第74話 蝉時雨と、止まったままのストップウォッチ(2)
「ひゃっ! 冷たっ!」
ビクッと肩を大きく跳ね上がらせて、結衣が勢いよく振り向いた。
驚きで見開かれた目が僕を捉える。彼女はハッとしたように、膝の上にあった黒いストップウォッチを慌ててトートバッグの中へと隠した。
「……何してんだよ、こんなところで。熱中症で倒れても知らないぞ」
僕が少しだけぶっきらぼうに言いながらラムネの瓶を差し出すと、結衣は一瞬だけ目を丸くして、それから「あはは、蒼太かぁ。びっくりした」と、いつものように太陽みたいな笑顔を作った。
「蒼太こそ何してるの? 相変わらずそのお爺ちゃんのカメラ持ち歩いて、暗い青春送ってるねぇ」
「うるさい。幽霊部員なりに活動してんだよ」
僕たちは神社の石段に並んで腰を下ろした。
結衣がラムネの瓶のフタを手のひらで強く押し込むと、カラン、と涼しげな音を立ててガラスのビー玉が落ち、シュワシュワと炭酸の弾ける爽やかな匂いが夏の空気に混ざった。
「んーっ! 美味しい! やっぱり夏はこれだね!」
喉を鳴らしてラムネを飲んだ結衣が、大げさなくらい明るい声を上げる。
「……部活は、いいのかよ」
ラムネの瓶の底を見つめたまま、僕はできるだけ感情を交えないように、平坦な声で尋ねた。
結衣の足先が、ほんの一瞬だけピクリと固まった。
しかし彼女はすぐに、先ほどよりもさらに明るい、ワントーン高い声で笑い飛ばした。
「あー、足ね! ちょっとお休み中! 顧問の先生が念には念を入れろってうるさくてさ。もう全然痛くないんだけど、せっかくだからこの隙に夏休みを満喫してやろうと思って!」
「……ふーん」
「だから全然、心配無用! 秋の大会にはきっちり復活して、またグラウンドの自己ベスト更新しちゃうからね!」
彼女はそう言って、ラムネの瓶を真っ青な夏空に向かって高く掲げてみせた。
僕は何気ないふりをして、首から下げていたカメラを構え、ファインダー越しに彼女の横顔を覗き込んだ。
レンズの向こう側。そこには、夏の日差しを浴びて、とびきりの笑顔を浮かべる幼馴染の姿があった。
けれど、ファインダーという四角い枠の中で切り取られた彼女の顔には、はっきりと不自然な力みがあった。無理に引き上げられた口角。光を宿していない、虚ろな瞳。
それは僕が知っている「走るのが好きでたまらない結衣」の笑顔ではなく、必死に「元気な結衣」という役を演じているだけの、痛々しいほど作り物めいた表情だった。
カシャッ。
シャッターを切る小さな機械音が、頭上から降り注ぐ暴力的なアブラゼミの鳴き声にあっさりと掻き消される。
「あっ、また勝手に撮った! ちょっと、今の絶対変な顔してたでしょ!」
「安心しろ。お前はいつでも変な顔だ」
文句を言う結衣に軽口を返しなら、僕はゆっくりとカメラを膝の上に下ろした。
カラン、と結衣の手元でラムネのビー玉が涼しげに鳴る。その透明で軽やかな音と、僕たちを包み込むジリジリと焦げるような蝉時雨の暴力的な熱気が、まるで今の彼女の「空元気」と「隠しきれない絶望」の対比のように思えて、僕はひどく息苦しくなった。
「……ぬるくなるぞ、早く飲めよ」
「あ、うん」
ラムネを飲む彼女の横顔を見つめながら、僕は先ほどバッグに隠されたストップウォッチの存在を思い出していた。
タイムを計る理由を失った彼女の時間は、あのストップウォッチのように、あの怪我の日から完全に止まってしまっているのだ。




