守り抜いていたあの場所が、今日でなくなってしまう。
胸の奥がギュッと締め付けられるような痛みを覚えた。
けれど、もう以前のような「自分の居場所がなくなる」という焦燥感はなかった。僕にはもう、自分で見つけた新しい道があるのだから。
僕はスマートフォンをポケットにしまい、顔を上げた。
今日で、あの場所は終わる。
映画のエンドロールが流れて、スクリーンが真っ暗になる前に。彼女が一人で、あの場所と一緒に過去の時間に閉じこもってしまう前に。
僕は駅へと向かう歩みをクルリと反転させ、かつて逃げ込むように通っていた街の片隅へと向かって、今度は自分の意思で、力強く走り出した。




