第75話 蝉時雨と、止まったままのストップウォッチ(3)
夜。現像液のツンとした酸っぱい匂いが微かに残る自室で、僕は机の上に放り出されたスマートフォンが発する青白い光を見つめていた。
メッセージアプリの画面には、結衣と同じ陸上部に所属しているクラスメイト、美佳からの返信が表示されている。
『結衣の足、かなり悪いみたい。……来年のインターハイ、絶望的だって』
『お医者さんから、もう陸上競技の第一線では走れないって宣告されたらしいよ』
画面に並ぶ無機質な文字の羅列が、ひどく冷たく、残酷な事実として僕の目に突き刺さった。
――秋の大会にはきっちり復活して、また自己ベスト更新しちゃうからね!
今日の昼間、神社の境内でラムネを掲げながら、彼女が放った底抜けに明るい声が耳の奥で蘇る。
あの空元気の裏側で、彼女がどれほどの絶望をたった一人で抱え込んでいたのか。それを想像しただけで、胸の奥を鈍くて重い何かでグリグリと抉られるような感覚に襲われた。
机の上の小さなライトボックスに、今日現像したばかりのフィルムのネガを乗せる。
ルーペを覗き込むと、白黒が反転した小さな枠の中に、境内で笑う結衣の顔が浮かび上がった。反転したモノクロの世界でもはっきりとわかる、あの不自然に引きつった、無理をして作った嘘の笑顔。
僕はゆっくりとルーペから目を離し、視線をそのすぐ隣へと移した。
コルクボードにピンで留められているのは、去年の夏に撮った一枚のカラー写真だ。グラウンドのトラックを全力で駆け抜け、ゴールテープを切った瞬間の結衣。汗と土にまみれ、顔をくしゃくしゃにして笑うその表情には、一点の曇りも、誤魔化しもなかった。
彼女が本当に走ることが好きで、どれだけ陸上に青春の全てを懸けてきたか。ファインダー越しにずっと彼女を追いかけてきた僕が、一番よく知っている。だからこそ、あのストップウォッチを握りしめていた彼女の、魂が抜け落ちたような空虚な横顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
「……嘘つきが」
薄暗い部屋の中で、誰に届くわけでもない呟きがポツリとこぼれ落ちる。
彼女の止まってしまったストップウォッチを、再び動かす方法を僕は知らない。気の利いた慰めの言葉なんて、一つも持ち合わせていない。
ただ、痛々しいほど無理をして笑う彼女の姿を、これ以上ファインダー越しに傍観し続けることなんて、僕には到底できそうになかった。




