第83話 白紙の履歴書と、色褪せたスクリーン(2)
エンドロールが終わり、静かな余韻と共に場内のフットライトがゆっくりと点灯した。
数人しかいなかった観客たちが、三々五々と無言で立ち上がり、出口へと向かっていく。僕は最後までビロードの座席から立ち上がることができず、一番最後に重い足を引きずってロビーへと出た。
外はすっかり日が落ちているはずだが、再びあの冷たい木枯らしと現実の世界に戻る気にはなれず、僕はロビーの片隅にある年季の入った革張りのベンチにどっかと腰を下ろした。
膝の間にリクルートバッグを挟み、両手で顔を覆う。
ここから一歩でも外に出れば、また「就活生」という型に押し込められ、先の見えない焦燥感に追われる現実に引き戻されてしまう。
「……はぁ」
今日何度目かわからない、ひどく重たい深呼吸をした、その時だった。
「お疲れみたいですね」
ふと、頭上から静かな声が降ってきた。
ビクッとして顔を上げると、そこには見慣れない女性が立っていた。
年齢は僕より少し上くらいだろうか。黒いタートルネックのセーターに、少し色褪せたカフェエプロン。首からはこのミニシアターのスタッフパスを下げている。
肩の力が抜けたような、どこか凛とした静けさを纏った人だった。
「あ……すみません、もう閉館ですか? すぐ出ます」
慌ててカバンを掴んで立ち上がろうとした僕を、彼女は「いえ、まだ大丈夫ですよ」と、柔らかく手で制した。
「これ、よかったら。外、すごく寒かったでしょう」
彼女が差し出してきたのは、湯気を立てる二つの紙コップのうちの一つだった。
戸惑いながら受け取ると、指先からじんわりと温かさが伝わってくる。微かに香るベルガモットの匂い。温かいアールグレイの紅茶だった。
「ありがとうございます……」
「スーツ、窮屈そうですね。ネクタイ、もう少し緩めても誰も怒りませんよ」
彼女はクスッと小さく笑うと、少しだけ距離を空けて、僕と同じベンチに腰を下ろした。
その言葉に図星を突かれた僕は、慌てて首元のネクタイをさらに数センチ引き下げた。
「……バレてましたか。合同説明会から、逃げ出してきたところなんです」
自分でも驚くほど、素直な言葉が口を突いて出た。
普段なら、初対面の相手に自分の情けない現状を話すなんて絶対にしない。けれど、彼女の纏う静かで落ち着いた空気と、この古い映画館のセピア色の時間が、僕の心にあった強張りを不思議と解かしてしまったのだ。
「周りの奴らはみんな、自分が何をしたいのか、どういう会社に入りたいのかわかってるみたいに動いてて……。でも俺は、何一つ見つからなくて。何になりたいのかも、社会で何ができるのかも、全然わからないんです」
紙コップを両手で包み込んだまま、僕はポツリポツリと、心の奥底に沈殿していた泥のような不安を吐き出していった。
「カバンの中の履歴書、名前以外真っ白なんです。それを抱えてあの会場にいたら、自分が中身のない、空っぽの偽物に思えてきて……息が詰まりそうになって、逃げてきました。情けないですよね、ただの甘えです」
最後の方は声が震え、情けなさで俯いてしまった。
こんな話、社会人として働いている彼女からすれば、ただの学生のモラトリアムの延長で、甘ったれた悩みにしか聞こえないだろう。呆れられて「現実を見なさい」と説教されるのがオチだ。
けれど。
僕の隣に座る彼女は、呆れることも、否定することもなかった。
「真っ白な履歴書……」
彼女は自分の持つ紙コップの縁を指で静かになぞりながら、ふと、ロビーの奥にある映写室の小さな窓へと視線を向けた。
「いいじゃないですか。変に自分を偽って、無理やり色を塗るより、ずっと誠実だと思いますよ」
それは、就活の波に急かされ、何者かにならなければと焦っていた僕にとって、今まで誰からも言われたことのない、ひどく意外で、優しい言葉だった。




