第82話 線香花火と、動き出す時間(3)
結衣のしゃくりあげる声が少しずつ落ち着いてきた頃、僕はポケットからコンビニの袋を取り出した。
「……はい、これ」
「なに……?」
「さっき、境内の外れにある屋台で買ってきた。お前、こういうの好きだろ」
僕が差し出したのは、バラ売りされていた数本の線香花火と、百円ライターだった。
結衣は鼻をすすりながらそれを受け取ると、少しだけ呆れたように目を細めた。
「……こんな神社の裏で、二人で線香花火なんて。地味すぎない?」
「うるさい。浴衣には線香花火って相場が決まってんだよ」
文句を言いながらも、結衣は少しだけ嬉しそうに縁側に並んで座り直した。
カチッ、とライターで火をつける。細い紙の先端に火が移ると、暗闇の中に、チリチリとオレンジ色の小さな火花が咲いた。
二つの小さな火の玉が、僕たちの顔をぼんやりと照らし出す。
火薬のツンとした匂いと、遠くから聞こえる盆踊りの微かな音楽。さっきまでの重苦しい空気はすっかり消え去り、そこにはただ、夏の終わりの穏やかな夜の時間が流れていた。
「……私ね」
線香花火の火種が、パチパチと勢いよく松葉のように弾けるのを見つめながら、結衣が静かに口を開いた。
「まだ、完全に陸上を諦めきれたわけじゃないんだ。明日になったら、やっぱり悔しくて、また泣いちゃうかもしれない」
「うん」
「でも……いつまでもストップウォッチ見て、立ち止まってるのはもうやめる。選手として走れなくても、マネージャーとして部活に残る道もあるし……もしかしたら、陸上以外に夢中になれる新しい何かが見つかるかもしれないから」
パチ、パチ、と弾けていた火花が少しずつ小さくなり、丸く赤い火の玉となって静かに震え始める。
「ゆっくりでもいいから、少しずつ……新しい目標、探してみる」
結衣の言葉には、もう嘘や誤魔化しはなかった。
傷ついた足を引きずりながらでも、自分の力で前を向いて歩き出そうとする、彼女本来の強さがそこにはあった。
「……焦らなくていいよ。俺も、被写体探しながらゆっくり付き合うから」
僕がそう言うと、結衣は照れ隠しのように「何それ、重い」と小さく笑った。
その瞬間、ポトリ、と。
限界を迎えた線香花火の赤い火玉が、音もなく地面へと落ちて消えた。
ふと暗闇に戻った視界の中で、結衣がゆっくりとこちらを向いた。
提灯の淡い明かりに照らされた彼女の顔。そこには、あの痛々しい嘘の笑顔でも、絶望に満ちた顔でもない。
僕がずっとファインダー越しに追いかけ続けてきた、最高に綺麗で、嘘偽りのない、太陽みたいな結衣の笑顔があった。
「ありがとう、蒼太」
僕は無言のまま、首から提げていた古いフィルムカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。
ピントリングを回す必要なんてなかった。僕の目はずっと、彼女にだけ焦点を合わせ続けていたのだから。
カシャッ。
心地よい機械音が、夏の夜空に静かに響き渡る。
僕の不器用なファインダーの中で、壊れて止まっていた彼女のストップウォッチが、新しい未来に向かって、再び確かな秒を刻み始めた音がした。




