第82話 白紙の履歴書と、色褪せたスクリーン(1)
分厚い防音扉を押し開けてロビーに転がり込むと、背後で重たい扉がゆっくりと閉まり、街の喧騒と、肌を刺すような冬の木枯らしを完全に遮断した。
「……はあ」
大きく息を吐き出しながら、首元をきつく締め付けていたネクタイの結び目を乱暴に引き下げる。
着慣れない量販店の安いリクルートスーツは、肩回りがひどく窮屈で、まるで自分の身体ではない別の誰かの皮膚を無理やり被らされているような、ひどい違和感があった。
冬の始まり。大学三年生の十一月。
つい三十分前まで、僕は駅から少し離れた巨大なコンベンションセンターにいた。何百社という企業が集まる、就職活動の合同説明会だ。
見渡す限りの黒いスーツ、スーツ、スーツ。同じような髪型をして、同じようなリクルートバッグを持ち、企業のブースで一様に熱心な相槌を打つ同級生たちの波。その異様な熱気と、蛍光灯の白々しい光の暴力に当てられた僕は、強烈な吐き気と息苦しさに耐えきれず、気がつけば会場を逃げ出していたのだ。
逃げ込んだ先は、街の片隅にある、ひっそりとした古いミニシアターだった。
シネコンのような最新の設備も、きらびやかな売店もない。赤茶けた絨毯は所々すり減り、空気には古い紙と埃、それに微かなコーヒーの匂いが混ざっている。
チケットを買って薄暗い場内に入ると、観客は僕を含めて数人しかいなかった。
最後列の端、少しだけスプリングのへたったビロード張りの座席に深く腰を沈める。外界から完全に隔離されたこの暗闇だけが、今の僕にとって唯一呼吸ができるシェルターのように思えた。
スクリーンでは、名画座の特集上映らしき古いフランス映画が流れていた。
色褪せたフィルム特有の、少しざらついた映像。アンニュイな表情の女優が煙草を吹かし、字幕が静かに現れては消えていく。
しかし、僕の頭には物語の内容なんて一ミリも入ってこなかった。
膝の上に置かれた、黒いナイロン製のビジネスバッグ。
その中には、名前と大学名だけを書いて、志望動機も自己アピール欄も真っ白なままの履歴書が、重たい鉛のように沈んでいる。
(俺には、何もない)
スクリーンを見つめながら、絶望に近い焦燥感が胸の奥をどろどろと這い回る。
大学に入ってからの三年間、僕はただ無難に単位を取り、適当にサークルに顔を出し、なんとなく時間を消費してきただけだった。
モラトリアムという名の猶予期間が終わりを告げ、いざ「あなたは社会で何ができますか」「何になりたいですか」と問われた時、僕の手の中には本当に、何一つ誇れるものがなかったのだ。
周りのみんなは、あんなに上手に「社会人になるための仮面」を被って、自分の進むべき道を歩き始めているのに。
僕だけが、どこへ向かえばいいのかもわからないまま、白紙の履歴書を抱えて真っ暗な海に取り残されている。何者にもなれていない自分を直視するのが怖くて、こうして暗闇に逃げ込んでいるだけの、空っぽな人間だ。
『……私はただ、本当の自分がどこにあるのかを知りたかったのよ』
スクリーンの中の女優が、悲しげな瞳でそう呟いた。
そのセリフが、今の惨めな自分の心境とあまりにも重なって、僕は思わず自嘲気味なため息を漏らした。
ふと、背後から「カラカラカラ……」という、規則正しくも心地よい機械音が聞こえてきた。
振り返ると、頭上の高い位置にある小さな小窓から、スクリーンへ向かって一条の眩い光が放たれている。
映写室からの光だ。
暗闇の中で、その光の束の中だけが、細かい埃をきらきらと乱反射させて美しく輝いている。
(あの中で、誰かがこの映画を回しているんだな)
就活会場の無機質な蛍光灯とは違う、その圧倒的に温かくて静かな光をぼんやりと見つめながら、僕は映画のエンドロールが終わるまで、膝の上のカバンをギュッと抱きしめ続けていた。




