第90話 エンドロールと、対等な隣の席(3)
「俺はもう、何者でもない学生じゃない。あなたと同じ、社会に立つ一人の人間として……千歳さんの隣にいたいです」
チケットカウンター越しに、僕は逃げることなく千歳さんの瞳を見つめ続けた。
数ヶ月前、薄暗い映写室で彼女から「大人の余裕」という盾で拒絶された時、僕は何も言い返せずに打ちのめされることしかできなかった。
けれど今は違う。自分の足で歩き出し、自分の意思で未来を選び取った今の僕には、その盾を真っ直ぐに打ち砕くための確かな熱があった。
静まり返ったロビーで、僕の言葉を受け止めた千歳さんは、しばらくの間、時が止まったように動かなかった。
しかしやがて、彼女の胸の奥で何かが決壊する音が聞こえたような気がした。
ポツリ、と。
彼女が胸に抱えていた丸まった古いポスターが、手から滑り落ちて床に転がる。
それと同時に、彼女の大きな瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「……ずるい、わね」
千歳さんは両手で顔を覆い、子供のようにしゃくりあげながら、震える声で紡いだ。
「私の方が年上で、大人で……ずっとあなたの前で、余裕なふりをしてたのに。……本当は私だって、この映画館がなくなるのが怖くて、これからどうやって生きていけばいいかわからなくて、震えてたのに……っ」
それは、彼女が初めて僕に見せた、社会の波から逃げてきた「千歳さん」という一人の女性の、等身大の弱さだった。
「冬也くんが……あの真っ白だった履歴書を自分の力で埋めて、どんどん前へ進んでいくのを見て……私、置いていかれるみたいで、すごく寂しかった……っ」
僕はカウンターの横を通り抜け、彼女のすぐ目の前まで歩み寄った。
そして、顔を覆って泣きじゃくる彼女の震える両手を、自分の手でそっと、けれど力強く包み込んだ。
あの日、映写室で触れ合った時のように、彼女の指先は少しだけ冷たかった。だから僕は、自分の体温を全て移すようなつもりで、その手をギュッと握りしめた。
「もう、雨宿りは終わりにしましょう、千歳さん。映画館がなくなっても、俺がずっと隣にいますから」
僕の言葉に、千歳さんは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、僕を真っ直ぐに見つめ返した。
そして、今度は拒絶することなく、僕の手を強く握り返してくれた。
「……うん。……ありがとう、冬也くん」
彼女の顔に浮かんだのは、少し哀しげで憂いを帯びた「大人の女性」の微笑みではない。
年相応の、嘘偽りのない、太陽のように無防備で最高に綺麗な笑顔だった。
ふと、場内の清掃用としてつけっぱなしになっていた映写室からの真っ白なライトが、扉の開いたロビーからスクリーンへと一条の光の道を作っているのが見えた。
フィルムの回っていない、何の色も乗っていない真っ白な光。
それはまるで、僕たちがこれから自分たちの足で描き、色を塗っていくための、新しい未来のスクリーンのように眩しく輝いていた。
「さあ、帰ろうか。私たちの、新しいエンドロールの続きを見つけに」
「はい。どこまでだって、一緒に」
誰もいない、色褪せた座席と真っ白なスクリーンに背を向けて。
僕たちはしっかりと手を繋ぎ、冷たい木枯らしではなく、温かい春の風が待つ夜の街へと、新しい一歩を踏み出した。




