第87話 フィルムのノイズと、五年の距離(3)
僕が強く掴んでいた腕を、千歳さんはゆっくりと、けれど拒絶の意思をはっきりと込めた確かな力で解いた。
「……ありがとう。まっすぐ伝えてくれて、すごく嬉しいわ」
彼女はいつもの穏やかな、けれどどこか寂しげな「大人の女性」の微笑みを浮かべて、僕から半歩だけ距離を置いた。
そのたった半歩が、今の僕には果てしなく遠い、絶対に越えられない深いクレバスのように感じられた。
「でもね、冬也くん。あなたは今、21歳。真っ白な履歴書を持って、これからどこへだって行ける、広くて無限の世界の入り口に立っているのよ」
「そんなの、関係ないです。俺は……!」
「ううん、関係あるわ。とても大事なことよ」
言い募ろうとした僕の言葉を、彼女は静かに、けれど強い響きを持った声で遮った。
「私は26歳。社会の荒波に耐えきれなくてドロップアウトして、この狭くて暗い映写室に引きこもってしまった人間。ここには古い映画と過去の時間しかない。ここはね、外の世界で戦えなくなった人が、一時的に雨宿りをするための場所なの」
彼女の言葉は、酷く冷静で、残酷なまでに論理的だった。
僕が彼女に惹かれた理由である「大人の余裕」が、今はそのまま、僕を遠ざけるための鋭いナイフとなって胸に突き刺さってくる。
「あなたはこれから、自分の足で社会という広い世界に出ていく人。だから、こんな閉ざされた古い映画館に、私みたいな逃げた大人に、立ち止まって縋り付いちゃ駄目よ」
千歳さんは、僕の目を真っ直ぐに見据えた。
そこに同情や甘やかしは一切なかった。社会に出る前のモラトリアムに甘んじ、就職活動から逃げてこの映画館を隠れ蓑にしていた僕の幼さを、完全に射抜いていた。
「社会人」と「学生」。
「自分の居場所を決めた大人」と「どこへ行くかも決めていない子供」。
彼女が引いたその見えない境界線の前に、僕はぐうの音も出ないほど打ちのめされていた。
「……ごめんなさい。夜遅くまで、引き止めちゃったわね」
千歳さんが静かにそう告げると、映写室の中を満たしていたあの魔法のような熱気は急激に冷め、ただの古い機械室の温度へと戻っていった。
何も言い返せなかった。
不器用に背伸びをして見せた僕の感情は、彼女の言う通り、ただ現実から逃げるための言い訳に過ぎなかったのかもしれない。その未熟さを突きつけられ、僕は逃げるようにして映写室を後にするしかなかった。
「……失礼します」
絞り出すようにそれだけを言い残し、僕は重たい鉄の扉を閉めた。
映画館の外に出ると、容赦のない冬の木枯らしが、火照っていた頬を鋭く叩いた。
ネオンが瞬く夜の街角に立ち尽くし、僕は自分のビジネスバッグを強く握りしめた。中に入っているのは、相変わらず真っ白なままの履歴書だ。
彼女の隣に立つためには、逃げ込んでいるこの暗闇から抜け出して、自分の足で明るい世界を歩かなければならない。
五歳という年齢差以上に大きく開いたその距離の絶望的な遠さに、僕はただ、夜の冷たい空気を肺の奥深くまで吸い込むことしかできなかった。




