第73話 蝉時雨と、止まったままのストップウォッチ(1)
ジリジリと、肌を焦がすような日差しが容赦なく降り注ぐ。
八月も半ばを過ぎたというのに、今年の夏は一向に勢いを衰えさせる気配がなかった。鼓膜をビリビリと震わせるアブラゼミの大合唱が、まとわりつくような熱気をさらに何倍にも増幅させている気がする。
「……あつ」
近所の神社の境内で、僕は首から下げた手ぬぐいで額の汗を乱暴に拭い、深い深呼吸をした。
古い木造の拝殿が落とす日陰に逃げ込み、首から下げていた無骨な銀色の機械にそっと手を触れる。祖父の遺品である、フルマニュアルの古いフィルムカメラ。
写真部の幽霊部員である僕にとって、夏休みなんてものは暇を持て余すだけの退屈な期間でしかない。クーラーの効いた部屋でゲームでもしていればいいものを、どういうわけか、このカメラのファインダー越しに見る「夏」の暴力的なまでのコントラストに惹かれ、こうして時折、無意味に外をうろついていた。
ファインダーを覗き込み、ピントリングを回す。
真っ青な空、もくもくと湧き上がる入道雲、そして境内の大きな楠が落とす、インクをこぼしたような濃い影。
カシャッ、と。
心地よい機械音とともに、一枚のフィルムが巻き上げられる。デジカメみたいにすぐには結果が見えないこの不便さが、今の僕にはちょうどよかった。
ふと、ファインダーの端に、いるはずのない人影が入り込んだ。
「……結衣?」
ピントを合わせ直すまでもなく、そのシルエットには見覚えがあった。
家が隣同士で、物心ついた頃からずっと一緒にいる幼馴染の結衣だ。彼女は拝殿から少し離れた、手水舎のそばの石段にポツンと一人で座り込んでいた。
違和感があった。
結衣は、陸上部のエースだ。夏休みのこの時間なら、真っ黒に日焼けして、グラウンドで泥まみれになりながらハードルを飛び越えているはずなのだ。それなのに、今日の彼女は部活のジャージではなく、白いロゴTシャツにデニムのショートパンツという、見慣れない私服姿だった。
ファインダー越しに彼女の表情を探ろうとして、僕は思わず息を呑んだ。
彼女は両手で何かを大切そうに握りしめ、うつむいたまま、ピクリとも動かなかったのだ。
レンズをズームにして確認しなくてもわかる。彼女が握りしめているのは、陸上用の黒いストップウォッチだ。タイムを計るわけでもなく、ただそのデジタル文字盤を、魂が抜けたような空虚な目で見つめ続けている。
初夏。県大会の予選直前に、結衣は練習中にアキレス腱を痛める大きな怪我をした。
詳しいことは聞いていない。ただ、あの日を境に彼女が部活に行かなくなり、毎朝聞こえていたランニングの足音が聞こえなくなったことだけは知っていた。
(あんな顔、するんだな……)
いつも太陽みたいに笑って、僕を「暗い! 写真部なのに被写体がないってどういうこと!」と引っ張り回していた結衣。
そんな彼女が、木漏れ日の中で、自分の時間が完全に止まってしまったかのようにうつむいている。ストップウォッチを見つめるその横顔は、触れれば崩れてしまいそうなほど脆く見えた。
声をかけるべきか、それとも気づかないふりをして立ち去るべきか。
幼馴染という中途半端な距離感が、こういう時ひどく厄介になる。優しい言葉なんてどうせ嘘くさくなるし、かといって放っておけるほど、僕は大人でも冷徹でもなかった。
「……しゃあない」
僕はカメラを肩に掛け直し、静かに足音を立てないようにして、境内のはずれにある古びた自動販売機へと向かった。
色褪せた赤い自販機に小銭を入れ、ボタンを押す。ガコン、と重い音を立てて落ちてきたのは、昔ながらのガラス瓶に入った冷たいラムネが二本。
表面にびっしりと水滴がついた冷たい瓶を両手に持ち、僕は結衣の背後へとゆっくり近づいていった。
相変わらず彼女はストップウォッチを見つめたまま、周囲の音なんて何も聞こえていないように座り込んでいる。
僕は無言のまま、その無防備な右頬に、キンキンに冷えたラムネの瓶をピタリと押し当てた。




