第77話 夕立と、ピントの合わない感情(2)
「降ってくるぞ、走れ!」
その単語を口にした直後、僕は自分の無神経さに激しく後悔した。
慌てて振り返ると、結衣は顔をしかめ、かばうように右足を引きずりながら必死に僕を追おうとしていた。つい数ヶ月前まで、誰よりも速くしなやかにグラウンドを駆けていた彼女が、今は雨の中で不格好に足をもつれさせている。
「ごめん、走らなくていい! 焦んなくていいから!」
僕は踵を返し、彼女の元へ駆け寄った。首から提げたカメラを庇うように背中へ回し、空いた手で結衣の腕を掴んで引き寄せる。そのまま二人で激しい雨の中を急ぎ足で進み、道路脇にポツンと建っていた、古びたトタン屋根のバス停へとなだれ込んだ。
「っあー、最悪! もうびしょ濡れじゃん!」
狭い屋根の下に逃げ込むなり、結衣が濡れた髪をバサバサと手で払いながら大声を上げた。
トタン屋根にバチバチと打ち付ける暴力的な雨音が、僕たちを外界から完全に隔離してしまう。むせ返るようなアスファルトの匂いと、雨に打たれたひまわりの青臭い匂いが、逃げ場のない狭い空間に充満していた。
「カメラ、大丈夫だった? お爺ちゃんの大事なやつでしょ」
「ああ、俺の身体でガードしたからなんとか。……お前こそ、大丈夫か」
「うん、へっちゃら。夏でよかったー、これくらいならすぐ乾くしね!」
結衣はそう言って笑いながら、濡れたTシャツの裾をパタパタと仰いだ。
白い生地が雨で肌に張り付き、下着の輪郭が微かに透けてしまっている。僕は心臓が跳ねるのを感じて慌てて視線を逸らし、自分が着ていた薄手の上着を脱いで、彼女の頭からバサリと乱暴に被せた。
「わっ、ちょっと蒼太、前見えないってば」
「いいから被ってろ。風邪引くぞ」
「なにそれ、過保護なお母さんみたい。あははっ」
上着越しにくぐもった結衣の笑い声が響く。
冗談を言い合って、いつも通りの「幼馴染の距離感」を保とうとしている。けれど、狭いバス停の中で肩が触れ合いそうな距離にいるせいか、やけに彼女の体温と、雨に濡れた甘いシャンプーの匂いが鮮明に僕の鼻先を掠めた。
高校生特有の、ぎこちない緊張感。
けれど、僕の胸をざわつかせているのは、異性としての距離の近さだけではなかった。
「……足、痛まないか」
雨音に紛れさせるように、僕はあえて視線を逸らしたまま尋ねた。
結衣が頭に乗せた僕の上着をぎゅっと掴む気配がした。
「全然。平気だよ」
即答だった。
けれど、その声は雨音に負けてしまいそうなほど頼りなく、細かった。
隣に立つ彼女の横顔を盗み見ると、結衣はひまわり畑で見せていた自然な表情を完全に消し去り、またあの神社で見せたような「無理に笑おうとする」痛々しい仮面を被ろうとしていた。
この激しい夕立に閉じ込められたことで、僕はもう、誤魔化し続けることができなくなっていた。
腫れ物に触るように優しい嘘をつき続けるか。それとも、踏み込んではいけないとわかっていながら、彼女の抱える絶望の蓋を開けてしまうか。
ピントが合わないまま迷い続ける僕の感情を急かすように、ゲリラ豪雨はさらに勢いを増し、バス停の屋根を激しく叩き続けていた。




