第80話 線香花火と、動き出す時間(2)
神社の裏手は、表の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
僕は結衣が座る縁側の端に、少しだけ距離を空けて腰を下ろした。
「……何しに来たのよ。私、今は蒼太と話したくないんだけど」
膝を抱えたまま、結衣がくぐもった声で言う。
「謝りたくて、探してた。……この間は、ごめん。お前の気持ち、全然わかってなかったくせに、偉そうなこと言って」
僕が頭を下げると、結衣は少しだけ顔を上げ、微かに肩を揺らした。
「いいよ、もう。……蒼太の言う通りだもん。私、走れなくなった自分を認めるのが怖くて、必死に誤魔化してただけだから」
自嘲するように笑う彼女の横顔は、遠くの提灯の明かりに照らされて、今にも消えてしまいそうに儚く見えた。
僕は無言のまま、ポケットから現像したばかりの一枚の写真を取り出し、彼女の隣にそっと置いた。
「……何、これ」
「この前、ひまわり畑で撮ったやつ」
結衣は躊躇いがちに手を伸ばし、その写真を手に取った。
暗がりの中でも見えるように、僕がスマートフォンのライトで薄く照らしてやる。そこに写っていたのは、あの夕立が降り出す直前、突然の雨粒に驚いて空を見上げ、「最悪!」と顔をしかめながらも自然に笑っている結衣の姿だった。
神社の境内で見せた「痛々しい嘘の笑顔」じゃない。目標を失った空虚な顔でもない。ただの、等身大の彼女の飾らない表情がそこにあった。
「お前が無理して作った笑顔、ファインダー越しに見るのがキツかったんだ。走れないお前を直視できなくて、俺の方こそ現実から逃げてたんだと思う」
僕は、今までずっと言えなかった本音を、不器用な言葉でぽつりぽつりと紡いだ。
「でも、この写真を見てわかった。……俺は、グラウンドで誰よりも速く走ってるキラキラしたお前も好きだし、こうして雨に濡れて文句言ってる不格好なお前も、どっちも同じくらい好きだ」
結衣が、ハッと息を呑む音が聞こえた。
「走れなくなったからって、お前の価値がなくなるわけじゃない。お前の時間が止まって見えても、俺はずっとこうしてファインダー越しにお前を見てる。だから……勝手に全部終わったみたいな顔、すんなよ」
沈黙が落ちた。
遠くで聞こえる盆踊りの太鼓の音が、やけに自分の心臓の鼓動と重なって大きく聞こえる。
ポツリ、と。
結衣が手に持っていた写真の表面に、小さな水滴が落ちた。
「……バカ。……蒼太の、バカ」
結衣は写真を胸にギュッと押し当てると、今度は無理に堪えることも、僕を拒絶することもなく、子供のように声を上げて泣き始めた。
「陸上……好きだったのに。私、走ることしか、なかったのに……っ!」
「うん」
「これからどうしていいか、全然わかんないよ……っ!」
「一緒に探せばいいだろ。時間は腐るほどあるんだから」
僕はこれ以上何も言わず、ただ彼女の震える背中を見つめながら、その泣き声が夜の闇に溶けていくのを静かに聞き続けていた。
彼女の目から溢れる涙は、あの日バス停で流した「絶望と拒絶」の涙じゃない。抱え込んでいた重たいものを吐き出して、止まっていた時間をもう一度動かすための、前を向くための涙だと、僕にははっきりとわかった。




