第84話 白紙の履歴書と、色褪せたスクリーン(3)
「誠実、ですか……?」
予想外の言葉に僕が間の抜けた声を出してしまうと、彼女は手元の紙コップにふーっと息を吹きかけ、少しだけ自嘲気味に微笑んだ。
「ええ。だって、世の中のほとんどの人は、真っ白な履歴書に『企業が喜びそうな嘘の色』を器用に塗って、自分を偽って社会に出るんですから。それに比べたら、何色にも染まれないと悩んでいるあなたの方が、よっぽど自分自身に対して誠実よ」
彼女はそう言って、少しだけ遠くを見るような目をした。
「私もね、数年前まではあの息苦しい波の中にいたんです。分厚い鎧みたいなスーツを着て、周りが求める『優秀な社員』の色を自分に塗りたくって……。でも、無理に重ね塗りしすぎたせいで、本当の自分が何色だったのかわからなくなって、結局心がパキッと折れちゃった」
彼女は千歳と名乗った。
大学を卒業後、都内の激務な企業で身を粉にして働いていたが、数年前にそこからドロップアウトし、祖父が遺したこの採算の合わない古い映画館を継いだのだという。
「周りからは『せっかくのキャリアを捨てて逃げた』って言われました。でも、世間のレールから降りて、この薄暗くて古い場所で毎日自分の好きな映画のフィルムを回している今のほうが、ずっと息がしやすいんです」
社会の荒波から一度降りたという彼女の横顔は、ちっとも不幸そうではなく、むしろ誰よりも自分の足でしっかりと、しなやかに立っているように見えた。
「だから、焦らなくていいの。映画のスクリーンと同じよ。真っ白なままでいれば、いつか自分が本当に心から『これを映したい』と思える物語に出会った時、一番綺麗な映像を映すことができる。今はまだ、白紙のままでいい時期なんじゃないかしら」
千歳さんのその静かな声は、僕の胸の奥でガチガチに固まっていた焦燥感という名の氷を、温かいアールグレイの紅茶と一緒に、ゆっくりと、確実に溶かしていった。
気がつけば、合同説明会で感じていたあの強烈な吐き気は、嘘のように消え去っていた。
代わりに僕の心を満たしていたのは、古い紙とコーヒーと、彼女から微かに香るベルガモットの匂い。
紙コップを両手で包み込んだまま、僕は隣に座る千歳さんの横顔をじっと見つめていた。
自分の弱さや挫折を隠すことなく、穏やかな声で語る大人の余裕。それでいて、どこか憂いを帯びた静かな瞳。
社会のレールから外れることを恐れて怯えていた僕の目に、自分のペースでしっかりと人生を歩んでいる彼女の姿は、ひどく大人で、抗いがたいほど魅力的に映った。
「……ありがとうございます、千歳さん。なんだか、少しだけ息ができるようになりました」
「ふふ、それはよかった。スーツの君、またいつでも息抜きにいらっしゃい」
優しく微笑む彼女の横顔を見つめながら。
僕は、この薄暗い映画館と、息苦しかった世界から僕を救い出してくれた年上の彼女に対して、明確な憧れと、どうしようもない引力を感じ始めている自分に気づいていた。




