第85話 フィルムのノイズと、五年の距離(1)
あれから、僕は就職活動の合間を縫うようにして、あの古いミニシアターに通い詰めるようになっていた。
相変わらず、僕のビジネスバッグに入っている履歴書は、ほとんど白紙に近いままだ。けれど、以前のような息が詰まるほどの焦燥感は嘘のように消えていた。
合同説明会や面接で「就活生」という無機質な仮面を被ってすり減った心を、あのセピア色の空間と、千歳さんが淹れてくれる一杯の温かい紅茶が、いつも優しく解きほぐしてくれたからだ。
いや、本当は自分でもわかっている。
映画を観に行っているのではない。ただ、彼女に会いたいのだ。
落ち着いた大人の余裕と、どこか憂いを帯びた優しい笑顔。社会の波から降りて、自分の居場所を静かに守り抜いている彼女の凛とした姿に、僕は完全に惹かれていた。
十二月も半ばに差し掛かった、ある日のこと。
その日の最終上映が終わると、客席にいたのはなんと僕一人だけだった。
「貸し切りなんて、ちょっと贅沢な時間だったでしょ?」
ロビーに出ると、チケットもぎりのカウンターで売上を計算していた千歳さんが、クスッと笑って声をかけてきた。
「ええ。でも、映画館としては少し心配になりますね」
「ふふっ、痛いところを突くわね。まあ、うちみたいな古い単館系は、こんな日もあるのよ」
彼女は帳簿を閉じると、ふと何かを思いついたように顔を上げ、僕の方を見た。
「冬也くん。まだ時間、大丈夫?」
「あ、はい。終電まではまだ余裕がありますけど」
「じゃあ、ちょっと特別な場所、案内してあげる」
彼女は悪戯っぽく微笑むと、スタッフ専用と書かれたドアを開け、手招きをした。
案内されたのは、ロビーの奥にある細くて急な螺旋階段だった。キシキシと鳴る鉄の階段を上った先にある重たい扉を開けると、そこにはムワッとした熱気と、機械の油、それに古い紙のような特有の匂いが充満していた。
「ここが、うちの心臓部。映写室よ」
薄暗い室内には、僕の背丈よりも大きな二台の鉄の塊——年代物のフィルム映写機が、まるで鎮座する巨大な獣のようにどっしりと構えていた。
今はもうデジタル上映が主流の時代に、ここではまだ、実際にフィルムを回してスクリーンに光を届けているのだ。
「すごい……こんな風になってるんですね」
「年季が入ってるでしょ。機嫌を損ねないようにメンテナンスするのが大変なの」
千歳さんはそう言いながら、先ほどまで回っていた映写機の横に立ち、慣れた手つきでフィルムを巻き取る作業を始めた。
カラカラカラ……と、金属の乾いた音が規則正しく映写室に響く。
小さな覗き窓から、眼下にさっきまで僕が座っていた客席が見えた。
この狭くて密閉された空間で、彼女はずっとたった一人で、あの暗闇に光と物語を届けていたのだ。
「熱気、すごいですね。冬なのに少し汗をかくくらいだ」
「映写機のランプはすごく熱を持つの。だから、ここはいつも温かいのよ」
振り向いた千歳さんの顔が、すぐ目の前にあった。
映写機のランプの余熱と、狭い密室。
気がつけば、お互いの肩が触れ合いそうなほど、僕たちの距離は近かった。
彼女の首筋から、いつもロビーで嗅いでいたあのベルガモットの香りが、熱気に混じってふわりと鼻先を掠める。
ドクン、と。
自分の胸の奥で、心臓が大きく跳ねる音がした。
薄暗い密室の熱気のせいか、それとも彼女の近すぎる距離のせいか。僕の中で、大切にしまい込んでいたはずの感情が、急激に熱を持って膨れ上がり始めていた。




